短編集

のわさん

「バケモノ」 ​───────学戦短編

「クソがッ!!」

 肉を抉られた左肩を隠さんと、右手で傷を抑え込み、怒りに満ちた表情で綾は自室へと重い脚取りを上げる。

 先の戦闘に置いての、自らの戦果の乏しさ。今までの中で、最も醜く、恥とするべきもの。

 白だろうが赤だろうが関係ない。全て雑兵共だと、自分の力なら相手にすらなり得ないと。

 そう、彼女は──自らの力を過信する余り、判断を見誤った。

「ヤツらが、ここまでやるだなんて」

 未だ止まることのない痛みに耐え、疲弊した体を押して綾は自室の扉を開く。

 本来なら、今すぐにでも鍛錬に向かって更なる力を付けたい。

 けれど、その時は今ではない。

 熊を自らの手で討ち獲る狩人も、魚を竿で釣り上げる釣り人も、体力無しに行動を起こすわけにはいかない。それは軍の生徒とて同じだ。

 だから今は、英気を養おう。来る戦乱、催事へと備えよう。

 それが今の綾に出来る、一番の鍛錬。

 その筈だったのに。

「ふふ、いいピアノ」

「ッ!? なんで、ここに」

 その思惑は、一人の狂人によって脆くもくずれさった。う

 誰よりも弱々しく、基礎ばかりに囚われる哀れな女。

 模範と言えば聞こえはいい。

 だが実際の戦地では、そんな物足枷にしかならない。

 『約立たずの兵士』の体現だった──綾の姉。

「……随分、強気に睨むわね」

 降神、奈楠。

 焦点の定まっていない壊れかけの人形の様に不敵に笑うそれは、綾の宝物のピアノを愛おしそうに見つめると、卑しく撫でた。

「触るな」

 空気が瞬時に凍りつくのを、奈楠は肌で感じた。

 絵に描いたほど白々とした彼女の腕を冷たい風が通り過ぎる。

 かつてなら、即座に怯えただろう。ただの模範生徒でしか無かった頃の、愚かだった時の彼女であったら。

「ふふふ……私にも殺気を向けるなんてね。いい子よ、綾」

 ──だが、今は違う。

 全身を覆い尽くすような綾の殺気。

 眼前に映る自身を、綾は本気で嫌っている。

 それが、とても、いい。

「アンタなんかにいい子なんて言われたくない」

 不気味に笑う奈楠の目を見据え、綾は吐き捨てる。

 身の毛が弥立つ程だ。吐き気もする。

 この間まで屑でしかなかった存在が、今更姉みたいな態度を何故取れる?

 散々、自分に怯えてきた癖に。少し功績を上げれば偉そうに振る舞えるとでも?

 ──ムカつく奴だ、いっそここで

「綾」

 一言だけ、聞こえた。

 憎悪も、憤怒も、何も感じない──

 感情は愚か生気すら感じられない、たったの一言。

 その一言だけで。綾の動きが止まる。

「っ」

 どれだけ無様な格好でも良い。何度転んでもいい。

 だから、すぐにこの場から離れなければいけないのに。

 そうしなければ、自身に待つのは"死"だけだというのに。

 鉛のように重いその脚は、彼女に動くことを許さなかった。

「貴方で遊んであげようかと思ったけれど」

 既に眼前に迫っていた奈楠の手が、愛おしそうに綾の頬を擦る。

 愛玩用の玩具のように自身を扱う様を見て、改めて彼女は知る。

「その価値も無さそうね? だって貴女は"弱い"んだもの」

 模範生徒であったあの姉は、もういない。

 敵を無残に切り刻み、その死体ですら何度も蹂躙して。

 その様を見つめ、歪んだ笑みを浮かべて――違う獲物を求めて。

 避けていた筈の自身に接触するだけだなく、罵倒までして。

 ここに居るのは人間じゃない。

「……バケモノ、が」

 姉の皮を被った、最凶の──バケモノだ。

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短編集 のわさん @noirepulthena

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