第3話 裸族と魔女
屋敷の中は正に映画なんかに出てくる西洋の城。正面からだとそれほどでもなかったけど奥行きが広い。長い廊下には立派な絨毯が敷かれ、壁にはよく分からない絵画が飾ってあった。
一定間隔に花瓶が置かれ、生花が活けてある。
言われるままに入ってきたけど、まだ会ったばかりの女の子の家に上がっているんだよな、僕は。
普通に考えればステキな事だけど、あまりに現実離れした展開に僕はただ戸惑うばかりだ。
小さいけど、結構かわいらしい女の子が凄い金持ちで、僕を家に連れてきた。それが意味する所は……、と考えを巡らせるよりも早くエリザは突き当りの扉をぎいっと開く。
扉の先は壁が一面窓になった広い部屋だ。二階まで吹き抜けた天井まで並んだ本棚。大きなテーブルに甲冑まで並んでいる。
応接間かな? ここで両親とご対面?
「我の部屋だ。ゆっくり
へえ……、ってええ!?
部屋? ここが? 何かの冗談? と周りを見回しているとエリザは服を脱ぎ始めた。
ってちょっとおぉぉぉ!!
「何やってんのお!」
僕は目を覆って叫ぶ。指の間から見えるエリザは、からかっているのではなく本当に全裸になっているようだ。背を向けているから主要な部分は見えない。
いや、覗いてるんじゃないぞ。ちゃんと下の方が見えないよう調整しているんだ。
これは夢か? 僕は悪い夢を見ているのか? いやそんな悪くもないんだけど。
まだ会ったばかりだというのに、いきなりそんな。男女が逆なら大問題、いやこのままでも十分問題だ。
僕にだって選ぶ権利が、いや僕は相手を選りすぐるような身分でもないわけで、ここで言う選ぶ権利というのは獣になるか否かを選ぶ権利の事で、でもそんな事選べるならそもそも獣などとは呼ばない。
男である以上、種の保存の本能には逆らえないわけで、いわばこれは神が定めた感情で、それに逆らう事はすなわち神に逆らう行為なわけで、ここで行かないのは神に対する冒涜とかそういうのではなく、いかに僕が堅固な意思の持ち主でも神の意思には逆らえない。
そう、これは僕の意思ではなく神によるもの。僕は精一杯の抵抗をしたんだぞ。
と混乱する頭で、目の前にかざした手を少しずつ広げていく、と同時に目を細めてしまうのは僕の気の小ささ故なのか。
「何をしておる。我らの間に隠す物など何もない」
それよりこれを塗ってくれ、とハンドクリームのような物を渡された。
エリザは既に手に取っていたようで、両手をすり合わせて伸ばし、自身の体に塗り始める。
背中に塗ってくれという事か。
同時に
これは……、エリザの匂いだ。この膏の匂いだったんだ。
ハーブのような香料のような、嗅いでいて気分が落ち着く匂いだ。
エリザの髪から香ってきたものよりも濃度が高い。少しむせるように感じながらも、魅入られるように香りに浸ってしまう。
エリザは僕の様子には構わず、香りをすり込むように二の腕や脇の下を撫でる。
お腹や胸回りに丹念にすり込むのを見ながら呆然と立ち尽くしていると、そんな様子に気付いたのか、後ろ手に髪を束ねて前に流し。背中を開けた。
髪が邪魔で塗り込めないと思ったのか。しかし露わになったうなじは余計に僕の顔を熱くさせた。
だけど不思議と変な気持ちは湧いてこない。膏の効果だろうか。僕はぼうっとする頭で取り憑かれたように
恐る恐るエリザの背に触れると、思った以上の温かさと柔らかさに驚き、もう何も考えられなくなった。
ビーチでサンオイルを塗っているのと同じだ。自分にそう言い聞かせながら無心に手を動かした。
一通り塗り終わるとエリザは「ご苦労」と言いながら振り向く。
突然の事だったので目を閉じる事も出来ず固まってしまう。
エリザはそんな僕に構わず、軟膏を取り上げて残りの箇所にも塗り始めた。
次第に思考力を取り戻し、今更ながらな事を言ってみる。
「で、でも。こんなとこ、家の人に見られたら」
「心配ない。この屋敷にいるのは汝と我だけだ」
誰もいないの? それはまたスリリングな。
ひとしきり塗り終わると、エリザは手足を乾かすように少し振り、壁一面の大きな窓から日光を浴びる。
外から見えないのかな? 窓の向こうは庭みたいで一面の木々だけど……。
窓の向こうに目を凝らしていると、空から何やら黒い影が飛んできた。その影は翼をバタつかせながら窓の空いている部分から部屋に入ってくる。
カラス? にしては小さい。九官鳥か。
九官鳥は広い室内を旋回して降りてくると、エリザの差し出した手にとまる。
「その九官鳥も、エリザが飼っているの?」
「何を言う。マリウスにはもう会っているではないか」
マリウス? と九官鳥を見ると、その目が赤い。九官鳥の目ってそんなんだっけ?
