きみのせかいを変えたくて

市亀

きみと出逢った、これまでのこと


「ストレス下で分泌されるアドレナリン、これは海馬の機能にも影響を及ぼし……おっと、時間か」

 説明をしていた教員が、チャイムの音に話を止める。

「それじゃあ、続きは次回。お疲れ様でした」

 周りの学生がガヤガヤと立ち上がっていく中、木坂きのさか灯恵ともえはスマホを取り出す。朝から姿を見せない同じクラスの恋人へ向け、四時間前に送ったLINEに反応はない。体調を崩したか、あるいはまた独りで荒れているのか……恐らくは後者だろうという予感を抱えつつ、そちらの家へ向かう旨を送信。穏やかではないのが気に掛かるが、近いうちに遊びに行こうとは考えていたのでちょうどいい。


 自転車に乗って、心配半分と楽しみ半分で恋人の家へ辿り着いたのだが。わたしの悪い予感は、往々にしてよく当たる。インターホンを押し、

「……はい」

「灯恵です。入っていい?」

 数秒後、ドアが開く。

花織かおり……またなんか思い出した?」

 野草のぐさ花織。嫌われ続け疎まれ続け、上手く生きるのがどうにも苦手な、わたしの彼女。

「まあ、そうなんだけど……ごめん。すごく散らかってる」

 乱れた髪と、泣き腫らしたような表情で。花織は固い声で謝った。

「そんな所だと思った、だから片付けに来たよ」

「……うん」

 まだ涙が抜けないのか。絞るように頷く花織。

 わたしは靴を脱ぎ、部屋へと入り……これは、予想以上にひどい。

「花織、怪我は?」

 彼女は首を横に振る。懸念が一つ減った、とりあえず片付けのことだけ考えれば良い。

 ハンガーに掛かっていた服は勿論、ケースに入った下着類まで散乱し。ペンやら小物やらは床にぶちまけられている。大学で使う教科書類が雪崩を起こしている中、小説の棚だけ保たれているのは理性の残りか。六畳間は文字通り、足の踏み場もない惨状ではあったが。

「ごめん、灯恵……ごめん」

 謝り続ける花織へと向き直り、抱きしめる。右手で背中をさすって、左手で頭を撫でる。

「だーいじょうぶ、大丈夫。わたしがついてる」

 花織の体温と、鼓動を確かめながら。痛くて暴れてる胸に、優しく響くように言い聞かせる。

「……うん。灯恵、来てくれてありがとう」

 やっと落ち着いてきたらしい。

「よっし、いい子!」

 ぽんと頭を叩いてから、肩を回して荒れた部屋と対峙する。

「じゃあ、はじめよっか」


 *

 大学に進学してすぐに、同じクラスの野草花織のことは認知していた。野暮ったいにも程がある服装。無口で、話しかけられてもおどおどするばかりのコミュニケーション力。何より、女の子らしい可愛らしさを置いてきたような、短慮な人なら迷わず「ブス」という言葉をぶつけるような、そんな風貌。つまりは、悪い意味で人目を引く女子だった。

 数ヶ月は特に交流はなく、たまにあるグループワークでフォローに手を焼くくらいの間柄で。灯恵が彼女に抱いていたのは好意とは程遠い、どこのクラスにもこういう子はいるよなという同情だった。たまに本人の居ない場で彼女の容姿を嘲笑している学生がいて、それは不快ではあったものの、灯恵にとっては大した問題ではなかった。


 転機は秋の大学祭。違う学部の友人が入っていた文芸サークルの出展で、友情サービスのつもりで部誌を購入した。プロの作家に比べれば面白みに欠けるとはいえ、同じ大学で小説を書いている人がいるのは楽しいことだ、などと思いながらページを捲っていると。ある寄稿に、瞬間に心が奪われた。

 大衆受けするかは分からない、しかし灯恵の好みど真ん中の文体。予想をことごとく裏切りながらも、心地いいポイントに収束する筋書き。面白くて、けど拭えない違和感にたまらなく心奪われる。

