4
――ビニール袋に腐った魚を入れ、無理やり嗅がされるような悪臭に、僕は嘔吐きながら目を覚ました。
倒れていたのは石畳の上で、頬に冷たさが残る。
辺りは薄暗く、遠くに見える両開きの扉、その隙間から漏れる仄かな明かりだけが頼りだった。
周りを見渡すと、この空間は思ったより広く、円形の広間になっていた。
【
僕のそばには伊吹、少し離れた所に三島さんが倒れている。
「伊吹、大丈夫か?」息があるのを確認すると、三島さんにも同じように声をかけた。
「クサッ! どこだ……ここは?」先に意識が戻ったのは三島さんだった。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、なんとかな。みのりんは生きてるか?」
「怖いこと言わないでくださいよ! 生きてますよっ!」自分の声が大きいことに驚いた。
「すまない」僕をただなだめるかの様にそう言った三島さんは、目を覚まさない伊吹にスマホのライトを当てつつ「少年やってくれたなぁ、ヘアピンの飾りが真っ赤になってるぞ」と意味の分からない嫌味を言ってくる。
【
そのメッセージを受け、僕は伊吹が立ち上がるのを手助けするため、そっと肩を抱きかかえようとしたのだが……。
ガバッと体を起こした伊吹が僕を見詰めながら不気味に笑い出した。
「むひひひひひひ、キョウちゃんだぁぁぁ」
あの可愛らしい顔が歪み、涎やらなんやらを垂れ流している。そして、彼女は僕に舐るかのような視線を這わせた。
「伊吹?」そう声をかけると、伊吹はクワァと瞳を膨らませ舌舐めずり。
「ぐふふふふふふ」そう笑ったと思うと、僕に勢いよく飛び掛かって来た。
「やっぱり狂気に陥ってるようだな、少年頼んだぞ」
三島さんは、伊吹が生きているとわかると興味を失ったのか、辺りを調べはじめる。
「えっ? いや、狂気って……? ちょっと?」
いやいやいや、狂気ってなんだよ、それよりもこの伊吹は危険だろ。
昨日の階段下そのまんまの状況を今は楽しむ事ができない。
モチモチした物体を引き離し、「落ち着け伊吹」と話しかける。
ここまでは同じだった。しかし、違う展開が待っていた。
【
引き離したはずの伊吹がその巨体をまた僕に被せてくる。
その怪力に抵抗できなかった僕は、しょうがなく、あくまでしょうがなく、その柔らかい物体を堪能させられるのだが、伊吹はじわじわ骨を折るような勢いで僕の全身を締め上げてくる。
「キョウちゃん! キョウちゃぁぁぁん!」
「うぐぐぐ、三島さん……」と助けを求めようとするも、なにやら床を調べているようだ。
【
そうこうしてる間にも伊吹は奇声を発し、あろうことか僕の顔をベロベロと舐めだした。
いや、舐めている間は別に、別にその……よかったのだが、そのうち僕の頭をガジガジと齧り出す。
「痛っ、痛い、伊吹!」
必死に抵抗してるうちに、伊吹は頭に齧り付くのは諦めたのか、僕の首筋に噛みつき、吸血鬼のようにチュウチュウしゃぶりついてきた。
彼女はもがき続ける僕にモチモチした体をこすりつけながら幾重にも舐ってくる。時折しゃぶるのを止めたかと思えば、ご満悦な表情を見せつけ再び甘噛みしながらしゃぶりだす。
本気で意味が分からない、仰向けで美少女の唾液まみれになっていると、天井の景色が目に飛び込んできた。
天井、だと思いたかった。
それはゆらゆらと光を乱反射させている、まるで水面のようだ、いやそうではない、水面が天井に存在していた。
【
その中を何かが泳いでいるのがわかる。
明かりが乏しくてよくわからないが、巨大なそれは、人と緑色の
そして、水面から顔をヌッと出し、僕をその爬虫類のような目で睨みつけながら粘り気のある生々しい体液を垂らして来る。
それが顔面にかかり、皮膚が腐っていくような錯覚に陥った。
【
見てはいけないモノを見てしまった恐怖で体がガクガクと震えだす。
たしか伊吹はこの『正気値』に失敗してから、『閃き』を成功させて発狂したんじゃないか?
次は『閃き』か? そんなことを冷静に考えている自分が嫌になってきた。
しかし『閃き』の
伊吹が怪力で締めつけてくれているお陰だろうか?