そしてその目がすうっと細められる。背筋が寒くなるのは確かにさっきと同じだけど、さっきの黒猫が九官鳥に変身したとでも言いたいのだろうか。
本当はマリウスという名前の動物をたくさん飼っているんじゃないか? 近所に住んでいたおばあちゃんが飼っている猫もみんな「ミーちゃん」だったしな。
九官鳥はエリザとひそひそ話をするように顔を近づけていたが、その手から飛び立つと窓から外へ出て行った。
エリザはそれを見送ると、振り向いて部屋のすみへと歩いていく。
それにしても、見た目小学生くらいだと侮っていたのに、なんて大きさだ。僕は何気ない風を装いながらもちらちらと胸を見てしまう。
エリザは冷蔵庫や棚を開けると、何やら取り出して調合を始めた。
何種類かの白い粉を混ぜ合わせて大きなコップに入れ、更に白い液体を入れる。
そして僕を手招きすると、ちょいちょいとコップを指さした。かき混ぜろという事らしい。
釈然としないものを感じながらもシャカシャカとかき混ぜる。
「我が血統に古くから伝わる秘術でな。『ばすとあっぷ』に良いと言われておる秘薬だ。今は手に入らない材料も多いのだが、成分を調べて近い物を集めて再現してみたものだ」
かき混ぜながら粉の入った箱を見ると、スキムミルクとかプロテインとか書かれている。白い液体は牛乳じゃないか。しかも全部英語だ。確かに僕にも分からない材料も混ざっているみたいだけど、
「これってただのサプリメントじゃないの?」
「そうとも言っていたな。我は効果さえ同じなら呼び名などどうでもよい」
とコップを手に取ると豪快に一気飲みする。
反り返っても全く形を崩さないモノに、それもそうかと納得できる部分はある。
「それより、もう服着たら?」
「我は家ではいつもこうだ」
裸族というやつ? それとも住んでいた所の風習なのかな? だとしたらドキマギしていた僕がバカみたいだけど、もしかしたら本当にエリザに他意はなかったのかもしれない。
「では、本日の裁判を
裁判?
「あの……。僕、何かした?」
したと言えばしたんだけど。裁判沙汰になれば確かにヤバイ。でもエリザの方から誘ったんだし……、というのは裁判にかけられる男はみんな言いそうだ。
あたふたしているとエリザは端末を見せる。
「これは学校の『ほうむぺえじ』だ」
よくあるやつ? 僕はあまり人の陰口とかが好きではないので、そういうサイトは見ないようにしている。
「我らの魔術は世の為にある。ここで皆が困っている事を探して解決してやるのが我らの務めだ」
我らって僕も入ってるの?
「今持ちきりなのは、社会科の教師が皆の気分を害しておるそうな」
要するにキモイって事ね。授業の後女子達が言ってたよ。男子からしてみれば厳格な堅物という印象だ。かなり嫌味な所はあったけど、教師にはよくいるタイプで取り立てて話題にするほどじゃない。
「そんなんでいちいち呪っていたら教師はみんな呪いの対象だよ」
もちろん事実関係を確認してからだ、とエリザは端末をカチカチといじる。いつものサイトを見る操作とは違うようだ。
「これは一応衛星電話なのだぞ」
そうなの!? ていうかそんなもの売ってるの? 普通なら苦笑いする所だけど、この屋敷を見た後では信じてしまいそうになる。
「マジナイで情報を規制させたのは教えたろう?」
三人には学校のみんなのツブヤキが届かないようにしたとか言ってたやつだよね。ホントにそんな事出来るとは思えないけど。
「それ自体は我の仕事ではなくてな。その類の魔術に長けた友人に依頼したのだ」
「ほ、他にも魔術師がいるの?」
その意味はキミ以外にもそんな変人がいるのか? なんだけど。
「裏では世界的にも有名だぞ。もっとも表向きは『はっかあ』と呼ばれてるがな」
裏なのに表向き? でも、ハッカーって事は……。やっぱりハイテクなのか。
『やあ、エリザ。昨日のマジナイに何か問題かい?』
端末から合成されたような声が発せられる。通話じゃないのか。向こうはチャットをしているのかな。
「問題ない。カリユガ、今日は別の件での依頼だ」
カリユガってのが相手の名前か。魔術師らしくないと言うか、そもそも何語なんだろう。
『これはまた高い頻度だねぇ』
「新しい土地に来たばかりで大忙しなのだ。ほれ、これが我のスレイブだ」
と端末をこっちに向ける。カメラに映してるんだろうか。また端末を自分の方に戻すエリザに、
「あ、あの。カメラ映ってるの? キミ、その……」
裸じゃ……、と小さく言う。
「心配ない。カリユガは女人の裸体などに興味はない」
そういうもの? やっぱりコンピューターばっかり相手にしている変人って事なのかな。音声は中性的でどちらかと言うと少年のようだけど。向こうに座っているのはオタクのおっさんなのかな。
『分かった。調べてみるよ。2分と16秒待って』
随分具体的だな。
「あの社会科教師は女子をいやらしい目で見ていると言うからな。その視線は我も感じていた」
そりゃ、エリザは目立つからね。初めて見れば誰でも釘付けになる。
「だからあの教師の素行を調べてもらっているのだ。あの男の性癖を示す証拠が出れば有罪だ」
しばらくして端末からチャイムのような音が鳴る。
『揃ったよ。中村 義則、46才。О型。妻子持ちで前科は無し。生真面目な所はあるが仕事の評価は悪くない。生徒の評判はよくないけど、指導の厳しさによるものだと職場では判断されている』
その他学歴や職歴。通ったジムや会員になったレンタル店など、続々と情報が出る。
借りた事のあるビデオも難しそうな物ばかりだ。
『一見なにも問題なさそうに見えるけど、彼のパソコンからこんな画像が出てきた』
端末に表示されたのは女子学生の着替えシーンや、それ以上にきわどいもの。こ、これは……。
「うむ、有罪確定だな。呪詛で処刑する」
処刑って……。でもこれはかなりエッチで、教師が隠し持っていると保護者に知れたら大問題だろう。
「イモリの目玉の呪詛で目を焼いてくれようか」
「ちょ、ちょっと待って。これ、先生が盗撮したわけじゃないんでしょう?」
『そうだね。どれもネットから落とせる物ばかりだ。中には際どい物もあるけれど、通報した所で大した罪にはならないよ。彼の社会的地位を落とすのには十分だろうけどね』
「でも、それはあくまで個人の趣味じゃない。誰だって人に知られたくないプライベートな部分くらいあるでしょ」
「他の者に言えないような、若い女子の裸体を眺めて悦に入っているのだぞ。それだけで人として罪を償うべきものだ」
『その理屈で言うならここにいる君のスレイブが最も罪深い事になるけどね』
いや僕は悦に入っているわけじゃ……、そりゃ嫌な気はしないけれど。
「我がスレイブは、今ここでこうしている事を皆に公言しても何も問題はない」
「大アリだよ!!」
「少し違ったか。文句を言う権利はない」
権利ちょうだい!!
「と、とにかく。まだ何も問題を起こしてないなら処刑はマズイんじゃない? ただ疑わしいというだけで、刑に処するのは、中世の魔女狩りと同じだよ!」
魔女狩り、という言葉を聞いて興奮気味だったエリザの動きがピタリと止まる。
「エリザ言ってたよね? 魔術は人の為に使うんだって。先生だって人なんだ」
エリザは少し考え込むように俯く。
「そうか。我は魔術を間違った事に使う所だったのだな」
今までも結構間違っていたかもしれないよ?
