第4話 ケツァルコアトル
ストーカーだ。
間違いない。確信した。緊張が走る。思わずバッグを胸に抱きしめる。
わたしがその存在に気づいてから、日曜日をはさんで八日目だ。
同じ足音。同じペース。わたしが足を止めると、向こうも止める。わたしが歩みを速めると、向こうも速度を上げる。
姿を見たことはない。昨日、振り返った瞬間に、影が角を曲がって消えるのが一瞬、眼に入っただけだ。
はじめのうちは気のせいだと思った。たまたまわたしと同じ方向へ同じ時間帯に帰宅する人なのかと思っていた。
しかし、違うことをわたしは確信している。
なぜわたしから姿を隠さなければならないのか。そして、どうしていつも同じ場所で姿を消すのか。
この辺りは、街の中心部からはかなり離れている。街灯も少ない。女のわたしが、一人で夜に歩くのは、怖い場所ではある。
幾人かの「常連客」の顔を思い浮かべた。わたしの経験上「人は見かけによる」のが真実。
顔つきや態度、振る舞いを見れば、その人間がどんな性格なのか、どんな嗜好なのか、およその見当はつく。
どの客の顔もストーカーになりそうにも思えるし、そうでないようにも、思える。
わたしの仕事は、風俗嬢だ。正確には、デリヘル嬢。男の欲望のはけ口として、買われる女のコ。
いや、もう「女のコ」という歳ではないか。もう三十路を過ぎた。お店では二十八歳ということになってるけど、もちろん年齢詐称。
わたしは「早番」勤務なので、拘束時間は昼から午後八時までだ。
もちろん風俗嬢というものは、完全歩合制の当日現金払い。一日中、客がつかなければ、その日の収入はゼロだ。
今日は久しぶりに八万円もバッグに入っていた。珍しくギリギリの時間に指名客が入ったから。しかし、そのせいで帰宅の時間がいつもより一時間以上遅れてしまったが。
いつもと同じだった。駅を出て二つ目の信号辺りで、相手に気づいた。否応なく、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
昨日までの五日間、ストーカーがわたしに二十メートル以上近づいてきたことはない。
だからといって、今日、ナイフを持って襲いかかってこないとも限らない。
神経をハリネズミのようにとがらせたまま、〈すばる保育園〉に着いた。
門を開ける瞬間に、背後を振り返る。
ガラス戸を開く前に、屋内から、園長先生が姿を見せた。
「
園長先生は、白髪頭なので老けて見えるが、たぶんまだ五十代。
「すみません、遅くなって。いつも園長先生にはご迷惑ばかりかけて……」
わたしは深々と頭を下げた。ほんとうに、園長先生には頭が上がらない。
「いいんですよ。雄大くーん! ママよ!」
園長先生が、奥の教室のほうへ呼びかけた。
この〈すばる保育園〉は、本来ならば八時までしか子供をあずかってはくれない。けれど、園長先生が特別に、わたしの帰ってくる九時や十時まで、たった一人で雄大の相手をしてくれている。
わたしと、
園長先生は、わたしの仕事が何なのか、薄々気づいているはずだ。しかし、何も詮索せずに、雄大をあずかってくれている。
他の子とはちょっと違う雄大を。
雄大は他の子とは違う時間に〈すばる保育園〉に来る。いつもわたしが「仕事」へ出かけるのが昼だから、雄大を昼休みのお弁当の時間のあとに、ここへ連れてくることになる。そして、他の子たちが帰ったあと何時間もたった一人、わたしの迎えを待って、残っている。
違うのは、それだけではない。
「今日の雄大、大丈夫でしたか?」
おずおずとわたしは尋ねた。
園長先生は微笑んだが、眼は真面目だった。
「いつもどおり、お利口さんだったわよ。けれど……ちょっと、ある子と言い合いになっちゃって」
「えっ! また、ヘンなこと言い出したりしたんですか……?」
「いいのいいの、だからこそ、雄大君は雄大君なのよ」
鷹揚な表情で、園長先生は笑った。
そのとき、奥の教室から雄大が駆け出してきた。帽子をかぶり、鞄を肩から提げて、すっかり帰り支度ができている。
「ママ、お仕事たいへんにお疲れ様でした」
わたしの前に直立不動の姿勢で立って、雄大は言った。
妙に大人びたことを言う。雄大は、もう年長組だ。来年の四月には小学一年生になる。
しっかりした子だ。そして、他の子よりもしっかりし過ぎている——普通じゃないくらいに。
雄大は、確かにちょっと違う子——高機能自閉症「アスペルガー症候群」の子だ。
「高機能自閉症」の子どもに、知的障害はない。むしろ、他の人よりも特別なさまざまな才能を発揮することもあるという。
あのエジソンもアインシュタインもビル・ゲイツも、それに織田信長だってアスペルガー症候群だった——なんてホントかウソかわからないことを聞かされても、今のわたしには、雄大の明るい未来を思い描くことなんてできない。
小学校に上がってから、大きな問題を起こしてしまうのではないか?
学校という場に適応できるのだろうか?
そして、ほんとうにわたし一人で、これから雄大を育てていけるのだろうか?