「若者は盛んだな」倒れている僕たちを見下ろしながら三島さんがそう言った。
「助けてくださいよ」
僕がそう言うと、三島さんは膝をつき伊吹の髪留めを確認する。
「みのりん、もう回復してるだろ? いい加減にしないとナイト君が困ってるぞ」
いつの間にか、髪留めの色が赤から黄色になっていた。
いや、そもそも今日は青い髪留めだったはずじゃ……そんなことを考えているうちに伊吹があわてた様子で離れていく。
「いま回復しました! たったいま回復したんですぅ!」顔を真っ赤にしながら口元の涎を手で拭いて早口で答えた。よかった、大丈夫そうだ。
そして僕たちはここから脱出するため、あがくことになる。
「三島さん、ここは一体?」伊吹の香りにあてられたのか頭がクラクラする。
「わからん、どうやら屋敷の中ではないようだが、地下かな?」
「慶司さん、慶司さん、それで何かわかったことはないのかなぁ?」どこか雰囲気が変わり、頼もしくなった伊吹が三島さんに聞く。
「みのりんが狂気に陥ってる間に調べたんだが、この大広間の床には魔法陣が描かれているな、扉は正面と左右の計3つ、明かりが漏れている正面の扉の前には机のような台がある」
「あの……、あっいえ、天井は見ないでください、気分が悪くなります」
天井のことを聞こうと思ったが、三島さんに伊吹のようになられては厄介だ。そう感じた僕は誤魔化すことにした。
「そう言われると見たくなるんだが……まぁ少年を信じよう」
先ほどまで顔を真っ赤にしていた伊吹が「まほうじんっ! キタコレ!」とうれしそうに床を調べ始める、よほどオカルト的なことが好きらしい。
【
「ふむふむ、これは見事な魔法陣ですねぇ、手書きにもかかわらず定点から均一点の集合体で作られた完璧な円。その中に正方形を折り包み十六角形を醸して、ラテン語と梵字の呪詛により和洋折衷、見事な調節弁の役割を果たしています。しかし何か欠けている感じがしますねぇ、つまり不完全体で、このままだと使えなそうですなぁ」
「相変わらずのソムリエっぷりだな。完成形はわかるか?」
「それは流石にわかんないですぞぉ?」
【
「ん〜、何のための魔法陣なのかもわからにゃい」と続けた。
伊吹の語尾が不安定だ、本当にどうしたんだろう? さっきの正気値ってのが関係しているのか?
そう心配しながらも伊吹に続いて台に近づく、台は木の板を三枚組み合わせた簡単な物で、上には1冊の本と2本のチョークが置かれていた。
【
【
僕はチョークを手にとり、わかったことを二人に説明する。
「キョウちゃん、なんだか探索者みたいだょ」
「本当にな、そんなこと一般人はいちいち報告しない」
そんな二人を無視して本に触れる。
静電気のような痛みが指先に走り、おもわず手を離してしまう。
「なっ、なんだ? この本」
「題名は『ルルイエ異本』。著者名は……書いてないね」伊吹が触れずにそう読みとく。
今度は三島さんが本に触れる、僕と同じく一瞬ウッとした表情になるものの本を開き中を読もうとした。
しかし次の瞬間、突然大声を上げ「クソッ! 目が」と本を投げ出す。
「三島さん!」様子を見ようと駆け寄った。
「水はあるかっ!?」
持っていたペットボトルを渡すと、黒く濁った目を洗浄しながら三島さんが伝えてくれる。本を開いた瞬間、何かが眼球に染み付き始め、目の前が真っ暗になったかと思うと、今度は脳へ侵入され視神経をズタズタ破壊されるような感覚を受けたらしい。
なんだよそれ……声に出さない感情ですら震えて聞こえる。いやだもう帰りたい。屋敷に入った時の恐怖は無理やり映像を見せられているような現実味のないものだった。天井にいるバケモノは舞台装置か何かだと思いたかった。けれど、今ではそれが本物だと理解できる。
僕は頭を抱え込み三度目の恐怖に慄いた。これは妄想ではなく現実だ。僕を騙すためにここまで大掛かりな嘘はつかない。そんなことはわかっていた、だけど……そんな馬鹿な。爺ちゃんが昔よく話してくれた
爺ちゃんの話を聞いていた幼き頃の断片的な記憶がフラッシュバックのように頭をめぐる。
『もし奴らに出会えば恐ろしい体験をするかもしれん』
『だが恐怖には絶対に屈してはいかんぞ』
『自分を死に追い込むばかりか、仲間まで殺してしまうかもしれん』
『だから恐怖には絶対に屈してはならん、真理を追い求め探索を続ける』
『それが探索者というものだ』
爺ちゃん、そんなことを言われても怖いものは恐いよ……!