「……処刑は無しだ。手間を取らせたなカリユガ」
また用があったら呼んでね、とカリユガはあっさりと通信を終える。
まだまだ未熟者だと嘆くエリザの後姿を見ながらやれやれとため息をつく。つい熱弁を振るってしまったが、こんなの女の子の独りよがり妄想じゃないか。ホントに目を焼かれる訳じゃあるまいし。
「借りが出来たな我がスレイブ。我は恩には誰であろうと必ず報いる」
じゃあ何かお返しをしてよ……、ってもう十分もらっている気もするけど。
「ねえ、ホウキ使って空飛べないの?」
まだ自分を魔術師だと言うのなら、と少し意地悪な気持ちで聞いてみる。
「絵本でも見たのか? 伝承に残っている魔女がホウキに乗って飛ぶ姿は、棒を股に押し付けて淫らな満足感を得る行為が誤って伝わったものだと母が言っていたぞ」
「そ、そうなの?」
僕は自分で振っておいて恥ずかしくなる。
「もっとも魔術師は棒状の道具を浮かせて飛ぶ事が出来たから、ホウキに乗って飛んだ魔術師もいただろうが、杖の方が身近だと思うぞ」
「そ、そうだね。それにあんな飛び方じゃ股が痛い……」
「それは違うぞ。魔女は体に軟膏を塗って、体を軽くして飛んだから、別に
「……そうなんだ」
「飛びやすい素材を探したり、何日もかけて軟膏をすり込んだり手間がかかるからな。飛ぶだけなら飛行機に乗ればいいし、移動したいなら移動魔術があるし、空から地上を見たいなら幻視魔術がある。我も経験の為に飛んだ事はあるが、風は強いし寒いし落ちたら痛い、何もいい事はない。いずれにせよホウキに跨って飛ぶなど乱れた行為、黒魔術師のやる事だ」
そう言われるとなんかヒワイな気もしてくる。
「でも汝があまりに奨めるので、満足感というものに興味が出てきた。それだけなら黒魔術ではないから試してみようか?」
「いや、それはやめよう!」
「何はともあれ、先の失態を母に知られていたら笑われる所だった」
感謝する、と手を僕に向かって伸ばす。
頭を撫でてくれるんだろうか、と傾けるとそのままワシづかみにされてぶちっと引き抜かれる。
「あいたっ、何すんだよ!」
エリザは構わず背を向けて、ゴソゴソと棚を漁る。
「これは我からのささやかな礼だ。受け取るがよい」
と言って差し出したのは棒状の金属。
古めかしく年季が入っているそれは所々錆びたり傷がついたりしているが、かなり丈夫そうだ。鉄製かな?
半メートルくらいで片方の先端が直角に曲がり、両の先は小さく二股に割れている。
何かの魔術道具だろうか。こんなのは見た事もない……事もないな。日曜大工なんかに使う釘抜き、俗に言うバールというやつだ。馴染みがある物ではないけれど。
これを僕に? と訝しげにエリザを見る。
いつものすまし顔だけど目が笑っている。からかっているのか?
くれるというのに突き返すのも何だからもらっておくけど、こんな物剥き身で持ち歩いていたら怪しいだろう。
スレイブが寝泊まりする小屋を用意しようかと言うのを丁重にお断りする。
思い描く展開に限りなく近いようでかなり違うようだし。結構遅くなったので、あまり変な展開にならないうちにとっととおいとまする事にした。
鞄に主婦がカゴから出すネギのようにバールを差し、すっかり暗くなった道を歩く。
家とはこの世で唯一安心できる空間だという人もいる。僕もそれには賛成だ。
だけど、僕はあまり家にいるのが好きではない。別に両親が厳しいわけでも険悪なわけでもない。
むしろ一般家庭よりは良好だろう。ご飯はあるし、雨を凌げる屋根もある。僕にはそれで充分なんだけど……、と考えているうちに家に着く。
小さいが一軒家だ。
少し遠巻きに中の様子を窺い、静かである事を確認すると玄関へと足を向ける。
その時、角の茂みに何か光る物が見えた。
なんだろうとよく見るとそれは赤い、二つの玉。猫にしては小さいそれは……、真っ黒いカエルだった。
その目がすうっと細められる。さすがにぞっとして慌ててドアを開ける。
あんな種類のカエルいるのかな? やっぱりアレも? アレなの?