わたしだって、いつまでもこの仕事を続けていけるはずがない。もうすでに「常連客」は減っている。三十を過ぎても、多くの「常連さん」を持っている人気デリヘル嬢もいるけれど、わたしには、無理だ。
デリバリー・ヘルス〈アヴァロン〉から、いつクビを言い渡されてもおかしくはない。
そんな思いを振り払い、当面の問題に意識を向けた。
「ねえ雄大、何言ったの?」
「ボクは何も言っていないよ。ママが帰ってきたから『お仕事たいへんにお疲れ様でした』とねぎらっただけでそれをママは聞いていたはずなのにやっぱり聞いていなかったんだったらもう一度ねぎらってあげるけど『お仕事お疲れ様でした』」
わたしは、否応なく喉元までこみ上げてくるいらだちを飲み込んだ。
この子の妙に大人びた話し方には慣れているはずだ。保育園児なのに「ねぎらう」なんて言葉をどこで覚えたんだろう。ほんとうなら、褒めてあげるべきなのだろう。そんなことは理解している……つもりだ。なのに、疲れているときにはついつい怒りという薄暗い感情を覚えてしまう。
わたしは、なんて駄目な母親なのだろう。
無理に笑みを作る——そして、深呼吸。
園長先生のほうを向くと、園長先生は静かに微笑んでいた。
「雄大君は、電車が大好きでしょ? ある子が電車のおもちゃで遊んでいたら、雄大君が、それがホンモノと違っているって言うの。そりゃおもちゃなんだから——って、わたしたちは思うけど、雄大君にはそれが許せなかったみたいね」
「そうなんですか……ご迷惑おかけして、申し訳ありません」
わたしが頭を下げると、雄大が口を開いた。
「だってレン君が遊んでたのはJR常磐線の651系だから狭軌で軌間は1067ミリメートルなのに同じ線路にJR西日本の500系のぞみを走らせようとしていて標準軌で1432ミリメートルの新幹線は同じ線路を走れないからダメだって言ったのにレン君が聞かないから線路をはずしたら——」
「わかった! もういいっ!」
わたしは雄大をさえぎった。思わず声を荒げてしまう。
奥歯を噛みしめ、さらに一度、大きく深呼吸した。
園長先生が眼の前にいなかったら、わたしはきっと手を上げていただろう。
園長先生は静かにわたしの顔をのぞきこんだ。
「素晴らしいと思わない?」
「えっ?」
「まだ五歳なのに、わたしにもわからない難しい専門的なことを、あんなにすらすらと言える子なんて、他にいないわよねえ。『末は博士か大臣か』……なんて、古いこと言っちゃったかなぁ」
「すみません、ほんとうに……」
「金本さんが謝ることはないの。わたしね、雄大君を見ていると、つくづく思い知らされるの。子どもって、ほんとうに無限の可能性を持ってるんだなぁ、って。ときどき忘れてしまいそうになるんだけど。雄大君のおかげで、わたしも初心に返れるの」
「でも……」
園長先生は、そっとわたしの肩に手を置いた。
「金本さん、無理しすぎちゃ駄目。まっすぐに、強く強く立っていようとする人ほど、ぽきん、と折れやすいの。風になびいてよくしなる木は、折れにくいもの」
わたしは何も返答できず、ただ頭を下げるだけだった。
園長先生には、お世話になってばかりだった。
雄大が「アスペルガー症候群」だと診断されたのは三歳のとき、これから保育園に預けようか、という頃だった。その頃には、まだ達彦も一緒に暮らしていた。
入れようと思っていた保育園を四軒もたらい回しされた。
「うちではそういう『障碍児』を受け入れる体勢がありません」という冷たい返事が投げつけられた。
そんななか、この〈すばる保育園〉だけは——自宅からかなり離れていたが——雄大を受け入れてくれた。
園長先生が、自閉症やアスペルガー症候群やADHD(注意欠陥多動性障害)やLD(学習障害)についての理解が深かった。
わたし自身、園長先生から教えられることは多かった。いろんな本を紹介され、わたしも一生懸命、それらを読んで勉強した。
けれど、達彦はそんなわたしと雄大を置き去りにして、一人で出て行った。
「話し込んじゃったわね、もう遅いのに」
「じゃあ、失礼します。雄大、園長先生に『さようなら』言いなさい」
雄大は、園長先生の顔を見ようとはせず、その後ろあたりに眼をやりながら、
「園長先生さようなら」
機械的に言った。
「はい、雄大君、さようなら、また、明日ね」
わたしは雄大の手を取り、〈すばる保育園〉から出た。
鉄製の門を開けたところで、思わず周囲を見回す。誰もいないことを確認する。
そのときに、気づいた。雄大もまた同じようにきょろきょろと左右を見ている。
「何してるの?」
「ママは三日前の火曜日から保育園出るときにこうするようになったからぼくも同じように警戒しているんだけど暗くて何も見えないね」
胸を衝かれる思いがした。雄大に気づかれていたのだ。いつもながら、その観察眼には驚かされる。
けれど、ストーカーの存在だけは、雄大に知られるわけにはいかない。雄大を怖がらせてはいけない。
わたしがもっとしっかりしなきゃいけない。
雄大の手を握ろうと、左手を差し出した。しかし、雄大はその手を取ろうとせず、こわばった顔でじっと手を見ていた。
「怖い指環の手だもん」
そうだった。
わたしの左手には、羽の生えた蛇が巻き付いている。
アステカ文明の神様〈ケツァルコアトル〉をかたどったシルバーのリングだ。確かに、グロテスクなデザインだ。以前から、雄大はその指環を怖がっていていた。
その指環は、雄大の父親——達彦にはじめてもらったプレゼントだ。
達彦は、アステカ文明やマヤ文明といった、中南米の歴史に興味を持っていた。
——コルテスたち「コンキスタドール」に侵略されて滅び行くアステカの戯曲を書くんだ。
つねづね、達彦は言っていた。
彼は、小劇団の主宰だった。彼が学生時代に旗揚げした、いわゆる「アングラ」というか「実験的」な演劇をやる劇団だった。小さな「アトリエ」を持ち、そこで年に一度か二度の公演を打っていた。
わたしは二十歳の時、演劇好きの友人に勧められてその劇団〈落下傘舞台〉の芝居を観に行った。客が三十人も入れば満員になってしまうアトリエなのに、そこでは、役者たちが全身全霊を込めて汗の臭いさえ感じられるほどの近さで熱く全身を使って演じ、わたしがこれまで観たことのない世界が、大きく大きく広がっていた。わたしは、完全に打ちのめされた。
その芝居——シェイクスピアの「リチャードⅢ世」がモチーフになっていることをあとで知った——の演出が、「
そして、わたしはその劇団〈落下傘舞台〉に入団した。一年が過ぎた頃、わたしと達彦は男と女の関係になっていた。
昔々の話だ——
わたしは、指環をしていない右手を差し出した。
「ごめんね」
雄大は両手でわたしの手にしがみついてきた。
小さくて、温かい。
この小さなぬくもりを守れるのは、わたししかいないのだ。
それから数日後のことだった。
昨日は、ストーカーの姿を見かけなかった。けれど、まだまだ安心することはできない。奴が、単に風邪を引いただけなのかもしれない。
——いったいいつまで……?
