きみと笑える、今日のこと

 ほどよく曇った、涼しげな秋の街。これから家に帰るのか、ここからが仕事本番なのか、そんな人たちが行き交う中をのんびりと歩いていく。ふと、隣の花織かおりが足を止めた。

「ん?」

「……あ、ごめん。ちょっと浮かんだから」

「相変わらず謎だよ、その辺の回路」

 小説の新しいネタ、ちょっとしたフレーズ、キャラの名前。花織はふとした瞬間に急に思いつくらしいが、街を歩いているときは特に思いつきやすいのだという。もっとも、外に出たがらないのだが。

 そんな風な世界の見方は、灯恵ともえにとっては全くの未知ではあったが。自分が夢中になり、そして救われた物語の紡ぎ手に、一番近くで影響できるのは……このうえなく誇らしくて、心地よかった。


 ふと道の先で、小学校低学年くらいの男の子が、お母さんらしき人と仲良さそうに手を繋いで歩いているのが見えた。学校であったことを夢中で話しているのだろうか、微笑ましい様子にたまらず顔がほころぶ。するとそんな表情を読んでか、花織がぽつりと呟いた。

「……灯恵はさ、ああなりたい?」

「ああって、あのお母さんのこと?」

「そう」

 また随分と、答えにくい質問だった。うーんとね、としばらく迷ってから。


「お母さんにはなりたい。けど男の人の奥さんにはなりたくない、かな」

 自分にとってはごく自然な、しかし今の社会においてはイレギュラーかもしれない、そんな感情。

「……そっか」

 花織は答えてから、寂しげに目を伏せる……わたしが離れる未来を、想像しでもしたのだろうか。彼女の手を、そっと握る。

「ずっと一緒だなんて、約束はできないけどさ。今だって、これからだって、花織はわたしの一番だよ」


 約束はできない。花織との恋人関係を辞めて、他の男性と結婚するルートだって、ないとは言えない。それでも、自分がどんな立場になったとしても。心の底で一番に大事なのは、ずっと花織だと。それは確かなように思えた。


 無言のまま、握り返してくる手を包んでから。声を明るく切り替える。

「さ、まずは今夜のご飯。なに食べたい?」

「なんでもいいって言ったら怒るんでしょ」

「分かってるじゃない」 

 どうも、自分の希望を述べるということが苦手らしい。それは多分、これまで希望を述べる機会が与えられてこなかったからでは、とは考えすぎかもしれないが。

「……スーパー着くまでに考える」


 花織のリクエストはパスタだった。味は灯恵が決めていい、と。

「ふーん、じゃあトマトソースにするとして。野菜とか肉はどう……別でサラダとポトフ作ればいいや」

 食材とついでに、足りなさそうな日用品もカゴに突っ込んでいく。こうして一緒に買い物するっていうのは、なんだか……家族みたいだよね、とは言えなかったが。そんな気分になれるのも含めて、買い物は楽しかった。


 未来でも一緒にいるなら、こんな何気ない時間が続けばいいし。もし離れることになるのなら、隣に大事な誰かが居なくてもひとりで立てるように、生活のしかたを教え込んでおきたいのだ。


「今日のスーパー、なんか楽しいかも」

 カートを押しながら、花織が言った。他所の幸せそうな様子が眩しいとか、見知らぬ人からの視線が嫌だとか言うこともあったので、随分といい傾向だ。

「いろいろ選ぶのが?」

「それはあんまり。あのカップルだったらどんな会話しながら会話するのかな、とか浮かぶからさ」

「……それは花織の創った子たち?」

「それもあるし、二次もあるし。ただ自分で料理できないから、あんま細部は詰めれないけどさ」

 料理できないことの問題点はそこじゃないでしょう、と言いたくなるが。


「花織はもう少し、自分のことを考えてあげようよ……あ、納豆も入れよ」

 種類を吟味していると、花織が抗議の目を向けてくる。

「私の嗜好を考えて、入れないでほしいんだけど」

「君の健康を考えて、食べてほしいのです」

 じーっとにらみ合い。わたしが小首を傾げて、「ね?」と言うと。

「……はいはい、克服しますって」

「えらいえらい」


 わたしも昔は苦手だったけど。好き嫌いは意外となんとかなるし、嫌いだったものが食べられるようになるのは嬉しい……という経験が、花織にも当てはまればいいなと思いながら。


 帰り道。なんとなく雨の匂いがするなと思っていたら、途中から降り始めた。予報はずれの雨の中、小走りで家に駆けこんで。

「灯恵、自転車だよね。帰り大丈夫?」

「雨の中は乗りたくはない……せっかくだし泊まってっていい?」

「いきなり楽しそうな顔して……いいけどさ」

 一泊くらいできるように、お互いの家に着替え類は置いてあった。

「やったね、明日の一限に連行するまでセットです。あ、ちょっと濡れたしお風呂入ろっか」

「了解、沸かす……一緒に入るのなし、いいね」

「はいよ、とりあえず拭こっか」


 タオルで雨水を拭きながら、ふと思い立って。

「えいっ」

 座っていた花織の頭をタオルでくるんで、抱き寄せる。

「……あの」

「あったかいでしょ」

「まあ、うん」

 雨の音を聞きながら、ゆらゆらと身体を揺らし。そのままばったりと床に倒れこむ。


「どうしたの、灯恵こそ何かあった?」

 横に寝ころびながら、花織が不思議そうに訊く。

「別に? 強いて言えば、わたしが花織とくっつきたかっただけです」

 答えると、花織は呆気に取られたような顔をしてから。

「……もう、ばか」

 そうやって、ふたりで同時に吹き出した。


 交替でお風呂に入ってから、灯恵は夕飯の準備に取り掛かる。花織は……料理を教えがてら一緒にやっても良かったのだが、放置していた課題があったようなのでそちらをやらせる。