ぎいっと軋むドアをいつもの習慣でそっと閉める。
「おう、お帰り。随分遅かったな」
友達の家に行ってて……、と靴を脱ぐとさっそく友達ができた事に両親は喜ぶ。
父親は立派に禿げた頭を撫でて食卓に着いている。そこへ細い体をした母親が簡素な食事をテーブルに運んでいた。
兄弟はいない。僕はこの三人で、この決して立派とは言えない家で暮らしている。
持ち家なのだから贅沢と言えばそうなんだけど……。
「春先だと言うのにまだ寒いな。今年こそエアコンを直せるといいな」
父が努めて明るく言う。
「私がまたパートに出られればいいんですけどね」
母が力なく咳をする。
「バカを言うな。お前は産まれつき体が弱いんだ。大人しく家にいろ」
静かだが強い口調で言う父を微笑ましく思いながら食卓をつついていると、突然玄関のドアが激しく叩かれた。
驚いて箸を取り落す。
振動が壁まで走り、パラパラと粉が振ってくる。父は壊される前にと言わんばかりにドアに向かったが、鍵の壊れる音と共にドアは勢いよく開いた。
相変わらずボロだな……、とぼやきながら大柄の男が二人、どかどかと無遠慮に入ってくる。
僕と母は脅えたように奥に引っ込んだ。
「何しに来たのか言う必要はないよな」
男の大きい方がどっかと座って言う。
「分かっております。ですが分って頂きたい。今返せるお金はありません」
父は正座し、きっぱりとした口調で言う。
畏まるというより、武道家がする正座のように威厳がある。
父も小柄ながら元はカラテで国体まで行った身。腰の座りでは負けていないが、相手はそんな者達から取り立てるのにも慣れているようだ。
「今の取引がうまく行けば、まとまったお金が入るのです。どうか、それまでお待ちを」
「前にも、んな事言ってたよなあ。なあ奥さん、言ってたよなあ!」
母は小さく肯定する。
僕はそんな母の肩を抱くように手を添えた。
「今無いんならしょうがねぇ。この家、抵当に入ってるよな。家はボロだが土地は結構広いんだろ」
「今しばらく、お待ち願えないでしょうか」
「いいぜ。その間、奥さんに働いてもらうけどな」
男達はいやらしく笑い、母が身を固くする。
男が立ち上がろうとすると、父が腹を括ったとばかりに身を固くするのが僕にも分かった。いざとなったら僕だって……、と拳を握り締める。
が大きな男は立ち上がろうとした姿勢のまま、顔を歪める。
「む、むむ」
苦しむというよりは何かに耐えるように歯を食いしばり、全身から汗を掻き始めた。そして地響きのような音が部屋に響き渡る。
これは……、腹の音。
「お、おお……」
男の顔はみるみる青ざめていき、もう一人もアニキ? と訝しむ。
「お、おい。トイレを借りるぞ!」
あ、トイレは……、という父の言葉を聞く様子もなく、男はトイレに駆け込んだ。
すぐに聞くにたえない音が響き、舎弟はバツが悪そうな顔をする。
「あの……、トイレはよく詰まるので」
という父の言葉を「もんなもんお前らで何とかしろ」と突き放すが、嫌な音はなかなか止まらない。一体どれだけ出してるんだ? と僕も心配になる。
ようやっと「ふう」と息をつく音と共に静かになる。
「掃除はお前らでしろや。そのかわり、今日はこれで帰ってやる。また明日来るからよ」
うちは和式なんだぞ。
「くせぇ、にしても窓もねぇなこのトイレ」
というぼやきは、水を流す音で掻き消された。
一呼吸置き、ぎしっとドアが軋むが開く事はない。
「おい、どうなってんだ? 開かねぇぞ」
ぎしぎしとドアが揺すられるが、まるで壁になったように動かない。勢いよく閉めたから歪んだのかな?
何やってんだお前ら、何もやってねえすよ、というやり取りをしながら男二人は両側からドアを押し合う。
そして、じわりとドアの隙間から水が染み出してくる。そう言えば、水を流す音がまだ止まっていない。
「お、おい。水が止まんねぇぞ!」
何とかしろ、と中でパニックを起こしたように暴れ出す。
男達は中から外から体当たりを繰り返した。
カラテの正拳で穴が開きそうだと笑っていたドアは、僅かにたわむだけでその衝撃を全て吸収する。
でも多分、ほとんどは両側から同時に衝撃を与えているからじゃないかな。
「いやだ! 助けてくれ!」
中からはもう衝撃音はせず、代わりにザブザブと音がする。中がどうなっているのかは想像したくない。
「おい! 斧か何かないか!」
と言う舎弟に、そんなものありませんよと父も狼狽する。
自分の家が事故物件になるかもしれないんだから無理もないけれど、開けるのもそれはそれで嫌だ。
「おい! バールでも何でもいい! とにかく持って来い!」
という言葉に僕はハッとして鞄に差してあったバールを見る。しかし渡していいものか……とためらっていると、舎弟は僕の視線の先を見て勝手にバールを引き抜いた。
ガン! とドアと壁の隙間にパールを突き立て、釘抜きのように動かしてこじ開けようとする。
ボロッと壁が剥がれて水が流れ出すが、ドアが開く事はない。湿って柔らかくなっているようだ。
僕達は誰が言うでもなく、奥の部屋に引っ込んだ。
その後の事は特筆すべき事はない。物理の法則に従って起きるべき事が起きただけだ。
ドアをこじ開けた時の衝撃は、結構広い範囲で壁に亀裂を作り、家全体の形を平行四辺形に歪めた。畳も酷い有様だ。
危険家屋に認定されてしまい、住む事が出来なくなってしまった。それは結構な災難だったんだけど、壊したのは取立人なので仮住まいを与えられて家は建て直される事になった。
結局は招き入れていもいない取立人が、鍵を壊して押し入り、制止を振り切って勝手にトイレを使ったあげくに家を壊したのだ。
その損害賠償は当然で、債権者は対象を僕達から取立人に切り替えただけだ。
借金を回収できなかったのも彼らの責任としてついでに上乗せされた。債権者としては取立先を分けるより一つにまとめた方が都合がいいのだろう。
翌日までは大変だったけど、幸い休みだったので仮引っ越しなどは問題なく進む。
まったく心休まる事のない休日を明け、僕は教室の席に深く腰を下ろした。
そこへエリザが、最後に見た時のままの顔でやってくる。
もしかして、コイツの仕業か?