押しつぶされそうになる。けれど、雄大の笑顔を見ると、つらさは全部吹っ飛んでしまう。この子のためなら、がんばれる。この子を守るためなら、わたしは命を懸けられる。
その日、雄大を〈すばる保育園〉に送り届け、〈アヴァロン〉に出勤したら、すぐに指名がかかった。
「チョウさん」というニックネームの客だった。わたしの数少ない「常連さん」だ。とても面白いお客さんで、わたしのお客さんランキングでは、もしかしたらナンバー・ワンかもしれない。
日勤のドライバーの
デリヘル嬢は、自宅に派遣されることもあるが、もっとも多いのがラブホだ。お店がホテルと契約しているので、わたしたちデリヘル嬢も、安心して「仕事」ができる。
客に先にチェック・インしてもらって、デリヘル嬢がフロントに一声かけて、あとから入る。
デリヘル嬢は、店舗型の風俗嬢と違って、客の男と二人きりになる。万が一のために催涙スプレーと非常ベルを持たされ、鳴らせばすぐに待機しているドライバーさんが飛んでくることになっている——わたしはさらに自腹で買ったスタンガンもバッグに入れている——。ラブホなら、フロントの人が見ていてくれるので、わたしたちも安心して「仕事」ができる。
ドアを開けると、いつものように媚びを売るような取り繕った挨拶はしない。「チョウさん」は、馴染みの客だから、そんな必要がない。
それに、実は「チョウさん」を相手にちゃんと「仕事」をしたのは——つまり、ホントにエッチをしたのは——最初の一回だけだった。
はじめて彼と会ったときは、もう一年半近くも前だ。彼も三十歳過ぎだったけれど、「フーゾク」自体がはじめてだったようだ。
ホテルのソファに腰掛けて、とても緊張している様子だった。
もちろん、童貞ではなかった。けれど「デリヘル」から派遣された、見知らぬはじめての女の子とエッチすることにすごく警戒と抵抗を感じていたようだった。
——じゃあ、なんでデリヘル嬢を呼んだんだよ。
わたしはちょっとムカついた。しかし、そんなことで不愉快な顔をしたら、この商売は勤まらない。
「あのぉ、あたくし、こういうのは、はじめてなんですが、よろしいでしょうか?」
ずいぶんと変わった言葉づかいだった。
「はじめて? ふーん、でも奥さんとかいるんでしょ」
「いや、そんなものはござんせん。いまだに一人もんでして……」
ますますヘンな人だ、とわたしは思いつつ、素知らぬ表情を続けた。
「えー、実は、師匠に言われたんです」
と、男は言った。
「師匠……って?」
「ええ、あたくし、噺家でして……」
「ハナシカ……?」
何か新種の動物の名前かと思った。
「
「あ、落語家……」
「実は……師匠に、『遊び』の一つも知ってなきゃ、いい噺家にはなれねえ、なんてえことを言われまして……それで……ねえさんを、お呼びしたわけです」
「ねえさん」と来た。そんなふうに呼ばれたのははじめてだ。わたしはだんだんとこの客に興味を覚えてきた。
「いえね、あたしだってこの歳です。ご婦人を知らないわけじゃあありませんが、みんなシロでしてね、そう申しましたら師匠が『おめえ、クロのご婦人も知っておかなきゃいけねえよ。そんな野郎に廓噺ができるのかい?』なんてえことを言うもんでして。そういう師匠だって、吉原の遊郭だの品川なんかの岡場所を知ってるわけはないんですがねえ」
「『シロ』とか『クロ』とか犬みたい。何それ?」
「あ、こりゃどうも失礼しました。お気を悪くされたらお詫びしますが、『素人』と『玄人』のことです」
「そっか、わたしは『クロ』なんだ……」
わたしが言うと、相手は慌てた。
「いやいや、そりゃ法律上じゃギリギリかもしれませんが——昔っからお女郎さんは『クロ』ってんです」
男は「お女郎」を「おじょうろ」と発音したので、鉢植えに水をやる「じょうろ」のことかと思った。「不思議な人」だという思いはよけいに強くなった。
「じゃ、とりあえず、『クロ』のテク教えてあげよっか」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げられた。こんな客ははじめてだった。
ことはあっけなく終わったが、二回戦を男は辞退した。時間はまだ余っていた。
「落語家……噺家って、芸能人みたいなものなの?」
わたしが訊くと、男は声を上げて笑った。
「とんでもない、あたしみたいな『二ツ目』なんざ、いちばんツライ時期でね。仕事がいちばん少ないんですよ。いい歳してバイトしてる輩だっていますよ」
「『二ツ目』? じゃあ、昇進したら『三ツ目』になるの?」
「それじゃあ手塚治虫先生の漫画だ。次は『真打』。テレビに出てるようなお方ぁ、みんな『真打』で『師匠』と呼ばれる人たち。念のため言っとくけれど、『二ツ目』の前は、『一ツ目』じゃあありませんよ。『前座』ってんです」
そのあと、「落語界」についての「レクチャー」みたいなことを受けて、時間は過ぎた。
「名前、訊いたらまずい? 落語家さんの場合、芸名っていうの? 『ナントカ亭カントカ』っていうやつ」
私が尋ねると、彼は笑った。
「あたしは、『
「ふーん、すごく長い名前。一度で覚えられないかも。わたしは、短いよ。『ナミ』です。今度は指名してね」
「え、そうします」
「ね、そんなことより、何か落語やってよ、チョウさん」
「チョウさん? いや、そう呼んでくれてもよござんすがね……今から、噺を?」
「だって、まだ時間あるし」
「あららら……とんだ『早撃ち』だ。ワイアット・アープもびっくり。じゃあ、小咄を一つ」
「ああいうのは駄目だよ、『隣の家に囲いができたんだってねえ』っていうの」
「あららら、バレちまいましたか」
チョウさんは大きな声で笑った。わたしもつられて笑ってしまった。
すると、わざわざチョウさん——我妻家朝八郎は、ベッドの上に正座した。着ているものはバスローブだったけれど、そのたたずまいは、ほんとうにテレビで何度か観たことのある落語家さんの姿そのものだった。
「えー、しばらくのご辛抱、お願い申します。親てえのは、子どもの名前をつけるときに、ほんとうに、苦労されるそうですね。あたしゃ、まだ子どもがおりませんので、その苦労てえのはよく存じ上げませんが、自分の名前、これは師匠からいただくんですが、そのときばっかりは、ちょいと悩みましたね。我妻家朝八郎、これ、師匠の八番目の弟子だからってんで、朝八郎。安易なもんです。ええ、うちの師匠、根がいい加減な人間でございまして、一番弟子が朝太郎、二番弟子が朝二郎……あとはご想像の通りてなわけで……」
それが、チョウさんとの出会いだった。話してくれたのは「
その日、〈すばる保育園〉から雄大を連れて帰ると、さっそく雄大相手に、「寿限無」を演ろうとした。
「ねえ、ママが面白い話してあげる。そこ座って」
「面白い話? 聞きたい聞きたい!」
わたしが座布団の上に正座すると、真似をするように、雄大も小さな座布団に正座した。
かつて小劇団の舞台に立ったこともある「舞台女優」の腕の見せどころだ。
わたしは、チョウさんに教えてもらったばかりの「寿限無」を話し始めた。
まずは、噺に入る前の前置き「マクラ」だ。
「ねえ、『雄大』ってどんな意味なのか知ってる? 『とても大きい』っていう意味なの。ママとパパはね、雄大に、『心のとても大きな、やさしい人になってもらいたい』って思って、そういう名前をつけたの。名前を付けるのって、とても大事で、大変なことなんだよ」
「ぼくの名前はべつに面白くないから早く面白い話をしてよ」
厳しい観客だ。
わたしは、続けた。
主人公が和尚さんに生まれたばかりの赤ん坊の名前を付けてもらいに行く——というオープニングのくだりだけで、すぐさま見破られた。
「ママそれは『寿限無』だしその名前はよく知ってるしぼくだって言えるしママよりも速く言えるんだから面白くないよ全然」
さすがに、親のわたしもムッとしてしまった。
しかし、実際に、雄大のほうが記憶力が上だった。
「『寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶら小路のぶら小路パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助』という名前の子どもの話だよね」
脱帽だった。
一言一句間違えることなく、しかも、すごいスピードでまくしたてた。覚えたてのわたしでさえ「海砂利水魚」の辺りであやしくなってしまうというのに。
やっぱり、雄大は「ふつうの子」とは違う。
けれど、違うからこそ、雄大は雄大なのだ。
なんだか無性にうれしくなってしまって、無言のまま雄大を力一杯に抱きしめた。
「痛いよそんなにギュッとしたら苦しいよぉ。それよりママが面白い話してくれる約束だったじゃん……」
雄大は言った。
「いいの! ママがギュッとしたいときにはいつでもギュッとする権利あるんだから!」
それからというもの、だいたい一ヶ月に一度くらいの割合で、「チョウさん」こと我妻家朝八郎は、わたしを指名してくれた。
そのたびに、チョウさんは新しい噺を聴かせてくれた。というよりも、師匠に教わったばかりの噺を、わたし相手に練習していた、というほうが正確かもしれない。
わたしだって、かつては舞台女優のはしくれのはしくれだった。「演技」というものを全然知らないわけではない。
けれど、今まで「落語」なんて聴いたことのないわたしは、ベッドの上に正座してバスローブ姿のチョウさんが、たった一人で何役も演じ分けて世界を作る様子にすっかりはまってしまった。
その日、チョウさんは改まった表情になった。
「人情話、してもいいかい? 実は今度、ある大学の『オチケン』に呼ばれて、演ることになったんだ」
「ふーん、人情話かぁ。どんなの? 聴いてみたい!」
「こんな大ネタ、二ツ目のあたしじゃあ、高座でやらせてもらえないからねえ」
チョウさんが話し始めたのは、「お直し」という噺だった。
ある女郎が店の若い衆といい仲になってしまう。今で言えば、風俗嬢がその店の従業員とデキちゃった、といった感じか。昔も今も、もちろんそんなことは御法度。
けれど噺の中では、お店の人に理解があって、二人は夫婦になれる。しかし、幸せな夫婦生活も束の間の出来事……駄目男の旦那のせいで、二人は「
今のフーゾクでいう「延長する」というのを、「蹴転」では「直す」と呼ぶのだそうだ。
「さ、手を貸して、ここに入れてごらんよ」
女は客の手を取って懐の胸のなかに入れる。
「ほら、嬉しくって嬉しくってドキドキしてんの、わかるだろ?」
「お、おお? ホントだぁ!」
そのとき、外で声を聴いていた夫が、イラついて声を上げる。
「お直しだよっ!」
客と女がいちゃつくたびに、夫が焼き餅を焼いて「お直しだよ!」「直してもらいなよ!」と外から声をかける。けれど、だんだんと客が本気になってきて、女もうまくそれに調子をあわせる。そのたびに「直してもらいなよ!」と割り込む夫。しまいには怒鳴る。
客が帰ったあと、完全に夫はブチキレていた。
「なんだおめえ、あの野郎と一緒になるってえのか!」
「何言ってのさ、バカだねえ。ありゃお芝居じゃないか
「妬いちゃあいねえけど……イヤ〜な心持ちがするんだい! 冗談じゃあねえ。もうよしやがれ!」
ブチキレた夫の前で、ついに、我慢に我慢を重ねてきた女が思いを吐き出すのだ。
「誰のためにやってると思ってんだい! 『イヤ〜な心持ちがする』? 亭主のいるそばでもって、こんなことするほうが……よっぽど……イヤな心持ちがするんだい! 畜生、畜生、畜生! あたしゃもうイヤだ! もうこんなことするのイヤだイヤだイヤだ!」
ついに感情の糸が切れて、号泣する女——
ついさっきまで爆笑していたのに、ラスト近くのその場面に来たとき、わたしはボロボロと泣いていた。
そこで夫婦は仲直りをする。やはり、二人は愛し合っていた。
ところが、そこへ先程の客が、またやって来る。
そして、一言。
「直してもらいなよ!」
しばらく涙が止まらなかった。そばのティッシュを何枚も取り出して、ぐずぐずと鼻をかんでいた。
チョウさんは、苦笑いをして、わたしに立て膝のまま近づいてきた。
「成功だった……みてえだなぁ。ありがてえ、あたしの噺でこれだけ泣いてくれる人がいるってえのは、噺家冥利につきます」
「うん……凄くよかった……でも、哀しいね。この二人、あのあとどうなったんだろう……幸せになれたのかなぁ」
「なれなきゃあ、この世の中、間違ってる」
チョウさんは言った。
わたしはそのままチョウさんに抱きついた。わたしたちはベッドに倒れ込んだ。
いつもの時間に駅に着いた。おそるおそる通りを進んだ——二つ目の信号。
しかし、今夜やストーカーの気配は感じられなかった。さりげなく後ろの様子をうかがいながら、歩いた。
尾けてくる者の姿はなかった。
しかし、緊張と警戒心は消えない。何度も何度も背後を振り返っていたら、いつの間にか〈すばる保育園〉に着いた。
いつものように園長先生に挨拶をした。
「今日の雄大は……」
「そんなに心配しないで。とっても元気でいい子だったわよ」
今日は呼ばれもしないのに、雄大はすぐに駆け出してきた。
「ママ、お仕事お疲れ様でした」
いつもと同じ台詞。けれど、今日の雄大の笑みはいつもよりも、いっそう生き生きとしているように見えた。
わたしはホッとして、園長先生に深々と頭を下げた。
「またご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんけど……」
「わたしたちは全然、迷惑なんてかけられたこと、ないわよ。金本さん、もっと肩の力抜いてリラックス、リラックス」
「ありがとうございます。じゃあ、失礼します」
雄大にも挨拶をさせ、わたしと雄大は保育園を出た。
保育園から一歩外へ出れば、どうしても、警戒心は消えない。一度立ち止まって、周囲を見回した。雄大も昨日と同様に、真似をする。その姿がとてもけなげだ。
ふと、雄大が画用紙を丸めたものが、鞄から頭を出していることに気づいた。
「雄大、お絵描きしたの?」
「うん、した」
「何の絵を描いたの? おうちに帰ってからママに見せてね」
「ママの絵描いたんだよ。アイコ先生も園長先生もほめてくれた」
「ホント? よかったね! 早く見たいなあ! ママ、とってもうれしいよ!」
「だって昨日お外で描いてたらママは髪の毛がもっと短い方が似合うって教えてもらったから想像で短い髪の毛のママ描いたんだ」
言葉を失った。
「誰が……そう言ったの?」
不意に、饒舌だった雄大が口をつぐんだ。
「雄大? 園長先生に言われたの?」
雄大は首を振った。
「じゃあ、雄大にママの髪型を教えてくれたのって、誰?」
雄大は、黙り込んだ。歯ぎしりの音が聞こえそうなほど、しっかりと頑として口をつぐむ気だ。
雄大がその気になってしまったら、あとはテコでも動かない。わたしは、それ以上の追及をやめた。今、いくら言っても絶対に答えないはずだ。とりあえず、わたしたちは帰ることにした。
わたしたちは手をつないで、家に戻った。雄大の機嫌もすっかり直っていた。
二人で声を合わせて、「となりのトトロ」の主題歌「さんぽ」を歌いながら、帰宅した。
しかし、そのときのわたしはまだ気づいていなかった。
雄大は、わたしの左手——ケツァルコアトルの指環をした手——をしっかり握っていたのだ。
家に着くと、まずは雄大にシャワーを浴びせる。今では自分一人でできるようになった。バスタブにお湯を張って入れるのは、ガス代や水道代がかかるので、めったにしない。わたしも、シャワーだけで済ませることに慣れてしまった。
雄大がシャワーを浴びているあいだに、夕食の支度。保育園児の夕食が夜九時過ぎというのは遅すぎるが、しかたがない。
昨日炊いたご飯はラップに来るんで冷凍してある。それを電子レンジでチンして、あとはレトルトのカレー。粗末で栄養のバランスもよくないけれど、今のわたしに作れる精一杯の食事だった。
ふと、雄大の保育園の鞄が眼に入った。画用紙——わたしの顔の絵。
ショート・ボブのわたし——耳には、貝殻をかたどったピアス。
親の欲目ではないが、雄大は五歳児にしては絵が上手い。雄大にとって「絵」とは、単に眼の前にある物や記憶を画用紙に細密に記録する、だけの行為なのかもしれないけれど。
確かにわたしは以前、こんな髪型をしたことがある。貝殻の形をしたピアスも、持っている。
シャワーを浴び終えた雄大がびしょぬれの髪のまま、バスルームから出てきた。
慌ててバスタオルを取って、雄大の髪を拭う。雄大は「キャッ、キャッ」と声を上げて喜ぶ。
けれど、わたしは動悸を抑えられなかった。
雄大の髪を拭きながら、でき得る限り冷静な声で、わたしは尋ねた。
「雄大、ママの絵、とても上手ね。美人に描いてくれてありがと」
「教えてもらったとおり描いただけだけどママがうれしいんだったらぼくもうれしいしそれに——」
雄大を遮った。ほとんど詰問する口調だと自覚していた。
「誰に教わったの?」
またしても、雄大は口をつぐんだ。
「なんでナイショにするの?」
やさしく言うと、雄大は、小さい声で言った。
「……おじさん」
「ええっ?」
絶句した。息が止まりそうになる。
「……おじさんが、教えてくれた。でも……ママにはナイショだって……」
総毛立つ、とはこういうことを言うのだろう。
ストーカー。
まさか、わたし自身ではなく、雄大のところへ現れるなんて。
混乱した。パニックを起こしそうになる心を、必死に押さえ込んだ。そして、考えた。
ストーカーは、わたしに息子がいることを知っている。しかも、〈すばる保育園〉に通っていることも。
さらに、わたしのヘア・スタイルがショート・ボブだった頃のことを知っている。
全身が震えた。いったい、奴は何者なのか。いつからわたしを、そして雄大を狙っていたのか。恐怖がせり上がってきた。吐きそうになった。
わたしは怒鳴っていた。
「雄大! 絶対に駄目だからね! 知らないおじさんに会っちゃ駄目! もしも知らないおじさんが保育園の近くに来たら、すぐに逃げなさい。そして園長先生に言うの。わかったわね!」
「でもおじさんって——」
言いかけた雄大の無邪気な顔。
しかし、わたしの視界は——脳の中は、すでに真っ赤に染まっていた。血が沸騰しながら逆流する。
この子は、わたしが命懸けで守ると決めた。なのにこの子は——
自分の手の平の痛みに、我に返った。
次の瞬間、大声で雄大が泣きわめき始めた。
「うわあああああああああ!」
叩いてしまった。
左手で雄大の濡れた髪を摑み、右手でその頬を張っていた。
とっさに左手を離した。
「ああああああああああ!」
叫びながら、雄大がわたしから逃げていく。
わたしの左手の指に、雄大の濡れた髪がからんでいる——ケツァルコアトルの指環と一緒に。
——また、やってしまった。
「ごめんね……雄大……」
喉の奥底のほうから、なんとか絞り出した。けれど、それはもう声になっていなかった。
「あああああああああああ!」
雄大が六畳間を駆け回る。振り回したその腕がカレーの皿にぶつかる。
畳の上に飛び散るカレー。
「あああああああああああ!」
雄大は叫び続けた。
「ごめんねごめんねごめんね……」
いくら謝ったところで、遅かった。
わたしには何もできない。駆け寄り、嫌がる雄大をむりやり抱きしめた。強く強く強く抱きしめた。泣きながら抱きしめた。
「ママは悪いママだね。ごめんね、雄大……」
わたしの力ない声は、雄大の耳までは、届かない。
「あああああああああああ!」
「雄大はママをこんなにキレイに描いてくれたのに……ひどいママだね。許して……許して……許して……」
「あああああああああああ!」
雄大の叫び声が、続いた。
その夜は、二時間ほどで雄大はおとなしくなり、眠りに就いた。
わたしは結局、一睡もできなかった。
翌朝、雄大は、前夜に何ごともなかったかのように起き出してきた。わたしが叩いた顔もすっかり腫れは引いていた。彼自身、叩かれたことを覚えていないかのようだった。そして、開口一番、
「昨日、晩ご飯食べてないからおなかペコペコ」
と言った。雄大は、いつもどおり朝からハイテンションだ。部屋中を走り回っていた。
このままではいずれ壊れてしまう、と思った。わたしも、雄大も。
今は平手で済んでいるが、それが拳に変わらないと断言はできない。わたしが雄大を叩くとき、わたしの記憶は飛んでいる。これを「児童虐待」と呼ぶのだろうか。
雄大がわたしと暮らすことは、彼にとって不幸せなことなのだろうか。
やっぱり、わたしは母親失格なのだろうか。
来年の四月からは、雄大も小学校に上がる。もっと経済的に苦しくなるだろう。
それに、雄大自身も、たくさんの慣れない子どもたちと一緒に学校生活を送ることになる。
アスペルガー症候群の子が、どのくらい学校という世界に適応できるのだろう。そして、もしも問題を起こしてしまったとき、わたしだけで対処できるのだろうか。
不特定多数の男たちの欲望のはけ口になって生きているようなこのわたしが。
——児童福祉施設。
その選択肢も考えたことがある。達彦と別れたばかりの頃だ。
達彦は、わたしと一緒に暮らし始めてからも、塾講師のアルバイトをしながら劇団を続けていた。わたしも、何度か舞台に立った。
好みのタイプは「いつまでも少年の心を持った男の人」なんて言う女の子がいるが、わたしにはタワゴトにしか聞こえない。まさに達彦は「少年の心を持った男」だった。家庭人としての自覚は、ゼロだった。
彼の頭のなかにあるのは、常に次の演劇の公演のこと。次の台本のこと。ただそれだけだった。
妊娠は予定外だった。けれど、わたしはうれしかった。妊娠中も、達彦は次回公演の台本を書き続け、あろうことか、臨月のわたしが舞台に立つことになった——しかも、妊婦の役で。
雄大が生まれても、達彦は変わらなかった。そこが彼のいい点でもあり、最悪な点でもあった。彼は、いったん台本の執筆を始めると、もう周囲が見えなくなった。
雄大は夜泣きがひどかった。そんな雄大と、あやしているわたしに対して、「うるさい!」と怒鳴りつけるのが、ほぼ毎晩のように続いた。
ある日、雄大が三歳で〈すばる保育園〉にも慣れ始めた頃、何の前触れもなく、達彦は消えた。
律儀にも、離婚届にハンコを押し、彼名義の通帳からちょうど半額だけ引き出し、すべての彼の衣服を持ち出して、達彦は——雄大の父親は姿を消した。
それから数週間、何ごともなく過ぎた——ように、わたしには思えた。
ストーカーの姿も見ていない。雄大にそれとなく尋ねても「知らないおじさんなんて会ってない」との返事が返ってきた。雄大がウソをつけば態度ですぐにわかる。
ある日、また雄大が絵を描いてきた。鞄から画用紙がのぞいていた。
「今度はどんな絵を描いたの?」
「レン君もヨシ君もマミコちゃんもみんな怖いって言ったけどホントは怖くないってわかったから描いたらやっぱりアイコ先生もみどり組のユリ先生も怖いって言うけどやっぱり怖くないよ」
「なあに、それ、楽しみだなぁ」
「だってホントは怖くないんだしホントはとってもとっても大切なものだって教えてもらったし……」
また、嫌な予感が背筋を駆け上がるのを感じた。
しかし、わたしはそれ以上追及するのをやめた。黙ったまま、二人で家に戻った。
いつも通りの夕食。あえて、わたしも絵のことを持ち出さなかった。あの日の二の舞になることを恐れた。
雄大は、ボロボロになった「鉄道図鑑」を一生懸命に読んでいた。子ども向けの本ではない。大人の「鉄道マニア」が読むような、大型の図鑑だった。新刊で買うとかなりの値段がするので、新古書店で安く手に入れた。それを、飽きることなく何度も何度も読み返している。今にも表紙と中身がバラバラになりそうだ。
やがて、そのまま雄大は眠ってしまった。そっと抱きかかえる。いつの間にか、重くなっている。そう、子どもはどんどん成長していく。けれど、「親」のほうはどうなのだろう? 成長しているのだろうか?
雄大を布団に寝かせた。ふと、視界の片隅に雄大の保育園の鞄が見えた。
そういえば、雄大が描いたという「怖い絵」をまだ見せてもらっていない。わたしはそっと鞄を開けた。丸めた画用紙を開いた。
動きが止まった。眼を疑った。
体をくねらせる羽根のついた蛇——ケツァルコアトル。
いったい、なぜ? あれだけわたしの指環を怖がっていた雄大が、どうしてよりによって〈ケツァルコアトル〉の絵を描いたのだろう。
誰かに教わった、と言っていた。
——ホントは怖くない、ほんとうはとっても大切なもの。
鞄の奥に、見慣れぬものがあった。取り出した瞬間、愕然とした。
新品の十八色クレヨンのセットだった。保育園の入園時に買ったものは、十二色セット。もう箱が壊れてセロハンテープで補修してある。ほんとうは新しいのを買ってあげたかったが、そんなお金はない。短くなってどうしても描けなくなった色だけ、一本ずつ新品を買ってあげていた。
新品の箱を開けた。まだ、ほとんど使われていない。
「ママ……?」
声に跳び上がりそうになった。
雄大が眼をこすりながら、上半身を起こしている。
わたしは、大きく深呼吸をした。落ち着け。自分に言い聞かせる。これは、何かの間違いだ。怒ってはいけない。
「ねえ雄大、このクレヨン、どうしたの?」
沈黙が落ちた。が、ためらいがちに、雄大は口を開いた。
「……もらった」
「誰にもらったの? 『知らないおじさんに会ったことなんてない』ってママに言ったじゃないの!」
我知らず、語気が荒くなる。
「ウソじゃないよ……」
「じゃあ、この絵は何? どうして嫌いだったはずのあの指環の絵を描いたの? 誰が『怖くない』って教えてくれたの? どうして……どうして、ママにウソをつくの!」
ほとんど叫ぶように、言った。
「ウソじゃないもん! ウソじゃないウソじゃないウソじゃないウソじゃないウソじゃない……」
「雄大! じゃあこの新しいクレヨンは何? ママにほんとうのこと言いなさい!」
立ち上がる。雄大に駆け寄る。雄大は背中を向けてキッチンへ走った。けれど、狭い部屋だ。すぐに追いつく。手を伸ばす。
「ママにウソをつかないで!」
「ウソじゃないもん! 知らないおじさんじゃないもん!」
その瞬間、わたしは、自分が右手を振り上げていることに気づいた——しかも、拳を握りしめて。
雄大は、涙に濡れた眼で、必死に訴えていた。
わたしは、自分自身が恐ろしくなった。ぶるぶると震えながら、ゆっくりと拳を下ろした。
「じゃあ……誰なの……? お願いだから……ママに教えて……お願い」
雄大の答えに、わたしは
「パパだよ!」
わたしはあえぐように息を吸い込み、そのまま畳の上にへたりこんだ。
「パパは『知らないおじさん』じゃないないからぼくはウソなんかついてないもん」
「な、何言ってるの……? 雄大には、ママしかいないの。パパなんか、いないの」
「そんなことない! レン君にもジュン君にもショウタ君にもマミコちゃんにもパパがいるんだからぼくにもいるんだもん」
全身の力が抜けそうになった。
あり得ない、彼が戻ってくることなんて。それに、仮に達彦が戻ってきたとしても、どうしてわたしの今の姿なんか見せられるだろう。
わたしは、むりやり、笑みを作った。これでも、以前は小劇団〈落下傘舞台〉の看板女優だったのだ。
「バカね、雄大。まだ寝ぼけてる?」
「えっ?」
わたしは雄大の手を取り、布団へ連れて行った。半ば強引に横たえると、掛け布団をかけた。
「ごめんね、ママが絵を見てたから、起こしちゃったわね。悪い夢に、うなされてたのね」
「悪い夢?」
「そう、ママが頭からツノ出して、口から火を噴く夢。パパに助けてもらう夢」
「パパの……夢?」
「それからね、雄大が描いたのは〈ケツァルコアトル〉という長い名前の神様なの。見かけは怖そうだけど、人を助けてくれる優しい神様なんだよ」
「知ってるよパパがそう言って……」
「だから、それが、夢なの。ママが教えてあげたんでしょ。すっかり寝ぼけちゃって、夢のなかのパパとごっちゃにしちゃったのね」
不審そうな顔つきの雄大の横に、添い寝した。
「さ、もう寝ないと、明日寝坊しちゃうよ。寝坊したら、朝ご飯抜きだからね」
そして、雄大がいちばん好きな、「さんぽ」をスロー・バラードで歌ってあげた。
「パパ……」
雄大の目蓋がだんだんと降りてきて、やがて、寝息を立て始めた。
急に、涙があふれて止まらなくなった。
ほんとうに、文字通りの子供だましだ。なんてひどい母親なのだろう、としばらく泣いた。
不思議なもので、やっぱり翌朝になると、雄大はケロリとして起き出した。
「パパ」のことも、絵の具のことも、〈ケツァルコアトル〉のことも、まったく話題に出なかった。わたしからも蒸し返すことはしなかった。
不安は残った。雄大はウソがつけない子だ。〈すばる保育園〉に連れて行くと、わたしは園長先生に、「決して外から大人を雄大に近づけないように、しっかり見張って欲しい」とお願いをした。
その日、またチョウさんから指名があった。つい先日、指名してくれたばかりなのに、珍しい。
ホテルのベッドに腰掛けて待っていたチョウさんは、はち切れんばかりの笑顔だった。
「何かいいことあったの? 宝くじでも当たったとか」
すると、いきなりチョウさんはベッドから降り、床の上に正座して、深々とわたしにお辞儀をした。
「実は、あたくし、このたび、真打ちに昇進することにあいなりました」
「え、ホント? 凄いじゃん!」
「『我妻家朝八郎』改め、『六代目我妻家
「批評だなんて、わたし、何もしてないよ」
「いえいえ、お客様の忌憚のないナマの感想、これが他の何にも代え難い批評なんです。ほんとに、勉強させてもらいました」
「そんな……でも、ほんとにおめでとう! 師匠!」
「実は、このたび『襲名披露』ってのがあってね、その日にはあたしが寄席のトリを務めさせていただくんだ。あたしは『
「ふーん、さすがお師匠さんだね。で、何を演るの……って言われてもわかんないけど」
「いろいろ考えた末、『子別れ』を演ります」
そのタイトルを聞いたわたしは、いったいどんな表情をしていたことだろう。
「こ……『子別れ』?」
「ほんとうは『通し』で演りたかったんだけど、それはちょいと時間が長すぎるってんで、『子別れ』の『下』だけを演ります」
複雑な気分だった。すごく聴きたい気持ちと同時に、聴くのが怖くもあった。
そのあいだに、チョウさん——我妻家龍朝師匠は、ベッドに上がり、正座して居住まいを正した。
「えー、本日はお運び、ありがとうございます。先日、家具を買ったんです。ちょっと値が張りましたが、ヨーロッパの立派なタンスです。このタンス、一つ一つ全部、職人さんの手作りなんだそうですね。ほんとうに見事なものです。やっぱりそういうものはそれなりのお値段がするものですから、買ったはいいけど、中に入れる物がない。今でもずっと空っぽのまんま、なんてことになっちゃいまして……」
チョウさんのクスグリに笑いながら、「子別れ・下」別名「子は
腕のいい職人の主人公。しかし、彼は酒という悪い癖があった。彼は酒に溺れ、吉原の遊女を家に引っ張り込み、子どもと妻を追い出してしまう。しかし、いろいろあって彼は心底改心し、酒もすっかりやめて、職人として真面目に働き始める。そして、三年——
サゲまで来ても、しばらく身動きできなかった。心が激しく揺るがされていた。なんというタイミングで、なんという噺を聴かせてくれるのだろう。
「どうでした?」
チョウさんが、心配そうな顔でわたしを覗き込んだ。
「凄い……良かったよ……でも、ごめんね。わたし、この噺、冷静に聴けない……」
「まだ、あたし、勉強が足りませんね……稽古みっちりし直して参ります。本番の高座じゃあ、もっと立派な噺をお聴かせします」
チョウさんは、神妙な顔で頭を下げた。
憂鬱な気分で〈アヴァロン〉に戻った。後悔。自己嫌悪。
わたしは、自分のことしか考えていなかった。わたしは、自分がいちばん不幸を背負い込まされた、とばかり思っていた。今の今まで、気づかなかった。
そんなときに限って、休む間もなく、次の「仕事」が入った。こんな気分で見知らぬ男とエッチができるものか。
チェンジされてもいいや、という投げ遣りな思いを抱えたまま、次の客の待つラブホテルに向かった。
部屋番号は2501号室。手鏡で髪型を整え、笑顔の練習。そして、深呼吸。
そう、わたしは「ナミ」役を演ずる女優。今から、舞台の幕が開く。
ノックをすると、ドアを開けた。
「はじめまして! 〈アヴァロン〉から来ました『ナミ』です!」
ソファに腰掛けて文庫本を読んでいた男が、顔を上げた。
凍り付いた。
五秒か、五分か——ときが、たった。
「やっぱり、そうだったんだ。会いたかった……」
「お兄さん、誰かお知り合いと人違いしてません?」
わたしは、舌がこわばりそうになりながら、言った。
「そこがおまえの駄目なところなんだよ! 芝居しよう芝居しようとアタマで先に考えちまうから、余計な力が入っちまうんだろ!」
乱暴な口調——演出家・阿羅漢十郎こと黒津達彦が、役者にダメ出しするときの言い方だった。
一瞬の後、彼は笑い出した。
「達っちゃん……」
「会いたかった。けど、住所も携帯の番号も変わってて、連絡の取りようがなかったんだ」
達彦はそう言いながら、傍らの書類鞄から一冊の冊子を取り出し、わたしに差し出した。
表紙には、わたしも聞いたことのあるテレビの刑事ドラマのタイトルがデカデカと書かれている。「脚本・多聞修二」とある。
「ずっと違う名前でやってきたんだ。ここ一年くらいになって、やっとホンを書いて食って行けるようになった。それに、これ見てよ」
達彦は一枚の紙を取り出した。演劇のチラシだった。立派なカラーのチラシで、テレビや映画で見たことのあるそうそうたる役者の顔写真が並んでいる。タイトルは「馬と王国」。そして「作・演出
「覚えてる? きみが、最初に見に来てくれた芝居だよ。再演というか、役者も予算も舞台装置も劇場も、全然違うから、完全な別物になってるけど」
「達っちゃん……立派になったんだ。おめでとう、夢が叶ったね」
「ほんとうにごめん!」
出し抜けに達彦は、床に頭をすりつけて土下座した。
「きみがこんなつらい仕事してることも、雄大を立派に育ててくれたことも、全然気にも留めないで、俺は自分のやりたいことばっかりやってた。ほんとうに自分勝手だった。ごめん……そしてありがとう、雄大をあんなに素直でいい子に育ててくれて……」
「やめてよ達っちゃん」
「俺がこんなこと言う資格ないんだけど、俺たち……つまり、もう一度……」
「もう一度、何なの?」
その先の言葉を聞きたくもあり、同時に、怖くもあった。わたしは邪険に達彦に背中を向けた。
「もしも、許してくれるなら……俺に、もう一度おまえの夫の役を……雄大の父親の役を……
そっと振り返った。達彦の頬は涙で濡れていた。それ以上に、わたしの顔は涙でくしゃくしゃになっていただろう。
「そんな……今さら、身勝手だよ! そんな言葉、信じられると思う?」
「そうだよな……そう思うのも無理ないよな……」
それだけ絞り出すように言い、達彦は沈黙した。
わたしは涙を拭って静かに行った。
「達っちゃんはちゃんと立派になれた。なのに……わたしは……こんなんだよ。体売ってるんだよ」
言いながら、だんだんと感情が高ぶるのを抑えることができなかった。
「もう、わたしたち、住んでる世界が違うんだよ! わたしのことが世間にバレたら、何て言われるか……」
「知ったことか、そんなこと! 俺が、君を守る。雄大を守る!」
達彦が、怒鳴った。
わたしたち二人のあいだに、沈黙が落ちた。ただじっと互いを凝視していた。
どちらから近づいたのか、わからない。
わたしたちは、口づけをかわしていた。風俗嬢と客のキスなんかじゃない。
絆を確かめ合うための行為。
〈すばる保育園〉から出ると、わたしと雄大は足早に家に向かった。
「今日のママはどうかしてるね」
「何が?」
雄大の観察眼に対して、平然を装って答える。
「だって今日は左右の確認をしなかったよ」
「もう、そんなことしなくてもよくなったの」
帰宅してドアを開けた瞬間に、またしても観察眼の鋭い雄大が言った。
「おうちに鍵かけなかったら泥棒が入るって園長先生が……」
「今日は大丈夫なの」
玄関には、男物の革靴。
部屋のなかを確認する前に、すでに雄大は叫んでいた。
「パパ!」
「オッス、雄大! しばらく会えなくてごめんな!」
狭い六畳間の真ん中で、二人はしっかりと抱き合った。達彦は雄大を抱き上げた。
「重くなったなぁ! あたたたっ! 腰痛めそうだ」
そう言いながらも、達彦は雄大を肩車した。
雄大の笑い声。達彦の笑い声。わたしだけが泣いてるなんて、ちょっとヘンだ。
次の瞬間、雄大の表情が一変した。
「ママ! パパに会ったのは夢だったって言ったじゃんでもぼくは今夢を見ていないよこれは夢のパパじゃないよホンモノのパパだよ」
わたしは、そっと畳の上に正座した。
「ごめんね雄大。ママがウソをついたの。夢じゃなかったの。クレヨンのことも〈ケツァルコアトル〉の指環のことも」
「じゃウソツキはママだったんだ!」
唐突に、達彦の鋭い声が飛んだ。
「こらっ! ママのことをそんなふうに言っちゃダメだぞ!」
すっかり父親の顔になっている。
「さ、ごはんにしよう」
わたしは目一杯の笑顔を作った。食卓には、達彦がすでに注文したピザが並んでいた。雄大がピザを食べるのは、生まれて初めてだ。
達彦と雄大とわたし——これが、家族というものなのだろうか。
わたしにとって世界でいちばん大好きな二人が、眼の前にいてくれる。笑ってくれる。
時間はあっという間に過ぎて、十二時近くなってしまった。
「雄大、寝坊しちゃうから、もう寝ないと」
わたしが言うと、雄大は口をとがらせた。
「イヤだぼくは寝ないよずっと寝ないし明日も明後日も寝ないんだ」
「バカなこと言わないで、さあ、早く布団に入りなさい。今夜はパパがお話ししてくれるから」
「そうだ、とても面白い話があるんだ。昔々、アステカという国にいたケツァルコアトルという神様の話」
ぱっと雄大は眼を輝かせた。けれど、やはり首を左右に振った。
「お話は聞くけどゼッタイにもう二度と寝ないよ」
「どうして?」
わたしが訊くと、雄大は答えた。
「また夢になったらイヤだもん」
「ケツァルコアトル」完
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