小笠原貞弘君の質疑-八
車内では妻と「どこへ避難するのか」という話になりました。私たち夫婦は生まれも育ちも共に佐久で、それぞれの親も市内に居住しており余所へ行くあてもなかったからです。
私たちは出来るだけ遠くへ避難するために、高速道路に乗り入れることにしました。最寄りのインターチェンジに向かうにしても、大変な渋滞の列に並ばなければなりませんでした。私は、「ああ、みんな高速道路に乗って逃げるんだな」くらいにしか考えていませんでしたが、そうではありませんでした。インター入り口には一般車が乗り入れできないようにゲートバーが下ろされ、「緊急交通路指定路線につき一般車両進入禁止」という表示板が掲げられていたのです。高速道路に乗り入れようとする車が、その看板を恨めしげに横目に睨みながら速度を落として惜しげにその場を通り過ぎざるを得ないので、そのために渋滞は一層酷いものになりました。
妻はやにわに携帯電話を手にしました。私がどこに電話するつもりなのか聞くと、近所で一人暮らしをしている母に避難するよう連絡する、と言い出したのです。私は妻に、義母に連絡しないよう強く言いました。もし義母に助けを求められたら、避難指示区域に反転した助に行かざるを得なくなるからです。そうなればもう一度この渋滞の最後尾に並び直さなければなりません。自動車は決して気密ではないのです。目張りなどの防護措置をする暇もなく家を飛び出しましたので、私は出切るだけ早く避難指示区域から避難したかった。しかし電話をしないように求める私を無視して妻は電話をかけ始めました。私は左手で、妻の携帯電話を払い落としました。私は車内のフロアマット上に落ちた妻の携帯電話を拾い上げると、これを自分の膝上に置きました。電話は通話状態でした。何を言っているのか聞こえませんでしたが、電話は確かに儀義母に通じていました。私は右手で思いきり妻の携帯電話をたたき割りました。妻は身を乗り出して破壊された携帯電話を私から取り上げました。耳に当てて必死に呼びかけていましたが、完全に破壊されて通話できないようになっていたのでしょう。妻は涙しながら私を激しく罵り
次男の激しい鳴き声の合間に、「ママ、祐介が鼻血出してる」という長男の声が聞こえてきました。バックミラーで見ると、次男のマスクが鼻血で真っ赤に染まっていました。妻は後部座席に身を乗り出して次男の鼻に詰め物をして止血しました。
狭い車内に、不信と不安が渦巻いていました。
ようやく佐久を出ようとするころ、避難指示区域を拡大するというニュースがラジオから聞こえてきました。長野県全域が、新たに避難指示区域に指定されたというのです。私は意を決しました。最寄りのインターチェンジには相変わらずゲートバーが下ろされていましたが、私はこれを車で押し破って強引に高速道路に乗り入れたのです。後ろからは何台かの車が私に追従して高速道路に進入してきました。これら後続の車の存在は私に力を与えてくれました。私はひたすら西を目指して走りました。対向車線には自衛隊や警察、道路管理者の車が引っ切りなしに走り去っていきました。警察も混乱していたのでしょう。力尽くで高速道路に乗り入れた私たちの車両には見向きもしませんでした。
こうして私たちは長野県を脱出し、この縁もゆかりもない大津まで走りに走ったのでした。
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