「知ってて、バールをくれたの?」
「汝の『らっきいあいてむ』だっただけだ」
もしかして、エリザがマジナイをかけたのだろうか。
「それで使い魔が僕の家にいたの?」
「使い魔とは何の事だ?」
「目の赤い動物の事だよ。あのいっぱい種類のいる」
「マリウスは使い魔ではないぞ。我の友人だ。それにマリウスは一人しかいない」
またまた。変身する動物だとでも言いたいワケ?
「使い魔を持つなど黒魔術師のやる事だ。マリウスは単に我が初めて得たスレイブに興味があるのだろう。天使に魅入られたみたいで良いではないか」
どちらかと言うと悪魔でしょ。
「世間では呪詛をかけるには相手の髪や血液が必要だというのが定説だが、相手を特定する必要が無ければ逆の加護をかければよいのだ」
と言ってエリザは人形を取り出して見せる。
何と言うか、明らかに僕を模して作ってある人形だ。ちょっとばかり妙ちくりんではあるが……、似てる。エリザの手作りか?
それが胸に大きな袋を下げている。と言っても人形が小さいので大きく見えるだけで、掌に収まるくらいの革製の袋に紐をつけた首飾りだ。
それを僕に似た人形が、紐を首にぐるぐる巻きにするようにして下げている。
「これはいわゆる幸福のお守りでな。この人形の髪は本物の汝の髪だ。この人形にお守りをつける事で本体である汝の幸福を守ったのだ」
それで髪をむしったのか。
「このお守りはマンドラゴラの根といって、持つ者に富と福をもたらす
「誰かの……、不幸の上に成り立っているって事?」
「心配するな。中世では他人にとっては不幸の象徴、動乱の源でもあったが、これは中でもかなり希少な物。周りに与える影響は微々たるもの」
その分範囲が大きい。だからこれを持つ魔術師は、皆の為に力を使わなければならないと話す。
本当かな。うちには日常的に借金取りが来ていたんだし、偶然と言えばそうなんだけど。
「ぐえっ!!」
突然首を絞められたような気がして声を上げる。
振り返っても誰もいない。見るとエリザが人形に括りつけたお守りを引き剥がそうとしていた。
「ああ、すまぬ。しっかり結びつけたから外しにくくてな」
って本当なの? まさかそんな。いやでもなんかそんな気がしただけと言えばそうなんだけど。
ぐいぐいと紐を引っ張るが、よけい首に食い込んでいるようだ。それを見ているだけで、なんか僕も苦しくなってくる。気のせいだよね?
「うーむ。なかなかほどけぬ。いったん切るか」
と言ってハサミを取り出す。
「いやいやいやいや」
紐? 首? どっちを切るつもりなの?
「心配はいらぬ。汝がそんな事はありえないと強く信じているならば効果も薄れる。死ぬほど痛くても死にはせぬだろう」
「いいよ。僕が外してあげるよ」
人形をひったくって丁寧に時間をかけてほどく。別に信じたとは言わないけど、あまり気分のいいものではない。
エリザは取り外したお守りを受け取ると首から下げ、胸元を引き下げるとその中に仕舞った。お守りは谷間に挟まれるように完全に見えなくなる。
僕は見ていないフリをしながら、萌えなどの魅了も現代の呪いなのではないかと思い始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます