おひとよし

戸賀瀬羊

第1話

 物知りな小説家がいた。

 誰もが知っているというわけではないけれど、小説家として生活が出来るほどには彼の本は売れていた。

「彼の小説は簡単な言葉で書かれているけれどなぜか心に残って、つらい時や苦しい時の支えとなり、幸せな時にもふと思い出す」と人々は言った。

 彼はその知識を周りの人を幸せにするために使っている人間で、そういうところが小説にも表れていたのだろう。

 “いた”というのは、たぶんもう彼は小説を書いていないからだ。

 順を追って話そう。



 ある日彼の編集者がプライベートな相談を持ち掛けた。編集者の家族に関する込み入った話だった。家族は崩壊寸前だったがどこに行っても門前払いで、藁にもすがる思いで、彼の知識を頼ったのだ。

 予想通り、いや予想以上に小説家の回答は素晴らしく斬新で、編集者には思いつきもしなかったもので、編集者は家族の絆を取り戻した。

 そして周りに小説家のおかげだと話した。


 それ以降誰もが彼に、今の事、先の事を聞きたがった。


 未来が見えるわけではないけれど、歴史を知っていて、今の状態を整理し分析し、そして予見する能力に長けていた彼は、占い師のような扱いを受けた。

 数週間後には噂が噂を呼び、彼の部屋の前にはいつも長蛇の列ができるようになった。以前より格段に忙しくなったけれど、彼は人が好きだったから、自分が力になれるならとそれらを無償で受けた。


 ただ世間話がしたくて来る人もいたし、専門家に頼った方がという人もいた。攻撃的な人もいたし、なかなか本題に入らない口が重たい人もいた。

 それでも彼は平等に話を受け付けた。


 そして1年後、小説を書くよりも相談を受けることが増えた頃。

 朝も昼も夜も人が途切れなくなり、彼は最低限の睡眠、最低限の食事で動けてしまう人だったから、休みなく働いて、そして、忽然と私達の前から姿を消してしまった。

 部屋のパソコンには「自分の中から言葉が消えていく」の文字だけ残して、今までの作品のデータも全て消して。


 それ以降彼の消息は分からない。



 そこまで知っている私は誰なのかと思う人がいるかもしれない。最初に彼に相談したあの編集者が私だ。

 私含め彼のために救われた人間は多くいたけれど、彼を救う人間がどこかにいたのか、私は知らない。いないのならばせめて、今度は自分を救う小説を書いていてほしいと、そう思う。

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おひとよし 戸賀瀬羊 @togase

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