第2話 サヤとマヤ

 今日もまた、茉耶まやがリスカした。

 最近は、全然そんな兆候がなかった。わたしは、すっかり油断していた。

 午前十時半、わたしがチーズ入りのオムレツを作っているとき、ようやく茉耶が起き出してきた。

「おはよ」

 わたしはフライパンのオムレツを返しながら言った。

 よし、上手く返せた。今日のオムレツは、珍しく成功! だいたい八割はぐしゃっとヘンな形になったり、火が通りすぎて中身まで固まっちゃったりする。だけど、今日のオムレツはベストの出来だ。

 わたしは茉耶のためのオムレツをお皿に移した。

「おっはよーさん」

 ちょっと眠そうな茉耶の返事。

 新たに卵を二個割って、自分のオムレツを作り始める。箸でかき混ぜ、チーズ投入、醤油を少々。そして、微妙な力加減でフライパンを返す。やった! 今度も大成功! たいてい、一個はうまくいくけど、もう一個——自分のための——は失敗することが多い。二連チャンなんて珍しい。二人で同じオムレツを食べられるなんて、めったにないことだ。

 けれど、そのときのわたしは、オムレツの出来に気を取られ過ぎていた。


 わたしは仕事に出かける直前だった。お化粧もオッケー。

 じっと鏡のなかを見ながら、茉耶のことを思った。茉耶だって、お化粧をすればいいのに。あの子はいつもすっぴん。茉耶の化粧をした顔を想像するのは、難しくない。ただ、眼の前の鏡を見ればいい。

 なぜなら、わたしたちは、一卵性双生児。顔はそっくり——けれど、性格は、全然違う。以前は、似ていた——と思う。三年くらい前までは。

 

 わたしの出勤時間は、午後一時から。いつものように、出かける前に一度、茉耶の部屋を覗いた。四六時中、遮光カーテンを引いた真っ暗な部屋。

 茉耶は、いつものようにパソコンに向かっていた。モニタの青白い光が茉耶の顔を照らしている。

「じゃ、行ってくるね」

 返事は、なし。

 きっといつもと同じように、オンライン・ゲームか、チャットに熱中しているのだろう。

 わたしは、短くため息をついた——いろいろな意味が詰まったため息。

「ねえ沙耶さや

 不意に、茉耶の声が聞こえた。

「何?」

 暗い部屋の中を振り返る。

「ううん、なんでもない。いってらっしゃい」

 茉耶はパソコンのモニタを見つめたままだった。

「行ってくる」

 わたしはそのままマンションを出た。茉耶を一人残したまま。

 そのときに、わたしは気づくべきだったのだ。


 わたしが「お店」に着いて「おはよーございまーす」と言っても、事務室にいる店長は、携帯電話に向かって話していて、わたしは完全に無視された。

 そのほうが気楽だ。わたしも、なるべくなら店長とは口を利きたくない。

「おはよう、カリンちゃん」

 代わりに声をかけてくれるのは、従業員のシンスケ君だけだ。彼がほんとうは何という名前なのか、わたしは知らない。

 わたしの名前は、ここでは「カリン」。もしかしたら、シンスケ君もわたしの本名を知らないのかも知れない。

 「待機所」に入った。そこは、薄い薄い壁で仕切られた「部屋」と呼ぶのもおこがましい空間だった。ここが、わたしの「お店」での居場所だ。「仕事」の呼び出しが来るまでは、わたしは三畳の広さの「待機所」で待つだけ。ただひたすら、待つ。

 おかげで忍耐力がついた、と思う。あり余る時間をつぶすすべを、わたしはこの三畳間で、この一年のあいだに学んだ。

「ねえちょっといいかしら?」

 入り口のアコーディオン・カーテンの向こうから、シンスケ君の声がした。

 アコーディオン・カーテンの隙間から覗くシンスケ君は、フェミニンな二枚目。ゲイであることを隠そうとしていない。だから彼は、「客」の男たちと同じようには、わたしたちを見ることがない。シンスケ君は、このお店〈アヴァロン〉所属の女の子のあいだで人気がある——というか人望が厚かった。年齢不詳。十八歳から三十八歳のあいだの何歳にでも見える。

