アヴァロンから来た女
美尾籠ロウ
第1話 ひばり
店長から呼び出されたとき、あたしは叱られるのかと思った。
最近、「チェンジ」される回数が多いことはわかってる。三十過ぎてからは特に多い。それに、一晩中「待機所」で「お茶っ挽き」という日も増えた。
その夜も暇だった。「脳トレアプリ」で「脳年齢五十八歳」という記録を出したところだった。
「待機所」と言っても、立派な部屋じゃない。オフィス用の部屋を薄い壁で仕切って床にマットを敷いただけの三畳くらいの空間。壁が薄いから隣の音は筒抜け。でも今の時間、両隣は誰もいない。二人とも、仕事に出ている。一方、あたしはお呼びがかからず「脳」を鍛えてる。
〈アヴァロン〉はデリバリー・ヘルスだ。だからここは店舗じゃない。雑居ビルのなかに事務所と「待機所」があるだけ。三年くらい前までは、店舗型でやってたらしいけど、警察の「浄化作戦」とかで取り締まられて、今の形のデリバリー・ヘルスになったそうだ。
三畳の「待機所」にこもってると、「脳」は鍛えられるかもしれないけど、体中あちこちがコッてしまう。伸びをすると体中の関節がバキバキと鳴る。やっぱ、あたしも歳かな。
事務所には、狭いデスクが二つあって、電話機が何台か、そして携帯電話が数えきれないくらい、ずらっと並んでる。デスクは店長用。ほかの従業員用のパイプ椅子が壁に立てかけてある。そして、元は何色だったか判別不能なダニの巣のようなソファが一つ。
そこに、ダーク・スーツ姿の男の人――三十代後半、あたしとほとんど同い年か、ちょっと上、と見当を付けた――が、座らされていた。
男は、ひどく居心地が悪そうで、きょろきょろしていた。きっとダニのせいだな、と思った。あたしだってこんなソファはごめんだ。男のかたわらには、ジュラルミン製の書類鞄と、めったやたらと大きな紙袋があった。
あたしはスーツ男の手を見た。薬指に指輪はしてない。独身なのか、それとも、いつも指輪をはずしてるのか。すぐそういう点を確認しちゃうのを「職業病」って呼ぶんだろう。
店長は、眉間に皺を寄せた。店長と眼が合うと、あたしはいつもゾッとする。
「アサコちゃん、座って」
どこに? と思ったけど、とりあえずパイプ椅子を一つ取って、そこに腰掛けた。
「二人にしていただけますでしょうか?」
バカ丁寧にスーツの男は言った。店長は、苦虫をかみつぶしたような顔で立ち上がり、
「電話鳴ったら、シンスケ呼ぶんだぞ」
店長は従業員の名を言い捨てるようにして、事務所から出て行った。
あたしとスーツの男の二人だけになった。妙な緊張感。不吉な予感。手の平に汗。
「ええと……アサコ……さん……ですね?」
男は切り出した。きっとフーゾクなんて行ったことがないんだな、と勝手に想像した。
「はい。〈アヴァロン〉のアサコです」
あたしは平然を装って答えた。
「それは、あなたの職業上の、えー、源氏名……ですね。探すのがたいへんでした。本名は……」
あたしの心臓が一瞬、跳ねた。
何これ、ヤバくない?
男は、銀色の書類鞄からファイルを取り出して眺め、あたしに眼を向けた。
「
あたしは立ち上がっていた。パイプ椅子が倒れて大きな音を立てた。
怒鳴っていた。
「だから何? あたしが何か悪いことしたの?」
いや、ホントはしてるんだけど。売春防止法違反しまくってるんだけど。それでもあたしの胸の奥の方で、何か猛然と強い怒りがわき上がっていた。
「いや、ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい。す、座って……下さいますか」
スーツ男は、慌てた様子でシルクのハンカチで額の汗を拭くと、三度も咳払いをした。
あたしはスーツ男をにらんだまま、倒れたパイプ椅子を立てて腰掛けた。
「も、申し遅れました。私、弁護士のカドワキと申します」
男は、スーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚をあたしに手渡した。
確かに「
「ミクリヤ ソーノスケさんをご存じですね」
「は?」
それって何語? あたしは日本語しかしゃべれないんだけど。
「ミクリヤ、ソーノスケさん、です。ミクリヤさんが亡くなられました。一昨日の夜です。二十二時五十一分。癌の転移による多臓器不全でした。私が、遺言状をお預かりしているのです」
ミクリヤ? ソーノスケ? タゾーキフゼン? ユイゴンジョー?