だけれど、遠い日の懐かしい思い出のおかげか心の膠着はほどけ、今は自分の事よりも目の前で苦しむ三島さんの事が心配になっていた。
「大丈夫ですか?」うわずった声になる。
「あぁ、あのまま読んでいれば失明は免れなかっただろう。クソッ! 何が難易度1だ」
「油断大敵ですねぇ」と伊吹が両手を腰に当てわかったようなセリフを吐いた。それがなんだか可笑しかった。
「本は確保しときますょ」伊吹はそう言うとどこから出したのか手袋をはめ、本を鞄にしまいこみ、正面の両開きの扉に近づいていく。
「おい、伊吹」を急いで追いかける。今は彼女のそばを離れたくはなかった。
正面の扉の隙間からは明かりが漏れていた、ここが唯一の光源なのだが酷い臭いもここが発生源らしい、おもわず鼻をふさいでしまう。
伊吹は耳を扉に近づけ、
【
「蛇口から水滴が落ちる音、それと……寝息?」と言って今度は隙間から中を覗いた。
【
「ウッ!」と突然、伊吹は手で口をふさぎながらその場から離れると、朝食だった物を吐き出した。
「おい、大丈夫か」と長身の彼女の背中を擦ってやる。
「くぅ、キョウちゃんからもらった貴重な正気値が……」
そんな事を呟いた気がしたが、続けて「この世界よりは大丈夫だょ」となぜかドヤ顔で笑った。
「みのりん、何を見た?」
「慶司さん、中は酷い有様です。入るなら覚悟したほうがいいのですょ」
「そうか……他の扉から調べるか」伊吹の忠告を受け取った三島さんは左の扉へ移動した。
さっきの天井のことといい、みんな仲間の言うことを素直に聞き入れ助け合う。年齢や立場も違うのに……これが爺ちゃんの言う『探索者』ってやつなんだろうか?
【
「何も聞こえないな」そう確認した三島さんは、今度は扉を少しだけ開き様子を窺う。
中は暗く、何も見えないようだ。
三島さんは続けてゆっくりと扉を開けていく、片手を上げて僕たちを制していたのだが、一人中に入り気配を探るとその手を下げた。
どうやら何もいないようだ、僕と伊吹もそれに続いて部屋を確認する。
あの臭い部屋からの明かりが届かないため、僕はスマホを光らせた。
三島さんもペンライトを取り出し照らしてくれる。
六畳くらいの小さな部屋にはベッドと机、そして小さなサイドテーブルが置かれており、修道士宿舎のような厳粛なイメージを受ける。
「なんかねぇかな? みのりん頼む」
三島さんが伊吹に声をかけて物色し始める。三島さんがベッド、伊吹がサイドテーブルにとりかかった。仕方なく、僕も机を調べる。
【
急に部屋が明るくなる。
振り向くと伊吹が置かれていたランプをつけたようだ、ドヤ顔で物珍しそうに観察している。僕は気を取り直して引き出しの中を調べる。
【
引き出しの奥の板を外すと一本のナイフが出てくる。
一見して外国製だとわかる奇妙な形で鞘と柄には見事な装飾が施されている。
どうやら、机にはこれだけのようだ。
「おぉ、キョウちゃん、すごいね」
伊吹がサイドテーブルに身を投げ出し、目と口をまん丸にしてこちらを見ている。大きな
「伊吹、お前大丈夫か?」自分の事が解決すると人の事が心配になるのは僕の性のようだ。
「もちろん、この世界よりは大丈夫だょ?」と目を輝かせながらドヤ顔で僕の瞳を覗き込んできた。
この少し変な伊吹は探索時のお決まりなんだろうか? ふと見ると、三島さんが苦笑いしながらベッドを調べている。
そういえば、さっき伊吹の失敗メッセージが流れたのを思い出した。おかしな伊吹を尻目に、僕もサイドテーブルを調べることにする。
【
これ、本当に便利だな。サイドテーブルの下を覗くと、小さな箱がガムテープで底に貼り付けられているのを見つけた。
名刺サイズくらいの大きさのそれをはがして、サイドテーブルの上に置いてみる。
「おぉぉ、キョウちゃん、すっごっぉ〜ぃ」と先ほどと同じセリフを言いながら、自分でもテーブルの裏を確認しだす。
「ランプしかないと思ったんだけどな、おっかしいなぁ〜」
開けてみると、箱の中がサテンの生地で内張りがされているだけで何もなかった。
【
何かに失敗した、何を失敗したのか時々わからないのが地味に痛い。
しかたなく箱を伊吹にも見せる。
【
『閃き』に一瞬身構えてしまうが、伊吹に大した変化はない様だ。
何かに気づけるかどうかの
「うむむむ、この形、何だか鍵っぽいね」
「えっ?」伊吹に話しかけられて我に返る。
「ほら、これ。鍵が入ってたんじゃないかな?」
そう言われるとサテン生地が鍵状に凹んでいる。どこかに鍵があるのだろう。
【
三島さんの方は順調らしい。
「慶司さん、一度話し合おう? キョウちゃん、探索の後は仲間と情報共有する、これは探索者の鉄則なんだからねっ」
伊吹が、僕に伝授するかのように提案した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます