第3話 遣らずの雨
わたしが恋をするなんて、あり得ない。
わたしが男の人を好きになるなんて、あっちゃいけない。
そんな感情は全部捨てたはずだった。二度とそんな感情は持たないって心に決めたはずだった――のに。
――あいつ。
あいつのことを考えると妙に心臓がバクバクするのって、妙に手の平に汗をかくのって、胸の奥がきゅっと締め付けられるような気持ちになるのって――
これって「恋」ってやつ……だっけ?
あり得ない。かなりヤバいかも。
わたしにとって、男は商売道具。つまり「客」。それ以外の何ものでもない。
わたしの前に現れる男はみんな、わたしが好きなんじゃない。わたしのカラダが好きなだけ。わたしを抱くために、男たちは二時間三万円という料金を払う。
そして男どもは、まるで排泄するみたいに射精して、わたしの体と心を汚して去っていく。そのほとんどの男どもと、二度と会うことは、ない。
それが、わたしの仕事。わたしの選んだ生き方。
後悔はしてない。
だから、「恋愛」なんかしちゃいけない女なんだ、わたしは。
そう自分に言い聞かせてきた。
ついこのあいだまでは。
あいつの名字だけは知ってる――「
あいつとまともに会話したことだってない。
「百四十七円です。袋は要りますか?」
「あ、いいです」
多くてもそのくらい。
あいつはコンビニの店員だ。毎週月曜から木曜まで、夜の九時を過ぎると、レジに立っている。
だから、わたしはわざわざ九時になるのを待って、コンビニに行く。
このコンビニは、わたしの「待機」してるお店〈アヴァロン〉――デリバリー・ヘルスだから店舗はなくて、ただの雑居ビルだけど、みんな「お店」と呼んでる――の真向かいにも一軒、コンビニがあるけど、そこでは、煙草を売ってない。だから、ちょっとだけ離れた、あいつのいる店に行く。ほとんど毎日。
遅番のわたしの出勤時間は、八時。呼び出しがかかれば、すぐに出かけなきゃいけない。続けざまに仕事が入れば、コンビニに行けない日もある。仮に行けても、もうあいつがいないときもある。あいつの勤務時間は、深夜二時頃までらしい。
あいつがいるときには、前に人が並んでても、わざわざあいつのレジに行く。もう一人の店員が、親切にも隣のレジを開けて「こちらへどうぞ」と言っても、わたしはあいつのレジに並び続ける。
あいつがここでバイトを始めるようになったのは、夏の暑い時期の辺りからだったと思う。入ってきてすぐ、こいつは「ちょっと違うぞ」と気づいた。
わたしも、この仕事をやる前、二年くらいコンビニでバイトしてた。朝の通勤客がたくさん来る時間帯だった。いちばん混む時間には、大勢の行列ができる。だから、レジ打ちはスピードが大事だ。
わたしは資格も学歴も何もないけど、レジ打ちだけは自信がある。
素早くバーコードを読み取り、金額を言い、お客が財布からお金を出しているあいだに、全部の商品が入る、ちょうどいいサイズの袋をすぐに選び出し、商品を詰め始める。詰める順序や位置も重要。重さや形を即座に考える。お客が持ち上げたとき、傾いたりしちゃいけないし、柔らかい紙容器入りのヨーグルトとかがつぶれちゃいけない。お金を受け取り、詰め終わった袋を差し出す。
余分な作業をしなきゃいけないときは、さすがにちょっと焦る。電話代とか電気代を払う客なら、検収印というハンコを押さなきゃいけないし、合計が三万円以上だと、収入印紙を貼らなきゃいけない。生理用品とかコンドームは紙袋に入れてからレジ袋に入れる。宅配便を注文する客には、伝票を書いてもらい、そのあいだに送る物のサイズと重さを量って、レジのパネルをタッチして金額を出す。特に宅配便は時間がかかるから、混んでる時間帯には、ホントは勘弁してもらいたいけど、そんなことはお構いなく、お客は次々にやってくる。
どんなことも、素早く次の手順に入れるように、いつも先を読む。
コンビニのレジ打ちなんてどんなバカにもできるように思われてるけど――実際、わたしみたいなバカがやってたけど――上手下手がある。
トロいやつはゼッタイに駄目。声の小さいやつも。
お客のいない空いてる時間に、「前進立体陳列」(新しい商品を棚の後ろから並べて、古い商品を前に出す方法)をやれないやつとか、「レジ点検」(レジの中のお金がストア・コンピュータに記録された金額と合っているかを調べること)をトロトロやってるやつとか、「肉まん」と「豚角煮まん」を間違えるやつとか……。
わたしはセミプロのコンビニ店員だった。商品の発注とか、結構大事な仕事も任されるようになった。辞めるときには、店長にさんざん引き留められたくらいだ。
でも、やっぱりコンビニの時給では、限界があった――だから、わたしは今の仕事を始めた。
いや、そんなことはどうでもいいんだっけ。
あいつの話だ。
あいつのレジではじめて買い物をしたとき、すぐに気づいた。店内は混んでなかったけど、あいつの動きはテキパキしてて、ムダがなかった。「おぬし、なかなかやるな」って思った。
最初からあいつを「男」として意識してたわけじゃない。ただ単に「デキるコンビニ店員」と感じただけだ。ルックスも悪くはないけど、べつに「イケメン」というほどじゃない。髪を短く刈っていて、スポーツマンっぽい。右の耳にだけ、銀色のピアスをしてる。
歳を取れば取るほど、時間が過ぎるのが速くなる。
もうクリスマス・イヴだった。
イブに仕事してるわたしってのも虚しいけど、実はイブという日は、書き入れどき。一緒に過ごす相手のない哀しい男たちが、お金でわたしたちを買って、寂しさをまぎらわす。
ホワイト・クリスマスどころか、暖冬で雨が降りそうな空だった。携帯で天気予報を調べたら、夜中から降り出して、明日も雨らしい。たまたまその日は傘を持ってなかった。「呼び出しがかかる前に買っておかなきゃ」と、あいつのいるコンビニに走って行った。
その途中で、降り出した。暖冬とはいっても、やっぱり冬の夜は寒い。冷たい霧雨が薄いコートに染み込んで、すぐに全身が冷え切ってしまった。
「いらっしゃいませ、こんばんは」
マニュアル通りの台詞だけど、あいつが言うと、体があったかくなる。ホントに歓迎されてるような気分になる――わたしだけかもしれないけど。
「降り出しましたか?」
あいつの声――。
わたしは、思わず後ろを振り返った。他には誰もいない。
そのときになって、あいつが、わたしに向かって言ったんだと気が付いた。
「へ?」
すごく間抜けな声を出してしまった。
そのとき突然に、ホントに突然、とてつもなく恥ずかしくなった。
デリヘル嬢のわたしが、どうしてこんなつまんないことを恥ずかしがってるんだろ、と不思議に思った。もっととんでもなく「恥ずかしいこと」を毎日やってるのに、っていうか、今日もこれから何度かやるはずだし。
「あ、降ってます、雨」
しどろもどろに答えた。
あいつはもう一人の店員に向かって「外に傘立て出しといて」と言うと、奥の事務室に姿を消した。
もう一つ、不思議なことに気づいた。
心臓がドキドキ脈打ってる。緊張?
どうしてわたしがこの状況で緊張しなきゃいけないわけ?
胸のトキメキ? バカバカしい。あり得ない。
「なんでやねん」
インチキ関西弁でつぶやいた。売り場に三本だけぶら下がってるビニール傘の一本を手に取った。レジを振り返った。あいつがすぐ眼の前に立っていた。その距離、約九十センチ。
ヤバい。めっちゃ超至近距離。
またヘンな声を出しそうになった。けど、今回は飲み込んだ。
「あ、すみません」
あいつは軽く頭を下げた。十本以上のビニール傘を重そうに抱えていた。
外は、雨。だったら、わたしみたいに傘を持っていない客が、ビニール傘を買いに来る。そのために、傘を多めに陳列しておかなければいけない。
デキるコンビニ店員なら、先を読んで、当然考えることだ。わたしが店員でも、同じことをしてたはずだ。
何も、驚くようなことじゃない。
わたしは温かい缶コーヒーを取り、レジに向かった。あいつは素早くやって来た。わたしはカウンタに缶コーヒーとビニール傘を置いた。
「それから……」
わたしが口を開きかけると、あいつは割り込むように言った。
「『マルメンライト』、ですよね」
「は、は、はい……」
わたしは小声でどもりながら答えた。
あいつは手際よくレジの背後から「マールボロ・メンソール」を一箱取り、素早くレジを通した。
「すぐお使いになりますか?」
「へ?」
また間抜けな声。
わたし、何考えてるんだ?
傘に決まってるじゃないか。わたしがレジ打ってたときにも、同じように訊いてたじゃないか。
「傘、お使いになりますよね。結構、降ってきたから」
「は、はい」
わたしはうつむいたまま千円札を差し出した。
「千円お預かりします」
指先が数字キーの上を走った。速い。わたしよりも、速いかも知れない。
あいつは袋に煙草と缶コーヒーを入れ、ビニール傘の包装を外して、わたしに手渡した。
「百十円のお返しです」
あいつは、わたしの手の平におつりとレシートを載せた。
ちょっとだけ、あいつの指先が触れた――ほんのちょっとだけ。
「ありがとうございます。またお越し下さいませ」
あいつはマニュアル通りの台詞を言い、ぺこりと頭を下げた。
わたしは、黙ったままコンビニを出た。
雨は強くなっていた。気温もきっと下がってるだろう。雪になるかもしれない。
でも、胸の内側のどっかが、温かかった。
あいつは、覚えてた。覚えてくれてた。
わたしがいつも買いに来る煙草の銘柄を。
コンビニの店員っていうのは、実はあんまり客の顔を見てない。それでも、よく買い物に来る常連客の顔はいつの間にか覚えるものだ。
「だから何だっての?」
声に出して言った。
急いで〈アヴァロン〉に戻った。
たぶん、小学校以来だろう。スキップなんかしたのは。
それからだいたい一週間後――大晦日だ。あろうことか、出勤日だった。
同じ休日でも、クリスマスとは大違いだ。
こんな夜に、女を買う男なんて、ほとんど存在しない。
わたしたちに対して隠してた欲望をむき出しにする男はたくさんいる――けれど、大晦日や正月だけは、「いい父親」とか「いい夫」とか「いいカレシ」に戻るんだろう。どちらが「ホンモノ」の姿なんだろう……?