 外は相変わらずの雨。あんまり激しい雨は不安になるが、このくらいの穏やかな降り方は嫌いではなく、むしろ。


「雨音に見守られてる感じ、しない?」

 野菜を切りながら話しかけると、花織は少し考えてから。

「閉じこもってるとき、晴れよりも雨の方が安心するけどさ」

「雨を理由に引きこもらないの。けど確かに、冷たい外よりは家の中の方が良いよねって、そんな意識があるからなのかもね」


 遠い昔。大雨の中を一人で留守番していたとき、ざあざあという音と灰色の景色と、たまに聞こえる雷鳴が怖くて心細くなっていたことを思い出す。

「花織はさ、雷とか怖くなかった?」

「十九年間ずっと人間が怖かったから、雷とかあんま気にしなかったかな」

「うん……」

 相変わらず、ディープなことを平然と言うが。


「けど灯恵と……付き合い、出してからさ。平気だったものまで怖くなるようになった」

「え、なんで?」

 一緒だと心強くなる、ではないのだろうか。

「そりゃだって、灯恵が困ったり、危ない目にあったりしてないかなって」

 予想外の返答に、包丁を置いて鍋の火を止めて。

「大切なものができるって、そういう……え?」


 すたすたと花織に歩み寄り、抱きついて押し倒す。

「……あの、君さ。ほんとにどうしたの今日。熱でもある?」

「うるさい、花織がそんなこと言うのが悪い」

 ひとしきり、頬と頬をすり合わせてから。じっと花織の瞳を見つめる。

「私が花織のこと心配するの、分かってくれた?」


 誰かを大切に思うこと。自分だって、大切に思われる存在であること。

 自分を大切にするのが苦手になってしまった花織には、後者の発想が欠けているようだった。

「……分かり始めた。それよりお腹空いているんだ、私」

 目を逸らして、話を逸らそうとする彼女だった。

「はいはい、もうちょっと待ってて」


 完成した夕飯を並べて。

「じゃあ、いただきます」

「いただきます」

 自分で作った料理も、段々と味が安定してきたかな……そう自己ジャッジを下してから、もぐもぐしている花織の表情を覗くと。

「美味しい、灯恵のご飯」

 満足そうに、嬉しそうに、控え目ながらも確かな笑顔で。

 何気ない表情なんだろう、けどそれはたまらなく愛しくて、胸が締め付けられる。

「……えへへ」

 笑顔が苦手な彼女が、食べて笑えること。それだけで、覚えてきた料理に意味があるように思えた。


 それからしばらく、読んだ本や最近の講義について話しながらのんびりと食べ進めていたのだが。

「そういえばパスタで思い出したけどさ、子供の頃に観たディズニーの映画で。わんちゃんのカップルがパスタを両端から食べて、その勢いでキスするっての。いつか小説でやりたいなって」

「ああ、わたしも観ててキュンキュンしたそれ」

 そう返して……思考はそれで止まらない。

「――じゃなくて。今やろう、パスタキス」

 呆気に取られて、それから絶句して顔を赤くする花織。

「……あのさ灯恵、いま変なワード聞こえたんだけど、もう一回」

「だからパスタキスやろうって」

「待て待て待て待て」

 彼女は頭を抱えて後ずさる。

「私はね、ただ創作で使いたいって」

「じゃあその取材も兼ねてさ、ね?」


 好きな人と、そんなロマンチックなことが出来るのなら。

 チャンスは逃さない。


「……もしかして、ほんとに嫌?」

 だとすれば無理強いする訳にもいかない、そう思い始めたのだが。

「嫌じゃなくて、えっとさ。私がそんなことやったら台無しじゃんか。あれは可愛い存在のためにあるんだからさ」


 自分にそれは似合わないと、決めつける癖。

 あるいは、お前にそれは似合わないという呪いの積み重ね。

「あのね、前も言ったけどさ。すっごく可愛いわたしの彼女です、野草花織は」


 気遣いでも気休めでもなく。安らぎや喜びを失くしてきた花織が少しずつ笑顔を重ねていくたび、彼女がとても愛しく想えた。たとえ、一般的にどう評価されようと。

「……うん」

 花織が小さく頷いたところで、プラン実行。


 残っていたパスタのうち長めの麺を選び、両手のフォークで持ち上げる。一端を花織が、もう片方をわたしが咥えて。目を閉じて、ゆっくりと食み進めていった……のだが。

 違和感に目を開けると、花織が麺を噛みちぎったらしい。残された麺を啜り上げてから、抗議の視線を送る。

「ごめん、心の準備が足りなかった」

「チキン!」

「分かった分かった、もう一回」


 今度は、最後までできた。

 いつ唇が触れ合うか掴み切れないスリルと。トマトソースの風味と一緒にやってきたやわらかさと。

 離れてから、真っ赤な顔で可笑しそうに吹き出す花織が。たまらなく、幸せだった。

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