「お願いがあるんだけど、ちょっと手伝ってくれる?」

 シンスケ君が困り顔で言った。

「またナイショの『バイト』?」

「そう。さっき店長出てって、夜まで帰らないみたいだから、大丈夫」

「オッケー」

 わたしはシンスケ君の「部屋」へ移動した。そこも「待機所」の一室だったが、シンスケ君が自分の部屋として使っている。

 デリバリー・ヘルス〈アヴァロン〉には、午後一時から午後九時までの「早番」と午後八時から翌朝六時までの「遅番」勤務がある。シンスケ君は、その両方で働いている、というか、〈アヴァロン〉の入っている雑居ビルで生活しているようなものだ。

 シンスケ君の「待機所」は、とても整理整頓されていた。我が家とは大違い。たった三畳の広さにもかかわらず、床に座って使うタイプのパソコン・デスクが置かれて、その上には、パソコンが置いてある。

 シンスケ君は店長には内緒で、光ブロードバンドに加入していた。もちろん、その料金はお店持ち。その辺の会計処理はズボラだから、まだ店長には気づかれていない。だから、シンスケ君は無料でインターネットを使い放題だ。

 彼はパソコンを使ってバイトをしている。おもに、同業他社のウェブ・サイトやチラシ、ポスターなどの作成だ。店長にバレたら、間違いなくクビだ。

 けど、やっぱりシンスケ君もわたしと同じように——わたしも含めて、他の〈アヴァロン〉の女の子たちと同じように——お金が必要なのだろう。

 そうでなければ、こんな場所でこんな仕事はやっていない。

「この写真なんだけどね、うまく行かなくって……」

 シンスケ君はモニタを指さした。

 レースクイーン風の衣裳を着た女の子の写真が映し出されていた。〈アヴァロン〉のチラシではない。同業他社——おそらく店舗型ヘルスかソープランド——のポスターだ。

 〈アヴァロン〉のチラシはこんなに凝っていない。どこかのAV嬢の写真を無断使用して安上がりに作って、電話ボックスに貼ったり、単身者用マンションにポスティングしたりしている。

 画像のピクセル数と解像度を見比べてみると、チラシよりもずっと大きいサイズだ。店舗のないデリヘルの〈アヴァロン〉に、ポスターなんて必要ない。

「カワイイ子じゃん」

 わたしは言った。よく撮れた写真だ。写真で風俗嬢を選ぶなんて愚の骨頂だけど、この写真はなかなかよく撮れている。実際の女の子も、そこそこカワイイはずだ。

「ねえ、これこれ、気づいた?」

 シンスケ君が指さしたのは、モニタ上の女の子の右の太ももの内側。何か、絵がある。よく見ると、蜘蛛の絵——タトゥーだ。

「ふーん、〈ジョロウグモ〉だね」

「そんなことじゃなくて! このタトゥー消してくれっていう要望なのよ」

 そんな要求は、はじめてではなかった。会社側からしばしばあるらしい。

 ほんもののタトゥーは消せないけれど、写真のなかでは消すことができる。

 この子はどんな気持ちで、自分の皮膚にタトゥーを彫り込んだのだろう?

 消えないことを承知で入れたのだろうか?

 タトゥーを入れたときと、風俗嬢として働く今のあいだに、この子に何があって、何がなかったのだろう?

「消せる?」

 シンスケ君の声に我に返った。

「知ってるくせに」

「ラッキー! だからカリンちゃん大好き!」

「で、おいくら?」

 わたしは訊いた。

「一枚、千五百円でどう?」

「一枚って……まだあるの?」

「そう、全部で八枚。明日の朝までに」

「マジ? どうしてできない仕事を請け負うの!」

「だって……いろいろあるじゃないの、義理とか人情とか、ね」

「はいはい、でも『本業』の連絡入ったら、そっち行くからね」

 とにかく、作業を始めた。フォトショップを立ち上げた。

 一枚目の写真に、意外に手こずった。タトゥーのある場所が微妙に影になっていて、周囲の皮膚の色とのバランスを調整するのが難しかった。結局、二時間近くかかってしまった。ということは、時給七百五十円? わたしの仕事からすると、考えられない安さだ。