たぶん、「父親」や「夫」や「カレシ」のほうが演技なんだと思う。
そうでなければ、家庭では「いいパパ」とか「いいダンナさん」とか「いいカレシ」であるハズの男が、デリヘル嬢と二人きりになると、あんなにいろんなことをさせたり、されたりできるハズがない。
男って、そういう生き物なんだ。
でも、わたしのほうこそ、そういう男っていう愚劣な生き物に寄生してカネをもらってる、ちっぽけでくだらない虫けらだ。
「待機所」のアコーディオン・カーテンが開いた。顔を出したのは従業員のシンスケ君だった。
「ねえアユミちゃん」
「まだいたの?」
わたしはわざと素っ気ない顔で言った。
「いるわよ、いて悪い? っていうかいないわけないし。ずっと『紅白』見てた。今年も白組の勝ち……。けど、そのあいだ、電話は沈黙。閑古鳥鳴いてるわ」
シンスケ君はいつものようにオネエ言葉で返事をした。
シンスケ君は謎の存在だ。いったいぜんたい何歳なのかわからない。ゲイであることをカミング・アウトしている。ま、そんなこと言わなくても、立ち居振る舞いから完全にバレているけど。〈アヴァロン〉の男の従業員は、女の子同様に早番と遅番に分かれている。けど、シンスケ君だけは、早番の時間にも遅番の時間にも事務所にいる。っていうか、この人、事務所に住んでいるようなものだ。
わたしたち女の子があてがわれている「待機所」の一つを自分の部屋として使うことを店長に許されて、空いている時間はもっぱらパソコンに向かってるらしい。
「あ、そうだ、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
シンスケ君は丁寧に頭を下げた。
「え? 年明けたの?」
「何言ってんの、とっくに『ゆく年くる年』も終わっちゃったわよ。アユミちゃん、もう帰っていいわ。あたしがタイムカードはなんとかしとくから」
シンスケ君の言葉に、わたしの両眼はキラキラと輝いていただろう。
「マジ? いいの?」
「いいのよ、どうせみんな寝てるか初詣行ってる。年明け早々、一発やろうなんてオトコ、いないわよ。どうせ電話なんか鳴りゃしないんだから。たとえ鳴っても、適当にごまかしとく。お正月なんだからさ、もう帰っていいわよ」
「ありがと! じゃ、帰らしてもらおっかな。大掃除まだだし」
「あのね、年が明ける前にやるのが『大掃除』! 今からじゃ意味ないじゃん!」
「『掃除初め』するの! ありがと、恩に着る! 今度何かで埋め合わせするね。カラダで払ってもいいよ」
「バーカ! 悪いけど、アユミちゃんは対象外。ご自慢のGカップにも興味ないし。それよりさぁ、いいオトコ紹介してよ」
「それは……結構、難題だなぁ」
わたしはバッグを手にすると、苦労してブーツを履き始めた。どうしてこんなに履きにくいし蒸れるし歩きにくいものが流行るんだろう、なんて考えながら。
「あ、そうだ。シンスケ君、明けましておめでとう」
わたしは、ぺこん、とお辞儀をした。
わざと「今年もよろしく」とは言わなかった。言えなかった。今年もまた、「この仕事」を続けていくなんて、考えることができなかったから。
シンスケ君はにっこり笑って、わたしを〈アヴァロン〉から見送ってくれた。
「じゃね。次の出勤日、三日だっけ?」
「そういうこと、思い出させないで!」
軽口をたたき合う。こんなことのできるシンスケ君は、世界中で唯一の友だちかもしれない。
ビルを出ると、冷たい小雨が降っていた。バッグ――「お客さん」からのプレゼントのシャネルのトートバッグだ――に入れていた折りたたみ傘を開いた。
冷たい雨に震えながら、コンビニに向かった。
深い意味はない。
帰っても、食べるものなんて冷蔵庫に全然入ってない。それに、煙草も切れてた。
コンビニの自動ドアが開く――やっぱり、あいつはいなかった。
そりゃそうだ。だって大晦日……いや、もう元旦だもんね。
パスタとサラダと煙草と、麦焼酎の小瓶を買った。「
おせち料理なんて食べたいとも思わない。お餅も買ってない。だからお雑煮も作れない。
実家?
帰れるわけがない。縁を切られる前に、こっちから縁を切った。父は昨年亡くなった……らしい。母とはもう四年くらい会ってない。わたしに故郷なんてない。
だから何だっての? わたしは、わたし一人でこの街で生きている。
コンビニのパスタと焼酎のお湯割りがあればいい。いつもと変わらない、一人の正月。
やっぱり外は、寒かった。
冷たい雨が降り続いている。風も少し強くなっている。体感温度は、低い。
道を行き交う人もほとんどいない。いるはずがない。
最寄りの私鉄の駅に行った。普段なら、とっくに終電が行っちゃっている時刻だ。けれど、今日は大晦日。この路線の駅の近くに、この街では有名な神社がある。初詣客のために、大晦日の夜から元旦の明け方までは、特別に終夜運転していた。
ホームのベンチにへたり込んだ。
「仕事」なんてなかった。ギャラはゼロ。大晦日は「一発」もしなかった。なのに、なんだかもうすっかり疲れ切っていた。
ほとんど毎年のことだけど「年が明ける瞬間」を知らずに、一年一年が過ぎていくのが、哀しい。
新しい年――わたしには関係ない。めでたくも何ともない。また一つオバサンに近づく、っていうだけ。
吹きっさらしのホーム。寒風が吹き抜ける。ひどく寒かった。人の気配もない。
ガタガタ震えながら、「神の河」の蓋を開けた。これじゃ、ただのオヤジだな。
ちょっとだけ小瓶を眼の前にかざして、その薄黄色の液体を見つめた。
一人で、乾杯。
自分に、明けましておめでとう。
――べつに、何もめでたいことなんてないか。
震えながら、冷たい焼酎を、ぐいっと瓶からラッパ飲みする。
熱い液体が喉を駆け下りた。
「風邪……ですか?」
出し抜けに、声が割り込んできた――男の声。
眼を開けた。
二本の脚がわたしの前に立っていた。約二メートルの至近距離。
わたしはぎょっとして身構えた。全身を警戒感が走る。
そっと顔を上げたわたしは、さらに驚いた。
あいつだった。
あいつは、わたしを怪訝そうな顔で見下ろして立ってた。いつものコンビニの制服じゃないので、少し違和感があった。
「あの……なんだか、顔赤いし、熱あるのかな、と思って……すみません」
あいつ――コンビニ店員の溝口は、頭を下げた。
慌てて麦焼酎の瓶をトートバッグに突っ込んだ。
「べ、べ、べつに……」
ひどく、つっけんどんな言い方になってしまった。
ほんとにそのときのわたしは慌てふためいていた。「仕事モード」の営業スマイルなんてできなかった。カンペキな「素」。
「すみません」
さらにもう一回、あいつは頭を下げて、ホームの反対の端のほうへ歩き出した。
遠くなっていく背中――
「あの!」
思わず何の考えもなしに立ち上がって、呼んでいた。
あいつは振り返った。
くそ、やっぱ、カッコいいじゃん。
なのに、わたしは自分の間抜け面を見られてしまった。
めちゃめちゃ恥ずかしい。そして、悔しい。
「今日もバイトだったの?」
わたしは訊いた。言いながら、「ヤバッ、なんでタメ口?」と思ったが、時すでに遅し。
いきなり、あいつ――溝口は、にっこり笑顔を見せた。
こっちがどぎまぎしてしまって、目線を落とした。
何やってんだ、わたし? いい歳して、まさか顔が赤くなってたりしないだろうな。いや、赤くなってたとしても、それは麦焼酎のせい。
いや、それはそれで恥ずかしい。とにかく、いろんな意味でヤバい情況。
「あっ、わかりました? 僕のこと」
「う、う、うん。コンビニの……」
うつむいて、言った。
「マールボロ・メンソール、ですよね」
そう言われて、わたしはすぐさまあいつ――溝口から顔を背けた。
わたしのこと、覚えててくれたんだ――そう思ったら、泣けてきそうになった。
いかんいかん。思った以上に酔ってる。
「明けましておめでとう」
つとめて平然と言った。
「明けましておめでとうございます。今年もうちのコンビニ、よろしくごひいきにお願いします」
若いのに「ごひいきに」という言いぐさが、なんだかおかしくて笑ってしまった。
そのとき、ホームにアナウンスが鳴った。電車が滑り込んでくる。
この駅から乗り込んだのは、わたしと彼だけだった。
車内は、意外に客が乗っていた。それでも、わたしたち二人が並んで充分に座るスペースはあった。
電車が動き出すと、彼は言った。
「すぐ帰るんですか?」
「え? そうだけど」
「初詣、行かないんですか?」
「いつも、まっすぐ帰って寝正月」
「ですよね、ずっとお仕事だったんだし」
彼の口から「仕事」という単語が聞こえた瞬間、わたしが動揺しなかったと言えばウソになる。
もちろん、彼はわたしが普通のOLなんかじゃないことは知っているだろう。でなきゃ、こんな日のこんな時間に電車に乗ってるわけがない。少なくとも、水商売だってことくらいはわかってるはず。
彼は、わたしが〈アヴァロン〉で働いていることを知っているんだろうか。知っていてもおかしくはない。
でも、できれば知らないでいて欲しい。
「一緒に行きませんか、初詣?」
「へ?」
またいつかのような間抜けな返答。あー、なんてバカな自分。
「僕、毎年行ってるんですよ。行かないと、年が明けない気がして。次の次の駅で降りれば、すぐですよ、神社」
「いいの? わたしと一緒で。カノジョと行けばいいじゃん」
わざと意地悪く言った。
「いませんよ、カノジョなんて」
「じゃ、試しに『初詣』とやらに行ってみよっかな~」
できるだけ軽い口調で言った。
でも、胸は弾んでいた。歩いてたら、きっとあのときみたいにスキップしてるだろう。
駅を出ると、雨は上がっていた。神社は混んでいた。この街で、二、三番目に大きな神社だ。こんな寒い夜中に、ずいぶん物好きな人がいるものだ。小さな子ども連れも、年取った夫婦もいる。
だんだんとわたしたちの周囲の人口密度が上がってきた。もう寒くない。人いきれで、汗が出そうなくらいの熱気だ。
ごく自然な動作で、彼はわたしの腕をそっと摑んだ。彼の体がわたしと密着する。
わたしは、反射的に身を引いて、離れようとしてしまった。
でも、どうしてくっついちゃいけない?
彼に腕を取られ、そのまま、人の波に流されるようにして、お賽銭を入れる場所――何ていう名なのか知らないけど――まで、ようやく着いた。
そこそこ大きな神社なので、一個の賽銭箱で済むはずがない。大きな布を敷いたスペースがあって、参詣者はそこへ賽銭を投げ入れることになってるみたいだ。
彼は慣れた様子で、財布から硬貨を出して、投げ入れた。わたしもその真似をした。奮発して五百円玉を投げた。
手を合わせた。
「何祈ったんですか?」
「うん……まあ、健康、かな」
わたしは言葉を濁した。
ほんとは、何も祈ってない。祈ることなんて、何一つない。
わたしは、神様も仏様もキリスト様もアラーの神様も信じてない。
わたしを見守ってくれる神様だか仏様だか守護霊様だか何だかわかんないけど、そんな存在がいないってことは、身をもって痛いほど知ってる。
「溝口君は何祈ったの?」
わたしは訊いた。その瞬間、彼ははっとしたような表情になった。
「あ……どうして……名前……?」
わたしは吹き出した。
「だって、コンビニの制服に名札付いてるじゃん」
「あ、そっか、そうですよね。じゃ、えっと……?」
ためらいがちな溝口君の表情。
「わたし? わたしは……内田律子」
一瞬ためらった。けれど、本名を答えた。
「僕、下の名前、研です。『研究』の研」
わたしも自分の名前の漢字を教えた。
「おみくじ、引こうよ。どっち?」
わたしのほうから誘ってみた。
「あっちです。人が多いから、しっかり摑まってて」
彼――溝口研はそう言って、人波のなかを逆方向へ歩き出した。わたしは、言われたとおり、彼の腕にしっかり自分の腕をからめた。
おみくじ売り場のある本殿は、やっぱりすごい行列だった。わたしは、彼の腕にぎゅっとしがみついたままだった。
べつにいいじゃん。彼が嫌がってないんだから。そのチャンスを利用しないテはない。
二人しておみくじを引いた。
わたしは――「末吉」。ま、「凶」よりはマシか。
そのとき、彼が嬉しそうな声を上げた。
「あ、すごい! 『大吉』だ! 生まれてはじめてだなぁ」
「きっと、今年、いいことあるよ」
わたしは言った。
「もうあったかも」
彼は、わたしをじっと見て言った。
「ふーん、どんな…?」
言いかけて、「え?」と固まった。
聞き違い?
どんなことが「もうあった」ワケ……?
まさか、そんなこと、あり得ない。
思わず、彼から眼をそらした。
バカバカしい。わたしもずいぶん妄想癖がひどい女だ。
結局、そのあと二人とも言葉少なに駅に戻った。
でも、彼のことは少しわかった。彼は大学院生。実家は東北。この街の大学の博士課程で国文学専攻、一人暮らしをしている。わたしよりも二コ年下だ。
わたしとは、ずいぶんと違う世界に住んでる人みたい。
でも、そんな彼が、今、わたしのすぐ隣にいる――それだけじゃない。
神社からずーっと、わたしは彼の腕に摑まってる。ごく自然な仕草で。
無情にも電車は深夜の街を走り抜けていく。わたしは次の駅で降りなきゃいけなかった。
「あの……」
彼――溝口研君は、言いかけた。
わたしは、先読みして、言った。
「連絡先、いい?」
「いいよ!」
携帯電話の連絡先を教え合った。
アナウンス――すぐに次の駅に着いてしまった。
「じゃ、ここで降りるから」
「えっ! 僕もだよ!」
二人とも顔を見合わせた。
こんな偶然があっていいんだろうか?
訊くと、わたしのマンションとほとんど同じ方向。うちよりも少し駅から離れたアパートで一人暮らしをしているという。
わたしのマンションのある場所を告げると、彼はまた目を丸くした。
「マジっすか? いっつも自転車でその前通り過ぎてるよ」
「えーっ! あり得ない!」
わたしも、電車のなかで声を上げていた。
今年こそ、ホントにいいことあるかも、と思った。神様って、実はいるのかも。
彼が「大吉」なら、わたしにも、同じように「吉」が訪れるかも、と思った。そして今この瞬間からハッピーな時間が始まるんじゃないか、って思った。
大きな間違いだった。
駅からわたしの家までは、歩いて二、三分だ。普段なら、明るくなってからの帰宅だけれど、今日ばかりは暗い夜道。もう午前四時近い。
でも、隣には自転車を引いた溝口君がいる。
そして、元旦だ。
この近所にも小さな神社がある。そこへ初詣へ行くのだろう。朝四時という時間にもかかわらず、幾人かの家族連れやカップルや老夫婦たちとすれ違った。
わたしはスキップしたい気分を抑えて、そんな人たちに、ちょっとだけの微妙な会釈をした。向こうも、ほぼ同時に同じような会釈を交わしてくれた。
なんとなく、みんなが幸福になれる日。
みんなが「いい人」になれる日――それが元日なのかも知れない。
そんなことを考えてたら、あっという間にマンションのエントランスに着いた。
「あの……お茶でも、飲んでく? 体、冷えたでしょ?」
わたしが自分からこんなこと言い出すなんて、どうかしてる。きっと「正月」の浮かれた気分のせい。
「いやあ、僕、今日の夜からフツーにバイト入ってるんで、帰って寝ないと、レジの後ろでぶっ倒れちゃう」
「そっか……」
「でも、よかったら……またべつの日に……その、えっと、つまり……もし時間があったら……」
ぎこちなく言う彼の姿が、とても可愛らしくて、いとおしく思えた。
男という生き物に対して、こんな感情を抱くのはとてつもなく久しぶりだ。
取引もない。薄汚れた計算もない。
ただ、単純に「そばにいたい」という気持ち。純粋に「会いたい」という気持ち。「触れたい」という気持ち。
忘れかけてた。
「じゃ…また」
溝口君が自転車にまたがったときだった。
出し抜けに、わたしの背後から、かすれた男の声が聞こえた。
「なんだ、連れ込まないのか」
冷たい突風が吹き抜けたような気がした。背筋を氷のような何かが駆け上がる。
マンションの脇の自転車置き場の暗がりから、無精ひげを生やして痩せた男が、ふらふらと現れた。まるで亡者のように。
もう二度と会うことはないと思ってた男。
怒りと恐怖で叫びそうになったが、かろうじて歯を食いしばった。
「なーに逃げてんだよ」
「逃げてないよ」
わたしは強がって言った。
男の名前は、
「何の用? どうしてここがわかったの?」
わたしは精一杯の虚勢を張って言った。
「俺にもいろいろツテがあってさ。で、年始参り……じゃなくて、わかるだろ」
「わからない」
溝口君が、またがりかけた自転車から、降りた。そして、靖士ににらむような視線を向けた。
「大丈夫、律子さん?」
「『律子さん』だって! へぇ、これがおまえの新しい男か」
溝口君が眉間に皺を寄せ、一歩前へ踏み出そうとした。わたしは彼を手で制した。
「積もる話もあるんだよ。どうせ稼いでんだろ。いいマンション暮らしてるじゃねえか。ここ家賃いくら? それともまさか分譲?」
かっと脳のなかが熱くなる。
もとはといえば、この男のために、わたしは体を売るようになったのだ。
出会いは、コンビニ店員時代。靖士もまた、わたしと同じ時間帯にバイトを始めた。つまり、わたしが先輩というわけ。
どっちが先に好きになったのか、わからない。どっちが告白したのかも、よくわからない。なんだか、なるようになって、いつの間にか、つきあうようになっていた。
はじめはとんとん拍子に進んだ。靖士はかなりルックスがよかったし、そんな彼がわたしを選んでくれたことだけでうれしかった。
二人で買い物に行って、腕を組んで街を歩いているだけで、わたしはすごく誇らしかった。
彼は、病気を持ってた。と言っても、性病じゃない。内蔵にタチの悪い潰瘍ができるという「難病」だった。病名は忘れてしまった。命にはかかわらないけど、原因不明で治療法もなく、一生つきあっていかなければならない病気だという。
靖士は、二週間に一度病院に通って、特殊な「栄養剤」――粉末をぬるま湯で溶かして作る――をもらって、それを「食事」の代わりにしていた。好きなものを自由に食べることのできない体だった。もうじき三十だというのに、入退院を繰り返すので正社員として就職することもできず、コンビニでレジを打っていた。けれど、それだけで生活することなんてできない。彼は実家で親と暮らしていた。
わたしはその頃、今とはべつのマンションに暮らしていた。
そして、そこへ彼がやってきた。
わたしは、新婚ホヤホヤの奥さんみたいな気分になっていた。これからずっと毎日毎日彼と一緒にいられる。会いたいときに、会える。そして近いうちにほんとうに籍を入れて、子供を作って、家族を作って――
大きな勘違いだった。
靖士がわたしと暮らし始めてすぐ、彼はコンビニのバイトを辞めた。
そして、暴力が始まった。
ちょっとしたことで、靖士はすぐにキレた。わたしの帰りが十分遅れたこと、彼のために準備した、朝・昼・晩・寝る前に飲む薬の数を間違えたとき。その他に、ちょっと虫のいどころが悪いとき、張り手が、拳が、蹴りが、飛んできた。彼はずるがしこかった。他人から見られるような、わたしの顔は狙わない。胸や腹や背中を、集中的に攻撃した。
今思えば、その頃のわたしはどうかしていた。
いくら殴られても「今の彼のほうがつらいんだ」と思った。
いくら蹴られても「これで彼の気が晴れるなら構わない」と思った。
――彼の病気のつらさを背負って、守ってあげられるのは、わたししかいない。だから、わたしも耐えなきゃいけない。
本気でそう思っていた。
バカな女だ。
「凍えそうだよ。ちょっとあったかいお茶の一杯でもいいじゃねえか」
靖士は言って、さらに一歩近づいてきた。
溝口君が自転車のスタンドを立てると、つかつかと歩み寄ってきた。
「律子さん、ちょっとファミレスかどっかで話さない?」
靖士はちらっと溝口君を見やると、「ケケケ」と笑った。
「ファミレス? 似合わねえ。なあ兄ちゃん、この女が何してるか知ってんの?」
ぞっとした。
全身の毛が逆立った――冷たい手で心臓を鷲摑みにされたような気持ち。
殴られてもいい。蹴られてもいい。
願うのはただ一つ。言わないで――
「溝口君……また今度……」
わたしは乾いた声で言いかけた。が、溝口君は靖士を険しい顔でにらみつけた。
靖士は、容赦なかった。
言った。
絶対に喋って欲しくないことを、靖士は半笑いで言い放った。
「この女はね、フーゾク嬢だよ。知らない男の前でおまんこ開いて平気な女。驚いた?」
眩暈がした。吐きそうになった。何か大きなものが大音響で崩れ落ちていくような感覚。思わず濡れた地面にしゃがみ込んだ。
おそるおそる、溝口君を見上げた。
彼は、両の手に握った拳を震わせていた。が、自転車にまたがると、ペダルを精一杯踏み込んだ。彼の自転車は、駅に向かって、凄い勢いで走って行った。
暗がりのなかに、あっけなく彼の姿は消えた。
靖士の甲高い笑い声が、わたしの鼓膜を振動させた。
「へへへへへっ、逃げやがった!」
――全部、終わった。
やっぱりそうなんだ。
所詮、わたしなんかが、人を好きになっちゃいけなかったんだ。
二人で暮らし始めた当時、わたしには、そこそこ貯金があった。百二十万くらい。だから当面は、わたしのコンビニのギャラと、貯金を切り崩すことで生活できた。
贅沢はムリだったけれど、何よりも、わたしたち二人でいられる。それが幸せだった――少なくとも、わたしにとっては。
ある梅雨時の日だった。たまたま通帳記入をしたら、覚えのないのに数万単位、何度も引き出されているのを見つけてしまった。それどころか、残高がマイナスになっている。
血の気が引いていくのがわかった。
銀行から、傘も差さずに、ふらふらとマンションへ戻った。
靖士は、ソファに寝そべって漫画を読んで「ケラケラ」と笑ってた。
「ねえ……話があるんだけど」
「ああ? 後にしろよ」
「貯金のことなんだけど」
「はあ?」
漫画を投げ出した靖士の眼は据わっていた。その眼でにらまれると、いつもわたしは身動きができなくなってしまう。
けれど、そのときは必死にその眼を見つめ返し、言った。
「勝手にお金下ろしてない?」
「はん? だから?」
靖士は、信じられないくらい素っ気なく答えた。
「『だから』って……何に使ってるの? かなりの額になってるよ。だって残高が……」
「おまえ、バカか!」
唐突な怒鳴り声に、わたしは震えた。
「俺、こんな体だから、おまえに働いてもらってるだろ? 申し訳ないと思って、増やそうとしたんじゃないか。ま、うまくいかなかったけどさ」
わたしは、全身の力が抜けきってしまった。ぺたん、と床にへたり込んだ。
「また……スロット……?」
「昔のツレにテク教えてもらって、十万ぶっ込んだけど、一瞬だな、飲み込まれるのって」
そう言って靖士は「ケケケ」と笑った。そして、ゆっくりと歩み寄ってきた。
もうそれ以上、靖士を追及する気になれなかった。わたしは完全に言葉と気力をなくしていた。
とにかく、すべてがイヤになった。すべてが投げやりになった。
「何だよ、その目つき? 病人の俺がよ、必死になって稼いでやろうと努力してんじゃねえか? あん? なんで文句言われなきゃいけねえんだよ!」
髪を摑まれた。
次の瞬間、頬を張られていた。唇が切れた。塩辛い血の味。顔を引き上げられた。眼を見開いた。鬼みたいな形相が見えた。蹴りを食らった。みぞおち。激痛。息が詰まる。胃がひっくり返る。床にうずくまる。
吐いた。酸えた胃液の匂い。
「うわっ、きったねえなあ。掃除しとけよ」
靖士は心底イヤそうな声で言い、ソファに戻って漫画を読むことに戻った。
その瞬間に、わたしのなかで、何かが変わった。
コンビニを辞めた。靖士には黙っていた。
その代わり、「女の子向け高収入バイト情報誌」つまりフーゾク嬢の求人誌で、今の〈アヴァロン〉を見つけた。「早番」勤務なら、夜に帰ることができる。
いちばん最初の「仕事」は……死ぬほどつらかった。思い出したくもない。
けれど、人間って不思議なものだ。どんなにつらいことも、ムカつくことも、気持ち悪いことも、そのうちに慣れてしまう。
ちょうどその頃だ。一ヶ月あまりがたち、平気で見知らぬ男の前で裸になれるようになった頃。はじめて会う男に、いろいろなことをやり、やられても平気になった頃――。
帰宅して、マンションのドアを開けるなり、眼の前に靖士が立っていた。
「てめえ、何のバイトやってんだよ」
靖士が一枚の名刺を投げつけてきた。客の一人、中小企業の社長の名刺だった。
「この男、誰だ? おまえ……キャバ嬢でもやってんのか……?」
あえぐような、うろたえた靖士の声。
なぜかそのとき、わたしは妙な「勝利感」を覚えた。
「ブーッ! はずれ! デリヘル」
「は、はあ?」
「わたし、デリヘル嬢やってるの。知らない男とヤって稼いだギャラで、わたしたち暮らしてたの。知らずにイキがってたあんたって滑稽だよね?」
靖士の顔が真っ赤に染まった。金魚みたいに口をパクパクさせている。
わたしは一気に言った。
「出てって」
「……」
「聞こえなかった? あと一回しか言わない。出てって。別れよ」
「おまえ……」
またもや靖士が文字通り「鬼の形相」になった。拳を振り上げた。
その瞬間、わたしはバッグを引き寄せた。
財布から、今日の稼ぎを取り出した――「福沢諭吉」が六人。それを、靖士に投げつけた。
「あげる。それ持って、わたしの前から消えて」
わたしの眼の前で、靖士はゆっくりと拳を下ろした。そして、しゃがみ込んで、床に落ちた一万円札を拾い始めた。
――そっか。
ようやく、気が付いた。眼が覚めた。結局、この程度の男だったんだ。
そのときに、靖士とわたしの縁は切れた――はずだった。
その男が、わたしの眼の前で、わたしの淹れた紅茶を飲んでいる。甘党の靖士は、角砂糖を三つも紅茶に入れる。
そんなことをいまだに覚えてて、三つの角砂糖を準備した自分が哀しい。
「あの頃より、いい部屋じゃん」
靖士はリヴィングを見回して言った。
「飲み終えてあったまったら、すぐ帰ってよ」
わたしは嫌味を込めて答えた。靖士はその嫌味にすら気づかなかった様子だ。
「お茶より、おチャけのほうがいいんだけどなぁ」
「何言ってんの! お酒なんて医者に止められてるでしょ! っていうか、病院、ちゃんと行ってるの?」
「お、心配してくれてんだ」
「そういう意味じゃないよ」
確かに最後に靖士と別れたときより、靖士はずっと痩せて、頬もこけていた。
「なあ、律子――」
気づくと、すぐ眼の前に靖士がいた。わたしは慌ててあとずさった。
遅かった。手首を摑まれていた。思いの外、強い力。
「ちょ、ちょっと!」
「『姫はじめ』だよ!」
「バカ……」
声を上げかけたが、唇をふさがれた。突き放そうとした。が、フローリングの上に押し倒された。セーターをまくり上げられる。胸をまさぐる手。細い靖士の体のどこにそんな力があるのか。ブラウスが引きちぎられる。ボタンが飛ぶ。
「仕事」でも感じたことのない激しい嫌悪が全身を駆ける。
無我夢中で、膝を振り上げた。
見事にジャスト・ミート――靖士の金的。
靖士は「うーん」とうなって床に転がった。
わたしはすぐさま起き上がった。キッチンへ行けば、包丁か何か、武器になるものがある。
けれど、足首を摑まれた。倒れた。側頭部を床にぶつけた。気が遠くなった。かろうじて眼を見開いた。
靖士は、例の「鬼の形相」になっていた。
拳を振り上げるのが見えた。
衝撃。飛び散る火花。もう一度、拳の衝撃。鼻の脇。生暖かい液体――鼻の穴から噴き出す。声を上げてたまるか。耐えた。髪を摑まれた。張り手。わたしは靖士から眼をそらさない。さらにもう一度、拳。口いっぱいに広がる血の味。吐き出す。二本の折れた歯のかけら。
それでも、わたしは、眼を見開く。靖士から、視線をそらさない。
靖士は、手を止めた。わたしの髪から手を離した。「鬼の形相」が消えていた。ちょっとビビったような表情に変わった。二、三歩後ずさった。
「俺だって……つらいんだよ……わかるだろ? 俺は……重い病気抱えてんだよ! 医者から『治らない』って宣告されてんだよ! どんだけ俺が苦しい気持ちか、おまえ以外に、わかってくれる人間がいないんだ……」
今度は泣き落としか。笑っちゃう。
「な、何が、おかしいんだよ……」
わたしは手の甲で口元の血を拭った。そして、言い捨てた。
「何もわかってないんだ。あんた、ホントにバカね」
「おまえ……!」
またもや靖士が「鬼」になった。
その瞬間、わたしは言い放った。
「殴りたきゃ殴れば! でもね、わたしの体は商品なんだから。この体には値段がついてるんだよ! 大事な売り物に傷つけたら、お店の怖いお兄ちゃんたちが黙ってないんだからね!」
靖士の拳が制止した。宙でぶるぶると震えてた。
次の瞬間だった。
「ぐあああああっ!」
そんなうめき声を上げて、靖士は飛びかかってきた。わたしの上に馬乗りになって、両手でわたしの喉を締め上げた。
呼吸が止まる。視界が色を失っていく。
――あ、こうやって、死ぬんだ。
つまらない死に方。つまらない女にはふさわしい。
そのとき、かすかに激しい足音と、男の怒声が聞こえたような気がした。
暗くなった。
夢? よくわからないけど、昔のわたしたちのようだった。わたしは新婚気分。朝ご飯の目玉焼きを作ってる。
でも、相手は靖士の顔じゃなかった。
溝口君だ。
やっぱり夢か。これが「臨死体験」ってやつなら、死ぬのも悪くないな。
眼が覚めた。
「大丈夫?」
溝口君が覗き込んでいた。
まだ夢の続きを見てるらしい。死ぬまでのあいだ、もうちょっとこの続きを見ていたい。
「眼が覚めましたよ!」
溝口君が言った。すると、脇から駆け寄ってきたのは、〈アヴァロン〉のシンスケ君だった。
「よかったぁ! マジで死んじゃうんじゃないかと思った……」
シンスケ君の両眼からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「何、これ……?」
わたしは周りを見回した。わたしのマンションだ。いつも寝てるベッドに横になっている。
「どういう……こと?」
混乱した頭でかろうじて言った。シンスケ君が顔を拭いながら答えた。
「心配させないでよ! 研ちゃんがお店に駆け込んで来て、ホントにびっくりしたわ。話聞いて、飛んできたのよ。でも、間に合ってよかった……!」
「研ちゃん……?」
わたしが溝口君に眼をやると、彼が突然、頭を下げた。
「ごめんなさい! 律子さん! 僕、知ってたんです」
「え……?」
「律子さんが〈アヴァロン〉で働いてるってこと、前から知ってました」
「そう……だったんだ……」
そこに割り込んできたのはシンスケ君だった。
「そ! 研ちゃんは、わたしの高校んときの後輩で……ファースト・キスの相手」
「ちょ、ちょっとやめて下さいよ! 先輩が無理矢理奪ったんじゃないすか! 俺、ノンケなのに!」
「研ちゃんとあのコンビニで再会したとき、ホントびっくりしたわ。まさかこの街に来てるなんて思わないじゃない? 何度もデートに誘ったんだけど、他に好きなコがいるみたいで……。まさか、それがアユミちゃんだったなんてねえ」
「ま、ま、待って下さいってば、先輩!」
脳のなかがまだ混乱していた。
「や、靖士は?」
その名前を口にしただけで、わたしは気分が悪くなった。
答えたのはシンスケ君だった。
「大丈夫よ。もう二度とあんたには近づかせない。もし近づいたらどうなるか、じっくりとっくりみっちりと、教えてやったから」
わたしの顔中に、絆創膏やガーゼが張ってある。痛みはそんなに感じないから、いつの間にか、薬も飲まされたようだ。
手で顔を探っていると、シンスケ君が言った。
「大丈夫よ、骨は折れてないし、顔に傷痕も残らない。この業界には、ちゃんとお医者さんがいるの。治療費は心配しないで。あの男に払わせるから、たっぷり利子付けて、ね」
「でも、この部屋、どうやって入ったの? オートロックとか、玄関とか」
わたしは尋ねた。
「ま、それはね、いろいろやり方はあんのよ。企業秘密だけど」
シンスケ君はこともなげに言った。
「でも先輩、あんな裏技どこで覚えたんですか? はじめて見ましたよ」
「じゃ、あたしに惚れた?」
「それは、ゼッタイに、ないです!」
「あー、ダメかぁ!」
二人のやりとりを聞いていて、わたしは思わず吹き出した。
「よかった! やっと笑ってくれた!」
溝口君が、わたしの顔をじっと見つめて、真剣な声で言った。
すごく恥ずかしくて、そして、すごくうれしくて、そして、なぜだかわからないけど、涙がこぼれるのを止められなかった。
「じゃ、あたし、店に戻るわ。あとはお願いね、研ちゃん」
シンスケ君は立ち上がると、玄関に向かった。
「ありがと、シンスケ君……」
「何泣いてんの……。あたしとあんたの仲じゃない。当然のことをしたまでよ。あ、外、また雨強くなってきたわ」
「また、借り作っちゃったね。必ずお返しするから」
「ふーん、じゃあ、研ちゃんあたしに譲って」
「ダメ!」
びっくりした。わたしと溝口君が、ハモって叫んでいた。
思わず、二人して顔を見合わせた。
「あー気が合うこと! 見せつけてくれるわ。研ちゃん、あんた国文科でしょ。『
「知ってますよ」
「じゃね。お二人さん、ごゆっくり~!」
シンスケ君は、ドアを開けて雨の元日の街へ帰っていった。
「たいへんなお正月だったね……」
溝口君は、窓の外、雨で煙った町並みを見ながら言った。
「そっか……そういえば、お正月だったね」
すっかり忘れていた。いったいなんていう年の初めなんだろう。
「ねえ、『遣らずの雨』って、どういう意味なの?」
シンスケ君は、ちょっとうろたえたような表情になって、答えた。
「えっと……恋人とかが、なかなか帰れないように、降り続いてくれる雨のこと」
シンスケ君は、恥ずかしそうにわたしを見て笑った。
ヤバい。きっと、ひどい顔をしてるんだろう。あちこち絆創膏とガーゼだらけ。腫れ上がったり、痣になってたり、きっとオバケみたいな顔になってるに違いない。
鏡があったら、自分の顔を見て卒倒してるかも。
「ちょっと眠くなってきちゃった……」
わたしは、ベッドの上で寝返りを打って、彼に背中を向けた。
そっと、ベッドの脇に彼が座る気配がした。
それから、静かな、彼の声が聞こえた。
「雨……このまま、ずっとやまないといいな」
「うん……」
遣らずの雨――もっと降れ。
「遣らずの雨」完
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