第5話 東の山

 東の山の裾野には、どろどろとした沼が広がっておりました。

 今や常に闇夜になってしまったこの国では、昼間の時間だというのに、沼から亡霊が現れて、手招きをするのです。

 数え切れないほどの亡霊が、沼よりふわりと現れ、すっと再び沼に消えてゆきました。細工師はできるだけ見ないよう、恐怖と戦いながら沼地を進んでいきました。

 亡霊はゆらゆらと美しい貴婦人の姿をとったかと思うと、細工師の頬を撫でたりして誘惑しようとします。

 しかし、どういうわけか細工師に触れたとたんに悲鳴を上げて骸の姿になり、沼の中へ消えてゆきました。

 細工師はほっと息を吐きました。沼の深みにはまったら、彼らと同じ死者になってしまうでしょう。

 何度も恐怖で叫びだしたかったのですが、声を上げたら呼びかけに答えたと思われて、引きずり込まれてしまうのです。

 しかし、さすがに亡霊が苦しそうな鈴鳴り姫の姿をとった時、細工師は声を上げそうになりました。姫は、この沼の亡霊となって苦しんでいるのだと思い込んでしまったのです。

 寸前で胸の奥にしまいこんだ銀の鈴がチリンと音をたて、姫の姿をとった亡霊を本当の姿に戻しました。邪悪な魔導師の骸が沼の底へと引き込まれて消えました。

 あぁ……と、細工師は心の中で叫びました。

 このような小さな鈴にも大きな力が宿っているのです。それに比べて、自分は何と情けないのでしょう? 

 姫の姿を見ただけで、心が乱されてしまいます。

 そして、所詮は魔導師の化けた姿だというのに、姫の姿を追って沼の底を未練がましく覗き込んでいる自分がいるのでした。


 魔女の住まう岩屋は、尖った山の頂上にありました。

 黒々とした尖峰は、灰色の空を突き刺すかのようにそびえていました。かなり急な階段が果てしなく目の前にあります。

 両手両足を使わなければ、とても登れそうにありません。もしも足を滑らせたなら、命はないでしょう。

 しかし、岩屋には姫がいるはずなのです。細工師は躊躇することなく登りはじめました。

 階段を作っている岩はまるで氷で、渡る風はナイフのように冷たいのでした。

 細工師は何度も休憩し、そのたびに指先に息を吹きかけ温めなければなりませんでした。指先はひび割れ、血が噴出しました。凍傷になって指先が腐ってしまえば、もう美しい装飾品を作ることはできません。

 でも、この世の中に姫ほどの宝があるでしょうか? 作りだせない大事な宝です。 細工師はさらに上へと登っていきました。


 階段を登り始めて三日目でした。

 下を見ると目が回りそうな高みまで達しました。細工師は凍えた手で満月の魔女からもらった乾パンを食べていました。

 すると、どこからともなく小さな翼竜が現れて、攻撃を仕掛けてきたのです。

 一匹二匹のときは、剣を引き抜いて威嚇しました。しかし、さすがに数え切れないほどの数になると、追い払いきれません。しかも、剣を振り回す反動で何度もバランスを崩し、落ちそうになります。

 細工師は、やむなく階段にかじりついて、体を丸めて耐えるしかなくなりました。

 マントはずたずたにされました。腕や足にも鋭い爪が当たり、痛さに悲鳴を上げそうになりました。

 このままでは、やがて階段にしがみついていることも困難になり、まっさかさまに落ちてしまうでしょう。そして、亡霊となって沼の住人となってしまうことでしょう。

 突然、細工師は気がつきました。必死に攻撃に耐えながら荷物の口を開くと、中から乾パンを取り出してすべて捨てました。

 乾パンはハラハラと宙を舞いながら落ちてゆきました。と、同時に細工師を攻撃していた翼竜たちが、ギャーという汚い声を上げたかと思うと、たちまち急降下して乾パンを追いかけて行きました。