 もっとも、呼び出しがかからずに部屋でお茶っ挽きなら、収入ゼロ。それよりはマシだ。

「できた?」

 シンスケ君は、文庫本から眼を上げて言った。

「わぁ、完璧じゃん。さすがカリンちゃん! やっぱりセンスがあるのよねえ。この仕事で食べていけるんじゃない?」

「……食べてたよ、前は……」

 わたしはつぶやいた。

 はっとシンスケ君の顔色が変わった。。

「ごめんなさい……知らなかったから……」

 こういうお店では、過去の話は御法度だ。

「いいの、気にしない気にしない。次、行こう」

 わたしは笑顔を作って言った。

 そのとき、携帯電話が鳴った。着メロは「見上げてごらん夜の星を」。

「わ、渋い趣味!」

 シンスケ君が笑った。

 わたしは笑えなかった。この曲は、茉耶からの電話のときにだけ流れる。こんな時間にあの子がかけてくることなんて、めったいにない。

 わたしは少し汗ばんだ手で携帯を手に取った。

「もしもし」

「……」

 返事はなかった。

「茉耶、どうしたの?」

「……」

 やはり、返事はない。そして、電話は切れた。

 沈黙がシンスケ君の部屋に落ちた。が、三十秒ほどして、今度はメール着信があった。

 メールを開いた。やっぱり、茉耶からだった。

——ごめんね。またやっちゃった

 ただそれだけの文面。そして、動画が添付されていた。

 おそるおそる動画の再生ボタンを押した。

 細い棒っ切れのように見えるものは、青白い腕。画面外から、茉耶の声。

「沙耶、やっぱりわたしってダメだね……」

 画面に入ってきたもう片方の手に鈍く光っているのは、カミソリの刃——

 頭から血液が一気に引いた。

 携帯を閉じた。立ち上がった。シンスケ君の「待機所」を飛び出した。

「どこ行くのよ?」

 シンスケ君の声が追いかけてくる。

「帰る。妹が……とにかく、すぐ帰らないと」

「ちょっと待ちなさいよ! あと七枚あるのよ!」

 無視して、走った。

 

 帰宅するまでの三十分間の電車内が、永遠にも等しく感じられた。私鉄を降り、駅から全力疾走でマンションへ戻った。ドアを開くなり、叫んだ。

「茉耶!」

 思った通り、返事がない。わたしは茉耶の部屋のドアを開いた。

 カーテンを閉め切り、澱んだ空気が充満していた。息苦しい。

「茉耶?」

 デスクのパソコンは、起動したままだった。スクリーン・セイバーが幾何学的な文様を映し出している。

 部屋に茉耶の姿はなかった。

 次に、バスルーム。やはり、茉耶はいない。

「茉耶! お願い! 出てきてよ!」

 泣くまい、と思いながらも、涙が頬を伝うのを感じた。茉耶の前で、わたしが涙を見せてはいけない。拳で拭った。

 トイレのドアを開けた。

 茉耶は、暗いトイレの闇のなか、蓋を閉めた便器の上で体操座りをするような格好だった。顔だけを、ゆっくりとわたしに向けた。うつろな二つの瞳が光を鈍く反射している。

「茉耶……」

 安堵のため息と一緒にその名前を呼び、トイレの電気を付けた。

 真っ赤だった。

 床一面が、血みどろだった。茉耶の服にも血が飛び散っている。

「茉耶!」

 わたしは茉耶の左腕を掴んだ。手首の部分がざっくりと切れている。血は止まりかけていたが、まだじくじくと沁み出していた。

「沙耶……」

 か細い声。

 わたしはバッグからハンカチを取り出すと、茉耶の手首の傷を縛った。細くて、青白い手首。日を追うごとに、ますます細い枯れ枝のようになっていくように思えた。

「傷、痛む?」

「ねえ、沙耶、わたしのこと……」

「今、救急車、呼ぶから」

 わたしは携帯電話を取り出した。

「イヤ! 救急車はイヤ! 病院もイヤ!」

 茉耶は、だだっ子のように首を左右に振った。

「だって、こんなに血が出たんだから、お医者さんに診てもらわないと」

「沙耶、ごめんね」

「そんなこといいから、立てる?」

 茉耶は、ゆっくりと便器から降りた。素足に血が付く。構っていられない。わたしは茉耶の体を抱くようにして、ゆっくりとトイレを出て茉耶の部屋に向かった。

 なんて軽い体だろう。いつの間に、茉耶はこんなに軽くなってしまったのだろう。

 床には、血染めの足跡が点々と付いた。

「沙耶……」

「何?」

「わたしのこと……嫌いになった?」

 わたしは無理に微笑んだ。

「何言ってんの、そんなワケないじゃん」

 わたしは茉耶を彼女の部屋に入れ、ベッドに座らせた。手首を縛ったハンカチを見たが、血は染み出していなかった。血は止まったようだ。

「痛くない?」

 尋ねると、茉耶は、こくん、とうなずいた。

 茉耶の手首の傷は、一つじゃない。数えきれないくらいの傷痕が、透き通るような皮膚に刻まれている。

 三ヶ月年くらい前に茉耶がリストカットしたときのことを思い出した。そのときは、救急車で茉耶を病院へ搬送した。応対した当直医は、そのふた月前に茉耶がリスカしたときに治療してもらった医者と同じだった。まだ三十にもなっていないくせに「先生」と呼ばれるだけで、偉くなったように誤解している男——わたしの客にも、そんな男は大勢いる。