いったい何だこの意味不明の言語は? 混乱したアタマをぐりぐりと左右に振った。
次の瞬間だった――何かが、あたしの脳味噌のなかで火花を散らした。
まさか……
「ソウちゃんのこと?」
裏返った声で叫んだ。鼻の奥に突き上げてくる何か。それを無理矢理飲み下した。
「ウソでしょ! だって……だって、こないだ会ったばっかりじゃん!」
あたしは、あえぎあえぎ、かろうじて言った。
そして、男に金で買われるフーゾク嬢のあたしにとって、絶対にあり得ないことが――あってはならないことが、起こった。
あたしは、泣いてた。
ホテルから出て、ドライバーの斎木さんの乗ったワンボックスの後部座席に乗り込んだ。
「お疲れ様」
斎木さんは五十過ぎのおじさんだ。ロマンスグレーでダンディな紳士って感じの人。店長とは大違いだ。
車内では、カーステレオから静かにクラシックのピアノ曲が流れている。斎木さんは以前「アシュケナージだよ」と教えてくれたけど、「アシュケナージ」が曲名なのか作曲家の名前なのか何なのか、ずっと訊きそびれている。
斎木さんは携帯を取り出し、お店にあたしが一仕事終えた報告の電話を入れた。
それにしても、さっきの客を思い出すだけで、腹が立つ。
会うや否や、あたしを「おまえ」呼ばわりした。「金を払ってる俺のほうが偉い」と思いこんでるカンチガイ野郎。商売柄、バカ男に会う機会は多いけど、「男」っていう生物そのものがバカの塊なのかも。
あたしはシートに体をうずめた。ウィンドウの外を見た。汚いネオンが光ってる。
斎木さんが言った。
「さっそくだけど、次に行くよ。それとも、少し休んだほうがいいかな?」
「ううん、大丈夫だよ」
斎木さんの優しさが嬉しい。こんなジェントルマンがどうしてデリヘルのドライバーなんかやっているのか、ホントに不思議だ。
けれど、個人的な話は、この業界では御法度。
車が動き出し、わたしはぼんやりとウィンドウの外の夜の街並みに眼をやった。
汚れた街で、汚れた男と汚れた女とが、汚れた行為にうつつを抜かしてる。
どこへ連れて行かれようと、どんな相手であろうと、構わない。客とやることをやって、お金をもらって、帰る。ただそれだけ――その繰り返し。それであたしは生きてる。
連続で仕事があるのは珍しい。お茶を挽きながら脳を鍛えてるよりよっぽどマシだ。だから、嫌がってなんかいられない。あたしはもう、そんな歳じゃない。若ければ、いくらでも仕事はある。指名してくれる常連さんもいる。
けど、今のあたしには、そんな男――客はいない。
斎木さんの車が停まったのは、長い塀の前だった。一瞬遅れて、それが一軒の「大邸宅」の塀なんだとわかった。時間は、十一時少し過ぎ。
デリヘルという仕事は、ホテルに派遣されるときが多い。〈アヴァロン〉もいくつかのラブホテルと契約してる(なかには普通のビジネスホテルもある)。客から電話があったら、従業員は、客にチェック・インする部屋を指示しておき、あたしたちがあとから入っていく。ホテル側も、あたしたちのことをちゃんと見ててくれて、もしも何かヤバそうなことが起こったら、すぐに対処してくれることになってる――実は意外と知られてないけど、ラブホテルの室内は全部監視カメラでフロントで見られてる。録画はしてないけど。
いちばん怖いのは、客の自宅への派遣だ。監視カメラはない。あたしも怖いし、店側も警戒している。しかも、ドライバーさんだって、ずっとその家の前で見張ってるわけにいかない。ほかの女のコの送迎もある。あたしは身一つで、相手のなわばりへ入っていく。
その客は「連続殺人鬼」かもしれない。そうでなくてもとてつもない「ド変態」かもしれない。ベテランのあたしでもロクデモナイ想像をしてしまうときがある。
けど、あたしの座右の銘――
――男が怖くて、フーゾク嬢やってられっか!
この冗談みたいな大邸宅に恐れをなして逃げ出すわけにいかない。
斎木さんが、近くに車を路上駐車して、あたしに向かって手を振った。
「じゃあ、気をつけて」
「平気平気」
あたしは車を降りた。
入り口というか正門(?)のインタホンのボタンを押した。二十秒ほど間があってから、しわがれた声が答えた。
「はい」
あたしは緊張しながら、長年つちかった営業トークで答えた。
「こんばんは、〈アヴァロン〉から来た者ですが」
「今、開けます。どうぞお入り下さい」
丁寧な口調……と思った次の瞬間、眼の前の門が自動的にゆっくりと開いた。
門の向こうには、ホントに漫画みたいな庭園があった。石畳の小径。綺麗に手入れされた花壇が両側に続いている。
玄関まで小径を進んでいった。その距離、二十メートルはある。ヒールが高いから、何度も転びそうになった。
まるでヨーロッパのお城のような三階建ての建物だった。
玄関前に、六十歳くらいの男の人が立っていた。黒いスーツ。びしっとピン・ストライプのネクタイをして、白髪混じりの髪はオールバック。男の人は、あたしにお辞儀をした。
「夜遅くに、わざわざご足労いただきまして申し訳ありません」
妙に丁寧な口調だった。あたしとしたことが、緊張しているのに気づいた。
「は、はい。〈アヴァロン〉から来ました、アサコと、申します」
言い慣れない言葉づかいで答えた。
男の人をためつすがめつして、値踏みした。肌の色つやはいい。髪は綺麗に整えてある。かすかにコロンの香り。とにかく清潔なことだけは間違いない。少しだけ、緊張が解けた。
「どうぞなかへ」
男の人は、ドアを手で押さえ、あたしを室内へ招いた。紳士的だ。まずは、玄関のドアのデカさに驚いた。天井高っ。ドア重そう……無意味なことを考えながら、あたしは玄関をくぐった。通されたのは、大理石を敷き詰めたリビングだった。
マジ? これホンモノの暖炉? なんて思っていたら、その前の白い皮のソファの横に、見事に真っ白な頭の男の人が座っていることに気づいた。
そう、ソファの上じゃなくて、横。白髪の男の人は、車椅子に座っていた。
車椅子の白髪の人は、ゆっくりとあたしのほうを振り向いた。車椅子ごと。
「わざわざすみませんね」
あたしのおじいちゃんと言っていいくらいの歳だった。年齢のわりに力強く、よく通る声だった。
きちんとアイロンのかけられたワイシャツにスラックス姿だった。
やっと気がついた。お客さんは、このおじいちゃんなんだ。十一時といえば、「おじいちゃん」には遅い時間かもしれない。今まであたしは、この時間にこのくらいの歳の人に呼ばれた経験はなかった……っていうか、「おじいちゃん」の客がはじめてだ。
「スミヨシ、もう遅い。帰っていい」
おじいちゃんは言った。あたしを玄関で待っててくれたスーツの男の人――「スミヨシ」さんは一礼すると、リビングから去っていった。
っていうことはもしかして、スミヨシさんって……「シツジ」?
二人だけになった。あたしと、車椅子の白髪のおじいちゃん。
少しのあいだ、二人とも黙り込んでいた。気まずい沈黙の時間だ。あたしは「二時間」のタイマーをセットするのを忘れてた。ほんとはドアを開けて入った瞬間にスイッチを入れる決まりになっていたのに。
それが、「ソウちゃん」との初対面だった。
「では、あなたはご存じなかったんですか?」
門脇弁護士は、驚いた表情で尋ねた。あたしはハンカチで涙を拭いながら首を振った。
「
門脇弁護士は言った。
ミック・ブロック……突然、いろんな記憶がどっとわき上がった。
確かに、遊んだことがある。あたしのお気に入りだった。
幼稚園に置いてあったし、うちにもあった。お兄ちゃんと一緒によく遊んだ。あたしは、動物を作るのが好きだった。お兄ちゃんは、電車とか自動車を作るのが好きだった。たしか、幼稚園の年長組のときだったと思う。隣の教室にある黄色と茶色のミック・ブロックを全部かき集めて、大きなキリンを作った。友だちは、あたしがブロックを独り占めしたのを先生に言いつけた。けど、その先生は、あたしの作った大きな大きなキリンを褒めてくれた。
なんてことだろう。もう三十年以上も昔のことだ。
そのミック・ブロックを作ったのが、あのソウちゃんだったなんて。
おじいちゃん……大手玩具会社「トイミック」の創業者、御厨惣之輔は微笑んだ。
「どうぞどうぞ、座ってください」
「は、は、は、は、はい」
自分が中学生くらいに戻ったみたいだった。お客さんを前に緊張するなんて、最近は全然ないのに。ぎこちなく、ソファにちょこんとお尻の先だけを下ろした。頭を下げた。
「あの……ええと、あたし、〈アヴァロン〉から来ました、アサコです」
「アサコさん、ですね。そう……アサコさん……」
そこでおじいちゃんは言葉を切って、あたしをじっと見つめた。
見られることは慣れてる。けど、そのときは裸でもないのに、とても恥ずかしかった。
「私は、ソウノスケと言います。じゃあ『ソウちゃん』とでも呼んでもらおうかな」
おじいちゃんは、いきなり笑い出した。あたしもちょっとだけ笑った。
「じゃ、まず、シャワーから……」
あたしが言いかけると、おじいちゃんは、もう一度笑い、片手を上げて遮った。
「いや、いいんだよ。そういうことはしてくれなくて、いいんだよ」
「え? でも、二時間なので……」
「見てご覧なさい。こんな爺さんだよ。『使い物になる』と思いますか?」
あたしが言い淀んでいると、またおじいちゃんは大声で笑った。
「この歳じゃナントカっていう薬も効かないらしい。飲んだら心臓によくない、と医者に言われたよ。アサコさん、二時間だけ、この年寄りの話し相手になってくれますか?」
おじいちゃん……ソウちゃんは微笑み、車椅子を自在に操って、ガラス・トップのテーブルの脇へ移動した。今まで全然気づかなかったけど、そこには、ティーポットとカップ、お皿の上にはクッキーとチョコレートが用意されていた。
「アールグレイでいいかな? 私はこれが好きでねえ」
「あ、はい」
あたしは「アールグレイ」が何なのかも知らずに、うなずいた。
「ソウちゃん」がカップに注いだのは、何のことはない、紅茶だった。
「甘いものは好きかな。たぶん好きだろうね。嫌いな女性に会ったことがない」
ソウちゃんは、クッキーとチョコレートの並んだ皿を手で示した。
もちろん、嫌いなはずがないじゃん。
ソウちゃんに促されるまま、クッキーを口にした。さすが、安物とは違う。アーモンドの風味で、体がとろけそうなほどだった。それに「アールグレイ」っていう紅茶も独特の風味があって、美味しかった。
「車椅子で自由が利かない、こんな体だよ。長いこと家のなかにこもっていると、気分がおかしくなってしまう。たまには若い人と……できれば若い女の子とね……話をしたいとは思うんだが……困ったことに相手がいない。で、アサコさんをお呼びしたんです」
ソウちゃんは車椅子で移動して、暖炉の上(マントルピースっていうんだっけ?)から、ウィスキーの瓶を取ると、自分のカップの紅茶のなかにドボドボと遠慮なく注いだ。
「こういうことをすると、怒られるんだけどね。今はスミヨシがいないから」
いたずらっぽく笑ったソウちゃんは、まるでほんものの子どもみたいだった。
「今も昔も、女の子はほんとうに甘いものが好きなんだね。若い頃、よくデートで『あんみつ』をおごったものだよ。そうか、今の子は『あんみつ』なんて知らないのかな」
あたしはろくにソウちゃんの話も聞かず、苦みの強い「生チョコレート」をパクついていた。「これで二時間分のギャラがもらえるなんて超ラッキー」なんて思ってた。
弁護士の門脇は、表情を和らげて言った。
「私は『トイミック』で鉄道模型を知ったんですよ。女の子はあまり知らないでしょうけどね。他の会社のは、いかにもお子様用でチャチだったし、大人向けの鉄道模型は高過ぎてる。でも『HOゲージ』を採用した『ミック・レール』は違ったんですよ」
「あ、知ってるよ、『ミック・レール』! あたし、東北本線のL特急が好きだったんだ!」
あたしは大声で答えた。自分で自分の声の大きさにビックリした。
門脇は、突然吹き出した。やっと、人間っぽい姿になった。
「L特急ですか、マニアックですねえ。東北新幹線が開通する前の?」
相変わらず敬語だったけど、門脇は態度から緊張が消えていた。
「仙台から上野に行くのが、『ひばり』……」
「そう。上野~山形間が『やまばと』。盛岡まで行くのが『やまびこ』。これは今でも東北新幹線に名前が残ってますね。そして、青森行きの『はつかり』が青い車輌だった。ボンネット式の485系がいいっていう人も多いけど、やっぱり583系車輌ですよ!」
この弁護士、かなりの鉄道オタクと見た。お兄ちゃんと同じだ……と思い出してしまった。
一週間か十日に一度くらいの割合で、ソウちゃんはあたしを指名してくれた。
いつもソウちゃんは、お菓子を用意してくれて、いつも「アールグレイ」の紅茶を飲んで(ソウちゃんのはウィスキー入り)、いろんなことを一方的にしゃべっていた。
あたしは、いい歳して食べることにばっかり気を取られて、ソウちゃんの話をまともに聞いたことがなかった。あたしにとってソウちゃんは「楽な客」の一人に過ぎなかった。エッチしなくていいんだから、こんな楽な仕事はない。高そうな外国製のお菓子を食べて、適当に相づち打ってるだけで、いつもと同じギャラをもらえるんだから。
ある初夏の日のことだった。あたしは何の気なしに、ソウちゃんに言った。
「この上の階って、どうなってるの?」
「行ってみたいかい? そういえば、アサコさんを入れたことはなかったね」
「ちょっと見るだけ、いい?」
「ああ、いいとも。けれど、心の準備はいいかな?」
ソウちゃんは思わせぶりなことを言った。
「何それ? 全然平気だよ!」
あたしはソウちゃんの車椅子を押して、今までずっと一緒にいた大理石のリビングから外に出た。ソウちゃんが示すほうへ車椅子を向けたあたしは、びっくりした。
「エレベーター? マジあり得なくない?」
ソウちゃんは、ぷっと吹き出した。
「それは『あり得ない』という意味なのか、『あり得る』っていう意味なのか、どっちなのかな? 年寄りには、若い人の言葉がとてもわかりづらくてね」
民家にエレベーターがあるなんて、信じられなかった。でも、よく考えればソウちゃんは車椅子で生活してる。だから、家にエレベーターがあってもおかしくない。
エレベーターは、二人で乗るとさすがに狭かった。二階に上がってエレベーターを降りて、廊下を少し進んだところで、ソウちゃんは右手の一つのドアを半開きにした。
室内は真っ暗だった。
「さあ、アサコさん。ほんとうに、入る勇気はあるかな、この部屋に?」
あたしは暗いところと狭いところが苦手だ。ためらっていると、追い討ちをかけられた。
「今まで黙っていたんだけどね、アサコさん。あれは……約二十年前、ちょうど今日みたいな蒸し暑い夏の夜のことだった……。実は、この部屋で……」
「……ヤダヤダヤダ! あたしもう帰るうっ!」
ソウちゃんの前だっていうことを忘れて、マジで半泣きになって叫んでた。
突然、明かりがついた。
まず聞こえたのが「シャーッ」という機械的な音。
おそるおそる、眼を開けた。
そして、ぽかん、と口を開けたみっともない姿で、あたしは立ち尽くした。
二十畳以上はある部屋いっぱいに、線路があった。鉄橋もあった。緑色の木々が繁っていた。川もあった。トンネルもあった。田畑があった。家もあった。もちろん駅もあった。
この部屋いっぱいに、森があった。山があった。町があった。
この部屋のなかに、一つの世界があった。
線路を、小さな模型の電車が走っている。聞こえてたのは、線路を走る模型の音だった。貨物列車がたくさんのコンテナを引っ張ってる。奥では、鈍行列車がノロノロ進んでる。そして、いちばん手前、ひときわ早いスピードで駆け抜けたのは、赤いL特急――
記憶っていうのは不思議なものだ。栓が抜けると、シャンペンみたいに一気に吹き出す。
あたしは母と兄と三人で、夜逃げ同然に仙台から東京へ引っ越すときに「赤いL特急」に乗ったんだった。「L特急」という名を教えてくれたのは兄だった。あんなに速くて綺麗な電車に乗ったのははじめてだった。先頭の車輌の「顔」は特別な感じがした。
あたしはそこまで思い起こして、息が詰まった。もしかして、と思った。
赤いL特急が近づいてきた。あたしはじっと眼をこらした。
ヘッドマークに――
「『ひばり』だ!」
あたしは叫んでた。
ソウちゃんは、今まで聞いたことのないような大声で笑い出し、手を叩いた。
「あたし、この電車が大好きで、お兄ちゃんと一緒に何度も何度も絵を描いたんだ」
「不思議な縁だね。この形式の『振り子電車』は、模型として再現するのが難しかった車輌の一つだったんだ……。それで、お兄さんは、お元気なのかな?」
頭を振った。あたしに家族はいない。母は亡くなった。兄とは長いあいだ、会ってない。
「お兄ちゃん、たぶん四人目の子が生まれたはずだけど……わかんない」
「どうして? 自分のお兄さんのことだろう?」
ソウちゃんが身を乗り出した。
「あたしがしてること知って、お兄ちゃん……『おまえはもう妹じゃない』って」
思い出したくない記憶。誰か……たぶん、あたしの「客」の一人なんだと思うけど……が、たまたま兄の知り合いだったらしい。
その男は、わざわざご親切にも、兄に告げ口をしてくれた。「おまえの妹はフーゾクで体を売ってるんだ。俺はおまえの妹を抱いた」と。
ある日、珍しくあたしは兄にファミレスに呼び出された。そして、言われた。それは宣告だった。
――もう二度と会わないから。うちにも、カミさんにも、子どもにも絶対に近づくな!
ソウちゃんが、そっとあたしの腕に手を添えてくれた。そして、線路を見やった。
「見てごらん、今、『ひばり』がトンネルを越えるよ。アサコさんを乗せてきた『ひばり』が、上野駅に向かって進んでいるんだ。暗いトンネルを抜けて、光のなかへね」
あたしは、ソウちゃんの手をぎゅっと握った。
そのあと一ヶ月以上、ソウちゃんからの指名がなかった。あたしのことを飽きちゃったんだろうか。よくあることだ。常連客が、若いコに乗り変えてしまう。
淋しかった。またソウちゃんと会いたかった。思えば、ろくに話をしてない。っていうか、あたしがちゃんと聞いてなかった。
もっとソウちゃんのことを知りたかった。もう一度、L特急「ひばり」の模型を見たかった。後悔ばかりが、アタマをよぎった。
けど、常連を一人失って、いちいち落ち込んでたら、この商売はできない。捨てられたら、すぐに忘れ去る。そして、新しい男に呼ばれれば、出かける。相手がどんなにブサイクだろうと、不潔だろうと、クズ野郎だろうと、とにかく一発やって、お金をもらう。
それが、あたしの仕事。あたしの選んだ生き方。あたしは、あたし一人で生きていく。
七月の下旬だった。今日も熱帯夜だった。夜なのに、蝉がいつまでも鳴いてた。
一ヶ月半ぶりくらいに、あたしは、ソウちゃんの大邸宅に呼ばれた。うれしくて、いつもより化粧に時間をかけてしまった。
いつもと変わらない日本庭園。大理石のリビング。けれど、ソウちゃんは変わってた。すっかり痩せて、頬もこけてた。車椅子の車輪を押す手も、骨と血管が浮き出て見えた。
あたしは、それに気づかないふりをした。ウソをつくのはフーゾク嬢の大事な仕事だ。
いつもみたいにアールグレイの紅茶を飲みながら、ソウちゃんは言った。
「ちょっと……入院しててね。久しぶりに元気そうなアサコさんに会えて、嬉しいよ」
ソウちゃんは、少しだけ笑って言った。
「あたしも嬉しいよ! 大丈夫なの、体? もう治ったの?」
ソウちゃんは笑顔を見せた。前のソウちゃんと変わらない笑みだった。
「やっぱり紅茶にウィスキーは、よくなかったかな。しかし、夏の暑さには参るね」
「あたし、夏生まれなんだけど、夏がマジ苦手。夏は夏でも、東北だったからね」
「そういえば、誕生日を聞いていなかったね。いつ? もう過ぎてしまったかな」
「実はね、もうすぐ。八月六日なんだ。プレゼント期待しちゃっていいのかなぁ?」
おどけた口調で言ったつもりだった。けれど、ソウちゃんの顔色が変わっていた。
「八月六日……その日に何があったか、アサコさんは……知っているのかな……」
「あたしが生まれた……以外に?」
ソウちゃんは、視線を大理石の床に落とした。
「昭和二十年八月六日午前八時十五分……」
そう言うなり、ソウちゃんは、そのとき着ていたストライプの長袖シャツのボタンをはずし始めた。あたしは焦った。ソウちゃんがそんなことするのは、はじめてだったから。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って、シャワー浴びよ。バスルーム、どっち?」
作り笑顔で言ったが、ソウちゃんは、無言のままシャツを脱ぎ捨てた。それから、その下に着ていたランニング・シャツも脱いだ。あたしは何もできず、何も言えなかった。
上半身裸になったソウちゃんは、車椅子をくるりと回して、あたしにその背中を向けた。
声を出せなかった。口がカラカラに渇いた。眼をそらしたかった。けど、無理だった。
ソウちゃんの背中は、背中じゃなかった。
傷だらけで、引きつれて、ねじれくれて、皺だらけで、赤い染みだらけで、ところどころ黒ずんでいて――人間の肌には見えなかった。
ソウちゃんは、すぐにシャツを着直した。ボタンをかけながら、あたしに言った。
「すまない。びっくりさせてしまったね。でも、知っておいて欲しかった……」
答えられなかった。
「ピカドンだよ」
「ピカドン?」
「私はね、広島で生まれ育ったんだよ。あの日――昭和二十年八月六日、私はまだ十二歳だった。そして、アサコは……まだ、たったの六歳だった」
「アサコ?」
「そう。妹の名前だよ。朝昼晩の『朝』に子どもの『子』と書いた」
ソウちゃんの気持ちを、はじめて感じたような気がした。
そうなんだ。だからソウちゃんは、あたしを選んでくれたんだ。〈アヴァロン〉の「アサコ」を選んでくれたんだ。拳を握りしめた。強く強く、爪が食い込んで、痛いくらいに。
「いい天気だったよ。日本が戦争しているなんて信じられないくらいに、素晴らしい晴れ空だった。朝子が、最初に見つけたんだよ、落下傘を。その朝、警戒警報が解除されて、私と朝子は、防空壕から外に出たんだ。朝子が空を指さして言ったんだ。『お兄ちゃん、誰かが空から降りてくるよ』と。青い青い空に、真っ白な落下傘。綺麗な光景だったんだよ、ほんとうに。哀しいくらいに綺麗な光景だった、青い空と、白い落下傘……」
門脇弁護士は、いつの間にか封筒を手にしていた。事務的な口調に戻って、言った。
「御厨さんの遺言状です。とりあえず、あなたに関係のある部分だけ、私の言葉で簡単に説明させていただきます。アサコさん……上杉和代さんには、こちらの紙袋のなかのもの……これはごく一部ですが……をすべて遺されました。この点に関して、ご遺族からは、まったく異論は出ていません。ですから、アサコさんは何も心配することなく、御厨さんから、これらの遺品をすべて相続していただけます。しかし正直に申しまして私は……」
そこで言葉を切って、門脇弁護士はじっとわたしを見た。
あたしは緊張して、ごくり、と唾を飲み込んだ。
「うらやましいんだなぁ……」
そう言って、にっこり笑った。
門脇弁護士は、大きな紙袋を開けた。いくつかの古びた箱がいくつも入っていた。見覚えがあった。白地に赤い文字で印刷された「トイミック」のロゴマーク。
箱の一つを取り出して、門脇弁護士は、微笑みながらあたしに差し出した。
心臓の鼓動が速くなった。箱を受け取った。手が震えた。開けた。
赤い電車。L特急。もちろん、ヘッドマークには――
「ひばり……」
あたしは箱を――「ひばり」をしっかりと抱きしめたまま、床にひざまずいた。
あたしは、車椅子のソウちゃんにしがみついていた。
車椅子の上で、ソウちゃんが震えるのが感じられた。
こんなに近くからソウちゃんの顔を見るなんてはじめてだった。深く刻まれた皺。六十年以上も背負ってきたんだ、ソウちゃんは。哀しみ、苦しみ、痛み、罪の気持ちを……。
あたしは、そっとソウちゃんの胸に顔をうずめた。そして、言った。
「お兄ちゃん……」
「何ていうことを言うんだ……アサコさん」
あえぐようなソウちゃんの声が頭上で聞こえた。
「お兄ちゃん……ありがとう……」
ウソをつくのが風俗嬢の仕事……けど、これはウソじゃない。本物の言葉。
「私は……兄ちゃんは、あの日、おまえを助けられなかったんだよ、朝子……ごめんよ、兄ちゃんを、許しておくれ。」
何度も何度もしゃくり上げながら、ソウちゃんは言った。
「お兄ちゃんは、今のあたしを助けてくれてるよ。お兄ちゃんのおかげで、今のあたしは生きていけるんだよ」
ソウちゃんの腕があたしの背中に回された。細いけど、力強い腕だった。
「朝子……!」
ソウちゃんは、はじめてあたしを強く、強く、抱きしめてくれた。
あたしの携帯が、午前七時五十八分を示してた。誰も電話もメールもくれない。
結局、昨夜はお茶っ挽き。熱帯夜をむなしく過ごした。「脳トレ」の結果は「脳年齢四十歳」。悔しいけど、四捨五入すれば正確じゃん。
アコーディオン・カーテンが開いた。珍しくドライバーの斎木さんが顔を出した。
「帰るなら、送るよ」
「ちょっと待って、あと少しだけ……十五分くらい」
斎木さんは何かを察したのか、黙って顔を引っ込めた。
携帯をじっと見てた。そして午前八時十五分になった。
今日、あたしは一つ歳を取った。
あたしは正座した。そして、ソウちゃんと、朝子さんと、その他のたくさんの人たちのために手を合わせた。
そして、しばらくのあいだ、一人で泣いた。
「ひばり」
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