 その塊は、巨大な黒い竜のような姿になり、やがて消えて見えなくなりました。

 こうして細工師は助かりました。しかし、食べ物はすべてなくなったのです。


 四日目、細工師はやっと岩屋にたどり着きました。

 暦の上では満月が近いせいでしょうか? 岩屋の中はしんとしていて、魔女の邪悪な気配は感じられませんでした。

 それでも細工師は銀の剣を抜き、構えながらゆっくりと岩屋の奥へと進みました。

 岩屋は薄暗くて不気味でしたが、満月の魔女のところとほぼ同じつくりです。違いといえば左右が反対なことくらいでしたので、細工師は迷わず奥に入ることができました。

 進んでも魔物のひとつも出ず、音もなく、細工師はかえって不安になるほどでした。

 やがて山の頂上部にあたる最後の部屋まで達してしまいました。

 そこに姫と魔女がいるはずです。細工師は勇気を振り絞り、剣を握りなおして扉を開けました。

 天井の尖った小さな部屋でした。

 正面に岩をくりぬいた窓があり、灰色の空が広がっています。かすかに翼竜のしゃがれた鳴き声が聞こえました。

 そして、窓辺に人影がひとつ。

 闇色のマントは新月の魔女のものでしたが、かすかな蝋燭の光に照らし出された髪は金でした。

 細工師は胸が詰まりそうになりました。

「姫……」

 振り返ったその姿は、紛れもない鈴鳴り姫でした。サファイヤの瞳を震わせて彼女は細工師を見つめました。

「あぁ……お待ちしておりました」

 姫はそう叫ぶと、細工師の胸の中に飛び込みました。

 銀の剣が床に落ち、しばらくカタカタと音を響かせる中、二人は固く抱き合って、唇を重ね合わせました。

 

 細工師は今までの苦労をすべて忘れました。

 いえ、それよりも、いとも簡単に姫を見つけ出せた幸せに感謝したくらいでした。

「さあ、早くここから出ましょう。新月の魔女が戻ってこないうちに」

 夢にまで見た姫の美しい頬に触れ、伝わる涙を拭きながら、細工師は言いました。

 しかし、姫は悲しそうに首を振りました。

「いえ、それは無理なのです。私には呪いが掛かっていますので」

「でも、ほら。ここに失われた銀の鈴が」

 盗んだとはさすがに言えませんでしたが、細工師は恐る恐る胸の奥から鈴を出しました。

 それを見たとたん、姫は恐怖に顔を引きつらせて細工師の手を振り払いました。

「だめ! だめです。今の私は新月の魔女の手先なのです。すでに闇に染まった私には、銀は命を削ってしまいます!」

 意味がわからず、細工師は困惑したまま、呆然と立ち尽くしてしまいました。

「早くそれをしまってください!」

 眉をひそめて姫は叫びました。


 闇に囚われた姫は、新月の夜、魔女とともに悪さを働きに国中を飛び回ります。そして満月が迫る頃、少しだけ自分を取り戻し、恐ろしい所業に涙する毎日なのでした。

 姫の優しい心が後悔に染まる日々を思って、細工師は胸を詰まらせました。

「どうすればあなたを助けることができるのですか!」

 それもこれも、原因は自分の罪にあるかと思うと、心が張り裂けそうでした。

「魔女の呪いを解くためには、魔女を殺さなければなりません。お願いです。憎い新月の魔女を殺してください」

 姫の口から「殺す」という言葉が出たとき、細工師は悲しくなりました。

 花も手折れないような優しい心をもった姫の口から、そのような言葉を聞きたくはありませんでした。しかし、それは呪いのせいなのです。

「あなたを救い出すためならば。姫」

 細工師は剣を拾いました。自分にはふさわしくはない立派な剣でしたが、それに似合う自分になろうと決めました。

 しかし、姫は冷たい言葉で言いました。

「その剣では、魔女は殺せません」

 闇に囚われた顔を伏せて、姫は言葉を続けました。

「魔女を倒すには魔力が必要なのです。お願いです。北と南の秘所へ出向き、その剣で聖獣を殺して! そして宝玉を奪ってきてください」

 姫の言葉に、さすがの細工師も身を引きました。

 なぜなら、聖獣と戦って生きている者はありません。そして、聖獣が守っている宝玉はこの世界を破壊するほどの力を秘めていると言われているからです。

 姫は細工師に詰め寄りました。

「あれは、魔女の力そのものです。新月の魔女の力を奪い、満月の魔女の力を解放するのです。そうすれば新月の魔女を滅ぼすことができるのです」

 面を上げた姫の目には大粒の涙が光っていました。

「お願い……。私を助けて」

 あまりに悲痛な姫の声に、細工師は再び姫を抱きしめました。

 華奢な体を包む邪悪な闇のマント。そして胸元には細工師が贈った月の石はありませんでした。

 あまりに似合わない姫の有り様に、細工師の胸は痛み続けました。

 この愛しい人を救うためならば、何事も恐れはしない。

 細工師は心を決めました。

「あなたを救い出すために、私は力を手に入れましょう」

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