 そのとき、開口一番、医者は言った。

——なんだ、またか。

 そして、渋々といった表情で茉耶の傷の手当てをした。そのあいだ、聞こえよがしに看護師さんに向かって言ったのだ。

——こういう子をいつまでも野放しにしてもらうと、迷惑なんだよな。

 あの医者の言葉は、決して忘れられない。

 やっぱり病院に行くのはやめよう、と思った。行けば、もっと茉耶が傷つく。

「わたし、自分じゃ何もできないし……今日みたいなことしちゃうし……沙耶に迷惑ばっか、かけてるし……わたしのこと、嫌いになっていいよ」

「何言ってんの。茉耶は、わたしのきょうだいなんだから。しかも、ただのきょうだいじゃない。双子なんだよ。茉耶も学校で習ったでしょ? 一卵性双生児は、DNAまで全部おんなじ。わたしと茉耶は、特別なんだから」

 茉耶はうつむき、ほとんどささやくような声で言った。

「DNAが同じでも、わたしと沙耶は全然違うよ。全然似てないよ。沙耶はキレイだし、わたしは全然ダメダメで汚くて……」

「いつだって髪ボサボサですっぴんだからじゃん。ちょっとは化粧してみたら? それとも、お化粧の仕方忘れちゃった?」

 冗談めかして言ったが、茉耶は何も答えなかった。

 わたしは、茉耶をしっかりと両腕で抱きしめた。か細い体。骨が浮き出ているみたいだ。

「わたしは、いつでも茉耶の味方だよ」

 茉耶は、激しく声を上げて泣き出した。まるで幼児のように。

 わたしはよりいっそう強く茉耶を抱きしめた。

 わたしは、何があってもこの子のそばにいなきゃいけない。

 茉耶は、わたしにとってのたった一人の家族だから。たった一人の妹だから。

 そのとき、わたしの携帯電話が振動した。「仕事用」の携帯だ。わたしが無視していると、茉耶は、しゃくり上げながら言った。

「出なくていいの? 会社からでしょ?」

「いいの。会社より茉耶が大事」

「沙耶……」

 わたしは茉耶を抱きしめ続けた。

 茉耶は、わたしの今の仕事を知らない。以前勤めていた会社を辞めたことを知らない。

 また、携帯が振動した。すぐさま、電源を切った。


 案の定、翌日は店長からひどく怒られた。その前にある程度、シンスケ君が取りなしておいてくれたらしく、まだマシなほうだった。

「このヤリマンのクソ売女ばいた!」

 言い捨てると、店長はわたしの「待機所」から出て行った。

——その「ヤリマンのクソ売女」で商売しているのはどこのどいつだよ?

 と言いたかったが、もちろん黙っていた。そんなことを言ったら、拳で顔を殴られるか、そのまま押し倒されてヤられるところだった。

 茉耶には、朝ご飯のあと、いつもより二錠多く抗鬱剤を飲ませたら、すぐに寝てしまった。たぶん、今日は大丈夫だろう——大丈夫なことを祈るだけだ。

 わたしは、働かなきゃいけない。

 それがどんなに吐き気をもよおすような仕事であっても。


 わたしたちは、ほんとうにそっくりなきょうだいだった。中学校までは、よく間違えられた。性格もそっくり。テレビに出ている双子のタレントみたいに、二人して同時に同じ言葉をハモって言うこともあった。わたしたちは、文字通りに「うり二つ」の双子だった。

 いつの間にか、うり二つじゃなくなった。

 原因はわからない。中学二年のときに、両親が亡くなり、その代わりに多額の借金を遺したことも、理由の一つかも知れない。

 そのあと引き取られた叔父さんの家に居づらくて——叔父さんと叔母さんはいい人だったけれど——高校入学と同時に二人暮らしを始めた。けれど、わたしだってまったく同じ体験をしてるし、そのときもまだ、わたしたちは「うり二つ」だった。

 進んだ高校は別々だった。わたしたちが変わり始めたのは、その頃からだった、と今になって思う。

 いつの間にか、茉耶は高校へ行かなくなった。わたしは自分のことで手がいっぱいで、その頃の茉耶を気づかって上げられなかった。結局、茉耶は高校を卒業できずに中退した。わたしは高校時代に取ったシスアドの資格のおかげで、小さな出版社に就職した。