 その短編を書いていたのが花織だった。


 学祭明けの昼休み、教室の隅にいた花織に声を掛ける。

「ねえ、野草さん」

 彼女はビクッとしてから、怖々と文庫本から目を上げた。

「……木坂、さん?」

 間違えていたらどうしよう、そんな声。

「うん。部誌に載ってた短編、すごく良かったから。それ伝えたくて」

 そう話すと、彼女はしばらく目を瞠り。それから口を押えて俯く。

「……ごめん、言われるの嫌だった?」

 戸惑いつつ訊くと、彼女は首を横に振り。ルーズリーフに何か走り書いて、私に寄越した。

「投稿用のアカウント。良かったら読んでみて、けど誰にも言わないで」

 受け取って確認すると、サイト名とID、そして「ありがとう」の文字。

 それが、交友の始まりだった。


 *

 一時間ほどの作業で、花織かおりの部屋は回復した。

「相変わらず魔法みたい、灯恵ともえの片付け」

「家がきれいじゃないと機嫌悪くなるお母さんに仕込まれたからね」

「後、私の普段よりも整然としてる」

 原状回復のつもりが、オーバーキルしてしまったらしい。


「へえ……じゃあ花織、ご褒美ちょうだい」

 誘いをかけるのだが、

「ご褒美……最低時給だと八百くらい?」

「ていっ」

 意図を全く理解しない、そんな彼女のおでこをつつく。

「………何でしょうか」

「たまには、花織からして?」

 そう言ってから、目を閉じて首を傾げる……キスしてよ、と。

 やっと意味を理解して、動揺する様子が伝わってきたが。それでも数秒後。


 唇にそっと触れる、冷たくて柔らかくて乾いた温もり。遠ざかってから、確かめるようにもう一度触れる。

 離れてから、花織を見つめる。顔を赤くして、耐えるように目をぎゅっと閉じて……わたしだけが知ってる、可愛い花織。

「たーりない」


 今度はわたしから。熱を刻むように、ぎゅっと唇を押し当てて。舌を伸ばして、口の中に触れる。あたたかくてなめらかな舌に、溶けあう唾液に。腕の中の鼓動が加速して、息づかいが激しくなって。

「……ん!」


 耐えられなくなったのだろう、花織が身体を離してへたりこむ。荒い呼吸とともに、潤んだ目が抗議するように見上げてくる。

「なに、ご不満?」

 灯恵も屈んで、目線を合わせながら訊ねると。

「……心の準備とか、させてほしい」

「準備ってさ、そろそろ付き合って半年だよ?」

「そうじゃなくて。こっちは慣れてないんだからさ。触れてくれることに」


 触れられる、ではなく。触れてくれる。自然とそんな発想になってしまうようなこれまでを送ってきたのだ、花織は。

「そんなこと言うと、もっと触りたくなります」

 おでこをくっつけて言い聞かせてから、また抱きしめる。温もりを全身で感じながら、身体を揺らしていると。


 ぐう、と。腕の中で花織のお腹の鳴る音。

「お腹空いた?」

「お昼、食べてなかったから」

「こら、ちゃんと食べて」

 相変わらず、生活をさぼりがちなのだ、彼女は。

「じゃあ夕飯の材料買いにスーパー行くけど、花織も来る?」

 彼女は人混みを嫌うし、そもそも外に出たがらない。

「……うん、行く」

「よし、じゃあ着替えて。あと髪もなんとかしようか」


 *

 わたしと花織の交友が始まって、それから色々あって恋人になって。彼女の心にはいくつもの傷跡が深く残っていることを、ひとつひとつ知ってきた。


 小学校から高校まで、いじめられ続けていたこと。友達と呼べる存在がずっといなかったこと。両親は育ててくれはしたが、温かい愛情は得られなかったこと。地元から逃げるように、必死に勉強して遠くの大学を受けたこと。

 周りの人間すべてが、自分を嫌っているように思えること。自分自身だって、嫌いで仕方ないこと。だったら生きていることもないだろうと、終わらせようかと本気で考えてしまうこと。

 時々、暴れてしまいそうな衝動に襲われること。一人暮らしでは、それを抑えられなくなること。痛くて苦しいのは嫌で、けど自分が健康に生きることに無頓着であること。


 そんな日々の唯一の救いが、小説であること。ひたすら物語の中に逃げ続け、やがて自分の紡ぐ物語に居場所を見出すようになったこと。


 花織の描く世界に魅了されて、それから歩んできた道程の苛酷さに呆然として……その後は、彼女の物語に救われて。


 わたしが絶対に、彼女を幸せにすると。

 そんな決意と共に、寄り添って過ごす日々が続いていた。


 ごはんを作って一緒に食べて。部屋を荒らしてしまったら片付けて。身体が悪くなったら看病して、講義に乗り遅れないように手も打って。好きなものは一緒に楽しんで。悲しさが暴れそうになったら、落ちつくまでそばにいて。

 わたしがこれまで、家族や友達から当たり前のようにもらってきた温かさを、それ以上の温もりを、全部花織にあげられるように。

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