第6話 北の秘所
疲れた体に鞭を打ち、細工師は北を目指しました。
暦はこれから満月を迎え、また新月が迫ります。
もうこれ以上、姫に悪行を行わせず、苦しませないためには、新月の夜までに魔女を退治しなければならないのです。
「え? 北の秘所だって? やめときな、兄ちゃん。どう見たってあんた、戦士風には見えないぜ。魔導師さんにも見えないぜ。聖獣の一睨みだけで、命が吹き飛んじまう」
宿屋の主人が引きとめました。
しかし、細工師に後戻りという言葉はありません。
「はぁ、何で命を大切にしない輩が多いのだろう? そんなに力を手に入れたいかね?」
細工師は返事をしませんでした。
力を手に入れたいのではありません。姫の心を救ってあげたいのです。
「はぁ、あんたもだんまりかね? この間の騎士さんもだんまりだったが」
「この間の騎士?」
主人はため息交じりに言いました。
「そうだよ。あれはオシかも知れねぇ。銀の鎧で顔も見せねぇ。強そうだったが、あの小ささでは戦士として認められにくい。力が欲しくなったのだろうねぇ。一昨日、秘所のほうに向かって馬を走らせていったよ」
細工師は慌てました。
一介の騎士に聖獣は倒せません。しかし、万が一先を越されてしまってはたいへんです。急いで部屋に戻ると、二振りの剣を腰に差しました。
ひとつは満月の魔女からもらった銀の剣。もうひとつは鈴鳴り姫からもらった光封じの黒金の剣です。この二振りにはほぼ同じ文様が刻まれておりました。
「新月の魔女から渡されたものです」
と、姫は言いました。
聖獣は、満月の力と新月の力を組み上げて作られた獣です。この二振りの剣が揃えば倒すことができると、姫は教えてくれました。
あとは、細工師の腕次第……ただし剣の腕次第でした。
細工師はすぐに旅立ちました。
一面の氷の原が続きます。
雪の吹き溜まりに馬の蹄の跡を見つけ、細工師の心は急きました。銀の騎士は馬を持っています。もう、秘所にたどりついたことでしょう。
しかし、おそらく心配は無用だと、細工師は自分に言い聞かせました。彼の剣は魔力を秘めてはいないだろうからです。今頃は、聖獣の餌食になっているかもしれません。
そう思って、細工師はおののきました。
聖獣の恐ろしさを想像したからではありません。見知らぬ騎士が聖獣に命を奪われることを望んでいる自分の心に、闇を感じてぞっとしたのです。
冷たい風が心を吹き抜けました。
いつからこのような人間になってしまったのでしょう?
「姫、もしかしたら私の心も闇に囚われているのかもしれません」
細工師は黒金の剣を抱きしめて、その冷たさに泣きました。
やがて氷の山が見えてきました。いえ、山ではなく宮殿です。
北の秘所です。聖獣が宝玉を守っているところです。
細工師は冷たい大きな宮殿にため息を漏らしました。光が当たって輝く様は、人を寄せ付けない孤高の美しさがありました。
あぁ、この輝きを取り入れて姫の胸元を飾って差し上げたい……。細工師はそう思い、とたんに悲しくなりました。
胸元を飾っていた月の石は、魔女に奪われたのか失われて、姫は身につけていなかったのでした。
その時、突然地響きがしました。
細工師は氷に足をとられて、滑って転びました。その向こう、氷が割れてせり上がり、小山のような大きなものが姿を現しました。
今まで誰もその姿を見た者はありませんでした。いえ、見た者はいましたが、あっという間に命を失ったので語ることができませんでした。
氷のように輝く鱗。持ち上げられた長い首。海のような真っ青な翼を持ち、空のような瞳を持つ竜の姿。それが北の聖獣でした。
ごおおおお……。
地響きのような低い声を聖獣は発しました。
氷の中から姿を現すといきなり羽ばたき、空に舞い上がりました。
細工師はその風圧に押され、氷原の上をつつつ、と滑っていきました。慌てて立ち上がろうとして、再び転んでしまいました。
大きく黒い影が、細工師の上に落ちました。太陽が覆い隠されて、急に寒さが厳しく感じられました。いえ、恐怖におののいていたから、そう感じたのかもしれません。
それでも細工師は勇気を奮い起こし、立ち上がると、二本の剣を同時に引き抜きました。
「秘所の宝玉は、私がもらいます!」
震える声で叫んだとたん、聖獣は咆哮を上げて細工師をめがけ、急降下してきました。
細工師はぎりぎりのところで聖獣の鋭い爪から身をかわし、黒金の剣で足に切りつけ、身を翻して銀の剣で指先を切りつけました。
聖獣にとって、初めて味わう痛みだったのでしょう。悲鳴にも似た声をあげて首を振り、再び空に舞い上がりました。
細工師といえば、その風圧に負けてしまい、惨めに氷原を転がっていきました。聖獣が開けた氷の裂け目に落ちる手前で、必死に剣をつきたてて止まりました。
手はすっかりかじかんでいましたが、体は燃えるように熱く感じられました。息は激しくなり、冷たい外気を吸い込んで肺が凍りつくほどに痛みました。
細工師は自分の職業を呪いたくなりました。
もしも戦士であったなら、この圧倒的な力を持つ剣で、聖獣と互角に戦えたかもしれません。
しかし、トンカチで鍛えた腕も所詮は剣には不釣合いでした。
思いっきり振るった銀の剣は空振りし、しかも最悪なことに細工師の手から離れて飛んでいってしまいました。
あっ! と思った時には、細工師の体は宙に浮いていました。凶暴な牙にマントが引っかかり、何度も振り回されていました。目が回りそうなところを残された黒金の剣で狙いを定め、聖獣の口に差し込みました。
手ごたえを感じたとたん、今度は地上に叩き落とされていました。
すごい衝撃を覚え、咳き込むと、口から血が出て雪を染めました。柔らかな吹き溜まりの上に落ちたのが、不幸中の幸いでした。普通ならば、この高さから氷の上に叩きつけられて生きていることはできなかったでしょう。
しかし、細工師は強く背中を打ってすぐに立ち上がることはできませんでした。
聖獣が地表に降り立った振動を感じました。
何度か黒金の剣に手を伸ばしましたが、腕がしびれて持ち上げられません。
細工師は死を覚悟しました。
姫の優しい微笑みが思い出されました。
「あぁ……私を許してください」
細工師はつぶやきました。
ゆっくりと死が近づいてきます。
銀の鱗が首の動きに合わせて波打ち、七色に輝きました。
細工師は、ああ、美しい……と感じました。空のように冷たい両眼も、何と美しいことでしょう。
聖獣は秘所を守るためだけに生み出された生き物です。純粋で穢れなき願いのためゆえ、孤高で美しいのでありました。
それに比べて、細工師は邪な欲望に負けて罪を犯しました。
それゆえに愛する人さえも絶望に追いやって死んでゆくのです。
これが細工師への罰なのでしょうか?
ぼんやりと聖獣の牙が迫ってくる様子を、細工師は見つめていました。
しかし、あとわずかというところで、聖獣は長い首を振り上げました。
気がつくと、聖獣の眼球に小さな矢羽が突き刺さっていました。
その矢羽はあっという間に砕けて落ちて、聖獣の美しい眼球を傷つけることはありませんでした。
それでも聖獣の意識は完全に細工師を離れていました。
憎しみの篭った咆哮を上げ、矢を放った者に向かっていきました。
細工師はやっとの思いで体を上げました。
白馬に乗った銀の騎士が、細工師が飛ばしてしまった剣を片手に、聖獣に突き進んでいくのが見えました。
細工師はかすむ目で黒金の剣を拾い、はいつくばって必死に前進しました。
銀の騎士と北の聖獣の戦いは、火花散るような激しさでした。
ともに互いの攻撃を受け、よろめきあい、それでも果敢に挑んでゆきます。
巨大な力を得ようとする野心が、騎士を戦いに駆り立てるのでしょうか? しかし、両者の戦いはまるで舞いのように華やかで、細工師の心を捕らえていました。
でも……。
明らかに力は聖獣のほうが上でした。
このままでは、あの騎士は細工師と同じ運命をたどるに違いありません。
細工師は最後の力を振り絞り、近寄ったところで立ち上がると、黒金の剣を聖獣のわき腹に突き立てました。
聖獣にとっては予想外の攻撃でした。悲鳴をあげ、翼をわき腹の下に丸め込むと、細工師を思い切り弾き飛ばしました。
細工師は氷原に強く叩きつけられてしまいました。
そして、すっかり気を失ってしまったのです。
どのくらい時間が経ったのでしょう? やや温かな感覚で細工師は目覚めました。
銀色の甲冑が目に入りました。どうやら、あの銀の騎士です。
口を開こうと思いましたが、声を出すことはできませんでした。
助けられたのだ……と思いました。
何か美しい光が、銀の甲冑に反射して煌いています。その正体を知って、細工師は驚きました。
細工師の胸元に宝玉がかざされていました。
その光が冷え切っていた体を温めてくれていたのです。
わずかに解放された魔力が、瀕死の細工師を癒しました。
あぁ、ありがたい、と思いました。
お礼を言おうとして、細工師は冑の向こうにある騎士の顔を見ようとしました。
覆いを下ろしているとはいえ、視界を確保する隙間から目の色ぐらいはわかるはずです。
しかし、そこには闇があるだけでした。
いくら目を凝らしても空虚な闇。鎧の隙間から見えるべき腕も足も何もありません。
細工師は息が詰まりそうになりました。
銀の騎士は身体を持ってはいませんでした。
ただ鎧だけで存在している魔物でした。
あまりの恐怖に、細工師は再び気を失ってしまいました。
次に気がついたときには、細工師は先日寄った宿屋にいました。
主人に手厚く看護されて、命はとりとめたようです。
「銀の騎士さんがあんたを運んできなすったんです。で、さっさといっちまったよ。あぁ、でも助かってよかったねぇ」
主人の言葉に細工師は飛び起きました。まだ胸が痛みます。
魔物に心はないはずです。同情などで人助けはしません。
さては……と思い、荷物を確かめると、すべてありました。二振りの魔剣も無事でした。
しかし、宝玉はありません。
銀の騎士が細工師の胸にあてがった、あの石こそ、北の秘所に眠る宝玉だったにちがいありません。
無理を押して再び訪ねた北の秘所には、すでに残骸となった氷の宮殿跡があるだけで、聖獣の姿も何もなく、冷たい風が渡るだけでした。
細工師は、とぼとぼと東の山の姫のもとへ戻るしかありませんでした。
新月の魔女の山へ向かう途中、大きな翼竜が降りてきて、一気に細工師を山まで運びました。
姫が魔女と同じ力を使うのは辛いことでしたが、体中怪我だらけの細工師にとってはありがたいことでした。
しかし、宝玉は銀の騎士に奪われてしまい、それを説明するかと思えば身を切られる思いでした。
細工師をそわそわと部屋に引き入れた鈴鳴り姫は、案の定、細工師の話を聞いているうちにだんだん機嫌が悪くなり、ついに怒鳴りだしました。
「あなたは、命に代えても私を救い出してくれるのではなかったのですか? そのような魔物に宝玉を奪われるなんて、あぁ……私はもう死んでしまいたい!」
姫はベッドに崩れ落ちると、大きな声を上げて泣き出しました。
予想はしておりましたが、姫のあまりの反応に、細工師は立ちすくむばかりでした。
そこに、細工師の傷を心配する優しさはありません。民人の冷たい仕打ちにも笑顔で耐え忍ぶ、あの強さも消えうせました。
それを責めることは、細工師にはできませんでした。
美しい姫の心を闇に染めたのは、自分の所業なのですから。
今は、罪を悔い改め、姫を救い出すことだけが、自分に与えられた使命でした。
翌日、細工師は南の秘所を目指して旅立ちました。
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