 その後、茉耶の居場所は暗く閉ざされた部屋になった——パソコンだけを外界との唯一の接点にして。

 わたしは最初、そんな茉耶に当惑し、混乱し、腹を立てた。その次には、絶望的な悲しみがやって来た。

 そして、わたしは茉耶を守ることにすべてを懸けて生きなきゃいけない、と覚悟を決めた。茉耶の味方は、わたししかいない。

 会社は、一年ちょっとで辞めた。両親の遺した借金を返すため、そして茉耶と二人で生きていくため、もっと収入のいい仕事に就く必要があった。

 そして今のわたしは、男たちに体を売っている。


 今日はシンスケ君の運転で最初の仕事先に行った。シンスケ君が運転するのは珍しい。いつものドライバーさんが他の女の子の送迎で忙しくて、臨時でシンスケ君のワゴンで出かけることになったのだ。

 場所は、この街の繁華街から少し南にあるラブホテルだった。ここは〈アヴァロン〉と契約しているいくつかのホテルの一つだ。わたしも、何度か使ったことがある——もちろん仕事で。客には、先にチェック・インしてもらうことになっていた。

 ホテルの前で車は停まった。

「じゃ、行ってくる」

 わたしはワゴンのドアを開けた。

「気を付けてね」

 シンスケ君の声が心なしか、固かった。

「大丈夫」

「何かあったらすぐ呼んでね。飛んでくから。なんか、ヤな予感するのよね」

 デリバリー・ヘルスは、危険が多い。女の子はみな「非常ボタン」と「催涙スプレー」を持たされている。「非常ボタン」を押せば、ドライバーがすぐに駆けつけることになっていた——それで間に合うなんて、女の子の誰も信じていなかったけど。

 何かを無理にでも信じなければ、この仕事はやっていけない。

「何言ってんの、平気平気」

 シンスケ君の「予感」は、正しかった。


 フロントのインタホンに〈アヴァロン〉から来たことを告げた。指定された部屋は「502号室」。手鏡で化粧をチェックすると、ドアをノックした。ドアを開いた。

 ベッドの上にあぐらをかいて、大画面プラズマテレビでゲームをしていた男が顔を上げた。まだ若い。大学生くらいだろうか。

「こんにちは、〈アヴァロン〉から来ました、カリンです」

 お辞儀をして、営業スマイル。アブラぎったオヤジよりはマシだ。

「あ……」

 若い男は当惑したような表情になった。

 一瞬、わたしは部屋を間違えたのかと思った。そんなはずはない。他に使用中のラブホテルの部屋はロックされていて、フロントからしか開けられない。

「百二十分コースで、オプションは、夏服ブレザーでよかったよね」

「う、うん」

 若い男は言った。

 デリヘルははじめてで緊張しているのかな、とわたしは思った。まずは、タイマーを百二十分にセットする。

 次の瞬間だった。

 男はわたしの心臓を凍らせる言葉を放った。

「マヤ、なのか?」

 とっさに返事ができなかった。混乱した。

「だ、誰かに似てる? もしかして、元カノ?」

「いや、でもおまえ……」

「着替えてくるね」

 わたしは、そそくさとバスルームのほうへ向かった。高校のブレザーの夏服を模したコスチュームに着替え始めた。

 いろいろなことが頭のなかで渦を巻いて、冷静になれなかった。わたしは、あの男なんか全然知らない。会ったこともない。けれど、もしかしたら——

「お待たせ」

 作り笑顔がこわばっているのが自分でもわかった。

 男は、追い討ちをかけるように言った。

「やっぱりマヤじゃん! 制服着ると、全然変わんないな、昔と」

「え……?」

 突然、若い男は馴れ馴れしくなった。言葉づかいも乱暴になっていた。

「なんだよ、俺だよ。忘れたハズないだろ? ケイイチだよ。けど、ビックリだなあ。おまえ、今こんなことやってんのかよ」

「こ、こんなことって……?」

 わたしは、消え入りそうな声でおうむ返しに言った。

「こんなことって、これだよ。フーゾク。あのとき、あんなにイヤがったのにさ。今じゃ、やらせてくれるんだ」

「あのとき……?」

 ほとんどあえぐような声になっていた。息苦しい。この部屋には、酸素が足りない。

「そりゃ、あのときは悪かったと思うよ、でも、みんな酔っぱらってたしさ、ユキヤが、おまえが俺に気があるって言ってたし」

 唐突に、忘れていたはずの記憶が甦った。

 高校二年の十月だった。確かに、茉耶が遅く帰ってきたときがあった。文化祭の打ち上げだと言っていた。

 わたしは必死に記憶の糸をたぐった。

 そうだ、確かその夜、茉耶は帰ってきてまっすぐバスルームに入り、長い時間出てこなかったのだ。

 埋もれていたはずの記憶が、次々に明瞭になっていく——わたしは、てっきり疲れて茉耶がバスタブで寝てしまったのかと思った。けれど、茉耶は寝ていなかった。一心に体を洗っている姿がガラス越しに見えた。

 その日は、わたしも疲れていた。自分の学校の体育祭で、チアリーディングをすることになっていて、その練習でへとへとだった。わたしは茉耶に声もかけずにベッドに潜り込んで、すぐに眠ってしまった。

 あの日だったのだ。

 あの日から、茉耶は、変わってしまったのだ——この男のせいで。

「……今、何やってるの」

 わたしはうつむいたまま訊いた。

「法学部で、司法試験の勉強中」

「弁護士になるの?」

「うーん、親父の仕事見てるとたいへんそうだから、やっぱ検事のほうがいいかなぁ、って。そんなことよりもさ、あのときの続きやらねえ? あのとき最後までイケなかったっつーか、やらしてくれなかったじゃん」

 そう言うと、ケイイチはいきなりわたしに抱きついてきた。わたしの髪を指で乱暴にかき乱し、唇を吸い、舌を入れてきた。

 わたしは必死にふりほどいた。

「待って! シャワー浴びてから」

「いいだろ、そんなこと」

「ダメ、規則だから」

「規則? 俺たち赤の他人じゃないんだからさぁ……」

「ダメ! 法学部なんでしょ。決まりは守らないと」

「はいはい」

 ケイイチは渋々、シャワーを浴びることを承知した。


 こんなに嫌悪感に襲われた「仕事」もない。

 ケイイチは、「あの日、茉耶にやりたかったこと」をやった——わたしに対して。

 茉耶が、あの日にどんな屈辱をこの男から受けたのか、よくわかった。

 どんな恐怖と痛みと憎悪と怒りを感じたのか、はっきりとわかった。

 必死に歯を食いしばった。眼をぎゅっとつぶった。

 茉耶のために——

 茉耶のためだったら、わたしはどんなことにでも耐えなきゃいけない。

 わたしはそう決意したのだ。


 ケイイチは、あっけなく果てて終わった。

 わたしは、全力を振り絞って、最大の作り笑いを浮かべた。

「ねえ、写真撮らない、一緒に?」

 二人とも全裸のまま、わたしは半ば無理矢理ケイイチを洗面台の鏡の前に連れてきた。そして腕にしがみついて、片手で携帯電話を構えた。

「恥ずかしいよ。こんなの撮ってどうすんだよ」

「待ち受けにする」

「ありえねえ! あの頃は、あんなに真面目でおとなしくて、高嶺の花みたいな子だったのに、人間って変われば変わるよな、マヤ」

「ほら、撮るよ。はい、チーズ!」

 携帯で、鏡のなかの全裸のわたしとケイイチの写真を撮った。わたしはひどく冷静だった。

「なあ、今度、またどっかで……」

「じゃ、指名して」

「そういう意味じゃなくってさ。じゃ、携帯の番号教えろよ」

「いいよ、そのくらいなら」

 もちろん、わたしの携帯ではない。お店から持たされた「仕事用」携帯だ。赤外線通信で、ケイイチの番号とメールアドレスも得ることができた。

 服を着ているあいだも、ずっとケイイチはわたしの一挙手一投足をじろじろと眺めていた。なめるように見る、とはこのことだろう。仕事柄、見られることに慣れているわたしも、吐き気をこらえるので必死だった。

 ケイイチは、渋々といった表情で料金を払いながら、言った。

「今度、一緒にどっか行こうよ。電話するから、マヤ」

 わたしは顔を上げた。じっとケイイチの顔を見た。自分でも驚くほど、心は冷えていた。

「わたしは、マヤじゃない」

「は?」

「さっきあんたは言ったよね、『人間は変われば変わる』って。そう、人は変わる。あんたの知ってるマヤは、もういない」

 わたしは言い捨て、部屋から出た。呆気にとられたケイイチの顔がドアの向こうに消えた。


 ワゴンに戻ると、シンスケ君が心配そうな表情で尋ねてきた。

「どうしたの? ものすごく怖い顔してるわよ」

「あの客、これからNGね」

「わかった。ブラック・リストに載せとく。でも……」

「ねえ、お願いがあるんだけど、パソコン使わせてくれる?」

「べつに、いいけど……やっぱりカリンちゃん、すごい怖い顔……っていうか……なんだか凛々しくてカッコいい顔。さっきの客と何があったの?」

「べつに何も。これから、あるの」

 そう、わたしには、やるべきことがたくさんあった。


 帰宅すると、珍しく茉耶が「おかえり」と迎えてくれた。

「どう、気分は?」

「超眠い……」

「シャワーでも浴びてきたら」

「うん、そうする。ねえ、沙耶、なんだか妙にテンション高くない?」

「茉耶が低すぎるの」

 茉耶は少し笑った。

 この笑顔が見られるなら、わたしには何だってできる。

「ご飯作るの面倒だから、ピザでも取ろっか」

 わたしは言った。

「ピザなんて久しぶり」

「よーし、シャワー浴びて眠気覚まして!」

 茉耶は「ふあ〜い」というような返事をして、バスルームへ向かった。

 わたしは、それを見計らって、そっと茉耶の部屋に入った。とても重い罪悪感がのしかかってくる。しかし、どうしても、やらなければならない。

 目的のものはすぐに見つかった——茉耶の高校の卒業アルバム。ページをめくる。

 あるページで手が止まった。三年D組。間違いない。

 ケイイチ——「和泉いずみ圭一けいいち」という名前。その写真は、間違いなくあの男だ。

 わたしは、その住所をメモして、卒業アルバムをそっと元の場所に戻した。


 翌日、二時間以上早めに〈アヴァロン〉に出勤したわたしは、「待機所」のシンスケ君をたたき起こし、パソコンを起動させた。

「見ちゃダメだからね」

 わたしはわざと眉間に皺を寄せて、シンスケ君をにらんだ。シンスケ君は、まだ寝ぼけまなこだった。

「わかったわよ。でも、あたしのメールとかも見ないでよ」

「見ない見ない。約束する」

「じゃ、三十分だけよ。事務室で寝てるから、終わったら呼んで」

 シンスケ君が出て行くと、まずフォトショップを立ち上げる。携帯から取り出したSDカードをスロットに入れる。

 写真のファイルを開いた。

 和泉圭一とわたしの2ショット写真。フォトショップで、わたしの姿だけを消し、和泉圭一の姿だけを切り抜く。簡単な作業だ。全裸で半勃起状態でにやけている和泉圭一。死ぬほど間抜けな姿だ。

 それから、ネットに接続した。いくつかのサイトを調べ、ちょうど画像解像度やサイズのあう写真を見つけた。それは、どこかの街のスクランブル交差点の写真だった。早朝なのか、人がいないのが異様だ。

 その写真を、ハードディスクにダウンロードする。

 そして、交差点のど真ん中に、全裸の和泉圭一を立たせた。コントラストや輝度、色調を補正。わたしにはお手の物だ。光量や光源も考えに入れて、わざわざ地面には影まで作った。一見すると、合成には見えない。

 ほんとうに一人のヘンタイが交差点で全裸でVサインしているような写真になった。

 そのデータをUSBフラッシュ・メモリに保存した。ハードディスクに落としたデータは消去し、インターネット・ブラウザの履歴も消した。

 二十分もかからなかった。

 これからの作業は、万が一のことを考えると、シンスケ君のパソコンでやるわけにはいかない。

「ちょっと出てくる」

 わたしは事務所のソファでうたた寝しているシンスケ君に言い置くと、〈アヴァロン〉のビルを出た。

 歩いて十分もかからないところに、漫画喫茶がある。そこへ入った。

 ここは会員登録が要らない。監視カメラの位置を確認して、死角に入るような位置のパソコンの前に陣取った——万が一ために。

 さっそく、ネットに接続した。「和泉圭一」の名前で検索した。

 ヒット。二件の該当項目。一つは、某私立大学のサイト。ゼミ生紹介のページに、名前があった。三回生だった。そこには掲示板もあったが、学生か教職員で、アカウントとパスワードを持っている人しかアクセスできなかった。

 もう一つ見つけた。司法試験を目指す学生たちの「自主ゼミ」のサイトだ。

 あんな男が、検事を目指して司法試験の勉強をしている——恐ろしさに心と体が震えた。

 このサイトには、ごく普通に学生間で書き込みできる掲示板があった。

 USBメモリをセットした。

 和泉圭一のご立派な写真を掲示板にアップした。

 続いて、巨大掲示板サイトへアクセスした。無数の掲示板——無数の「名無し」たちが、いろんなものを吐き出し、まき散らしている場所だ。

 わたしも「名無し」の一人になった。

 できる限り多くの掲示板に、写真をアップした。「和泉圭一」の名前、住所、携帯番号つきで。

 そして、無料メール・アカウント・サービスのサイトにアクセス。新しくメール・アドレスを取得した。どうせ一度しか使わないのだ。

 日本中の弁護士会に、メールを送った。和泉圭一の強姦未遂の内容を——わたしに対してやったことも含めて——できるだけ詳細に具体的に記した。

 わたしは、和泉圭一の姿を、広大なネットの海に廃液のように垂れ流した。

 すべてが終わると、メール・アカウントをすぐに解約した。パソコンのブラウザの履歴やパスワードなどのデータをすべて消去し、漫画喫茶を出た。


 これが正しい行為だったとは、全然思っていない。

 和泉圭一は傷一つ付かず、これからも司法試験を目指して大学で勉強を続けるのかも知れない。

 そして近い将来、検事か弁護士として、和泉圭一という男が世に出るのかも知れない。

 わたしはあまりに無力で無能だ。けれど、出来る限りのことはやった——茉耶のために。


 その翌日に、店長に店を辞めることを告げた。

 店長は、わたしの全身を眺めた末、「もったいねえな」とだけ言った。

 シンスケ君に別れを告げるのは、つらかった。

「大丈夫、あなたなら、どんな仕事でもうまくやっていけるわ」

「シンスケ君こそ大丈夫じゃないよ。いい加減に『フォトショ』の使い方覚えなさい」

「ピンチなときには、またヘルプお願いするわよ」

 シンスケ君は、ぎゅっとわたしをハグしてくれた。

 わたしは、はじめてシンスケ君の涙を見た。


 いつもより一時間以上早く帰宅した。

「ただいま」

「お帰り〜」

 明るい声が部屋の奥の方から聞こえてきた。現れた茉耶の姿を見て、眼を疑った。

 明るめの口紅に、チーク。髪はおそらく自分で巻いたのだろう。

 薄いピンク色のTシャツに膝上丈の白のティアード・スカート。スカートの下からは、か細くて色白な脚が伸びている。

「沙耶の服とかお化粧品とか、借りちゃった」

 茉耶だった。

 そこに立っているのは、三年前の茉耶だった。

 わたしは動揺を隠しながら、わざと素っ気なく言った。

「うーん、下手っぴいだなぁ。その口紅にそのチークの色はないよ。まつげも全然ダメ。わたしがやったげる」

 わたしと茉耶は、わたしの部屋に入った。

 ゆっくりと時間をかけて、わたしは茉耶の顔に化粧をした——茉耶に化粧するのは簡単だった。わたしと同じことをすればいい。

 ろくに使った経験のないビューラーに痛がる茉耶に、わたしは思わず噴き出した。二人でふざけ合うようにしながら、わたしは茉耶にマスカラを付け、唇にはグロスも塗って、眉も丁寧に描き、コテで髪も巻いてあげた。

 鏡のなかを見る。わたしと茉耶が並んで映っている。

 沙耶と茉耶——うり二つなきょうだい。同じDNAを持って生まれた二人。

 そっくりだけど、同じじゃない。それが、双子。

「沙耶……」

「何? 茉耶」

「……ほんとにありがと。それに……今までごめんね」

「何が?」

 わたしが尋ねると、茉耶は、ぷっと吹き出した。茉耶のこんなに屈託のない笑顔を見るのは、何年ぶりだろう。

「涙出るほど大爆笑しちゃった。超サイコーの写真だったよ」

 声が出なかった。口のなかがからからに渇く。

 一日中、パソコンに向かっている茉耶なら、あの写真を見つけてもおかしくはない。

「ありえない……」

 かすれた声でわたしは言った。視界がぼやける。熱いものがとめどなく頬を濡らした。

「沙耶って、そんなに泣き虫だったっけ? お化粧くずれちゃうよ!」

 茉耶は、わたしをやさしく胸に抱いて、髪をなでてくれた。

 いつもとまるで逆の姿だ。

 でも、そんなことも、ありえなくないのだ。

 なぜなら、わたしたちは双子なのだから。


「サヤとマヤ」完

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