世の中には血が苦手な人もいるのです。


 よろよろとリビングに入ってきた青年の姿を認めて、悠利ゆうりは慌てて立ち上がった。悠利の傍らでお茶を飲んでいたクーレッシュもほぼ同時に立ち上がり、ふらりと倒れそうな青年を二人で支える。


「ラジ、大丈夫……!?」

「どうした、何があった!?」


 二人に両側から支えられた青年は、その場に膝立ちのような状態で何とか身体を支えていた。これはこのまま座らせた方が良いだろうと、悠利とクーレッシュは彼の身体を支えながら座らせる。その顔色は、顔面蒼白だった。

 完全に血の気が引いた顔色をしている仲間に、二人は困惑している。彼がこんな風になるなど、滅多にない。

 ……滅多にないが、原因に心当たりがないわけでもなかった。


「ラジ、どこかで誰かを怪我させたの?」

「それか、怪我人に遭遇したか?」

「……怪我人、に、……遭遇、した……」

「「うわぁ」」


 悠利とクーレッシュの問い掛けに、青年は途切れ途切れに答えた。その声は震えていた。身体も震えている。気分が悪そうかつ、何かに怯えるような状態だ。かなり重症だと二人は思った。

 この青年の名前は、ラジ。《真紅の山猫スカーレット・リンクス》に身を置く訓練生の一人だ。年齢はクーレッシュと同じ十八歳。同年齢とういうこともあって、クーレッシュとは割と仲が良い。

 悠利に目配せされて、クーレッシュは水を取りに台所へと走っていった。ラジの表情は浮かない。というか、今すぐ倒れてしまいそうだ。いつもはピンと立っている獣耳もぺたんとしている。心なしか、尻尾も元気がなさそうだ。

 ラジは、虎の獣人だ。時々アジトに顔を出す卒業生の一人、狼の獣人であるバルロイ同様、獣耳と尻尾が特徴的。ラジの種族は白い虎らしく、彼は白髪碧眼という色彩をしている。獣人だけに体格もよく、一目で戦闘職と解る程度にはマッチョだ。顔立ちも虎のイメージを損なわない程度には強面。

 ただし今は、寝不足で行き倒れているときのジェイク並みに脆く見える。通りすがる仲間達が案じるように見てしまう感じで。

 ……ちなみに、ジェイクが行き倒れていても誰も慌てないし、特に心配もしない。いつものこととして、部屋に運び込まれるまでがお約束だ。安定のジェイク先生です。


「ほれ、水持ってきたぞ。飲めるか?」

「うぅ……、ありがとう、クーレ」

「気にすんな。運がなかったな」


 今にも崩れそうなほどにふらふらながら、ラジはクーレッシュに礼を言ってグラスを受け取る。透き通った水をこくこくと飲む横顔が相変わらず顔面蒼白で、悠利は心配そうに彼を見ている。

 クーレッシュもそれは同じだったのか、労るようにラジの背中を撫でている。ラジがこんな風になるのは、決して初めてではない。彼には一つ、とても憐れな性質があった。


「しっかし、お前も難儀な性質だよなぁ……」

「……うぐ」

「バリバリの前衛なのに、血が苦手って……」

「……向いてないのは自覚してる」


 クーレッシュの言葉に、ラジは何かを吐き出すように呟いた。その声に漂う哀愁に、悠利とクーレッシュは左右からぽんぽんとラジの肩を叩いた。

 そう、ラジは血が苦手だった。身体能力に優れる虎獣人であり、当人の能力も戦闘に向いていながら、彼は致命的なまでに血が苦手なのだ。大量の血を見ると気分を悪くするぐらいには。


「自分が原因じゃない血は、大分慣れたんだが……」

「今日はダメだったのか?」

「……流石に、血だまりは、無理……」

「「それは無理」」


 ラジの言葉に、クーレッシュと悠利は真顔で答えた。綺麗にハモっていた。

 クーレッシュは戦闘もこなす斥候職だが、それでも戦闘時でもないのに血だまりに遭遇したら平静ではいられない。むしろ、平和な街中で何で血だまりに遭遇してるんだと思う二人だった。ラジは買い物に出掛けていただけなので。

 いくら血が苦手とはいえ、ラジも戦闘時ならば気を張っているのでここまでの状態にはならなかっただろう。平和にのんびりとした日常の中でいきなり血だまりに遭遇したからこそ、予想以上にダメージを受けてしまったのだ。多分。


「てか、血だまりって大丈夫だったのか……?」

「あぁ、うん。何か、毒が回った場所を切って応急処置をしたらしいんだが、予想以上に血が出たとか、何とか……?そんな会話をしてた気が、する」

「思い出さなくていいよ、ラジ」


 あんまり覚えてないと呟くラジを、悠利は止めた。そこは無理に思い出してくれなくても大丈夫だった。顔色が悪くなりそうなので。

 とはいえ、そういう理由ならば何らかの処置がされているだろうし、最悪の事態ではないんだなと思う悠利とクーレッシュだった。王都ドラヘルンは比較的治安の良い街だが、それでも小競り合いや厄介ごとは潜んでいる。そうでなかっただけ、御の字だ。

 水を飲み、二人と会話をしたことで幾分落ち着いたのか、ラジの顔色が少しだけ良くなった。不運な事故だったんだなとクーレッシュは同い年の仲間の背中を軽く叩いた。労るように。


「ラジも大変だね」

「ん?」

「血が苦手なのに、戦闘職として強くならないとダメなんでしょ?」

「まぁ、稼業が家業だからなぁ……」


 はぁ、とラジはため息をついた。少しばかりしょんぼりしている。彼にも、自分の性質と自分の職業ジョブの方向性が合っていないことぐらいは、解っていた。

 そんなラジの職業ジョブは、格闘家だ。虎獣人の身体能力を遺憾なく発揮しており、組み手ではかなりの強さを誇る。力押しで突っ走るレレイを相手に落ち着いて対処をし、勝ち越せるぐらいには強い。

 また、細身でありながらダンピールゆえの怪力を保持し、ヴァンパイアの狩猟本能と戦闘本能を受け継いでいるマリアとも、実に良い勝負をする。鍛錬や手合わせでならば、彼は文句なしの強さを発揮しているのだ。

 ……そう、現代日本の武術における試合のような状況ならば、彼はとても強い。相手に勝つのが目的であって、害するのが目的でなければ不必要な血は流れないので。

 しかしそれは、逆を返せば命のやりとりをする場合での弱さを意味する。

 勿論、まったく戦えないわけではない。自分の性質をふまえて、ラジが選んだのは格闘家なのだ。格闘家は己の手足を武器とする。刃物を使わないので、相手の血を見る可能性が少ない。

 また、ラジの得手は絞め技だ。打撃などでは相手の骨を砕いて血を流す場合もあるが、絞め技ならば血を流さずに相手の意識を奪い取れる。勿論、普通の打撃技もそれなりの腕前ではある。


「ラジの実家って、傭兵稼業やってるんだっけ?」

「傭兵というか、護衛業かな。僕らは身体能力が高いから、それを生かして一騎当千が売りらしい。あと、実家じゃなくて、一族単位」

「その一族単位ってのが、俺にはイマイチ解らねぇんだよなぁ……」

「それは僕も思うー」

「そうか?」

「「ソウデス」」


 不思議そうに首を傾げるラジに、悠利とクーレッシュは声を揃えて答えた。

 庶民である二人にとって、一族という大きな括りで物事を考えるのは馴染みが薄いのだ。二人の中で認識できる範囲は、せいぜい親兄弟に祖父母、伯父伯母に従兄弟などと言った範囲ぐらいになる。それ以上の大きな括りは、実感がどうしても湧かないのだった。

 しかし、逆にラジにとってはそんな二人の反応が解らない。彼は、一族の里で生まれ育っている。周りにいるのは全て血縁者。同じ祖を持つ親類縁者ばかりだったのだ。

 勿論、外部から嫁や婿に来た人々はいる。しかし、それだって突き詰めてしまえば姻戚関係者だ。大きな意味で一族の中に入れてしまって問題はない。


「そもそも、周りが全部親戚の環境っていうのも、想像できないんだよねぇ」

「隣近所に血縁者以外がいないって、何か変だよな?」

「そう、それ。幼馴染みが血の繋がった親戚ってことだもんね?」

「だよなぁ?」


 顔を見合わせて、悠利とクーレッシュの会話が弾む。

 二人の会話に、それの何が不思議なんだろうと首を傾げているラジ。そうやって感情が顔にのると、強面の造作が少しばかり緩んだように見える。黙っているとワイルドっぽいが、口を開けば普通の青年なのだ。

 一族の中で育ち、それが普通だと思っていたラジだが、今は《真紅の山猫スカーレット・リンクス》に身を置いている。自分とまったく違う環境で育った同年代の仲間達と過ごすのは、彼に良い経験を与えていた。視野が凝り固まるのを防ぐという意味で。


「血縁者は固まって生活するのが普通だと思ってからなぁ、僕は」

「家族単位ならともかく、一族単位ってのは俺らには馴染みはねぇわ」

「僕の国も、古い集落がある地域とかだと血縁者が固まってたりするけど、流石にそれだけで全部ってことはなかったし」

「色々あるんだな」

「色々だなぁ」

「色々だねぇ」


 ラジの言葉に、クーレッシュと悠利は同意した。同性で、同年代で、けれど生まれも育ちも違う彼らなので、自分の常識が相手の非常識になることを噛みしめているのだ。何気ない会話をしているときなどは、そんなことは思わないのだけれど。

 そこでふと思い出したように悠利が口を開く。


「あ、でも、バルロイさんも似たようなことを言ってたから、獣人だとそういうのが多いのかもしれないね」

「そんなこと言ってたのか?」

「うん。バルロイさんが育ったのも、自分と同じ狼獣人の人ばっかりが暮らす集落だって。血の濃さは色々でも、皆血縁だって言ってたよ」

「へー、そうなのか」


 クーレッシュは感心したように呟く。バルロイは自由気ままに生きているような狼獣人だが、基本的に脳筋なので嘘は言わない。その彼が語った内容ならば、嘘はないだろう。

 ラジも、自分と同じ状態で生活している人がいると解って嬉しいのか、少しばかり表情が緩んでいる。人間と獣人の違いがあるのか、獣人でも種族によって違うのかは解らない。解らないがとりあえず、ラジの一族だけが特殊というわけではなさそうだった。

 そんな風にのんびりと雑談をしていると、アリーが顔を出した。今日もアジトでお仕事に勤しんでいたリーダー様の登場に、三人は首を傾げる。


「ラジ、顔色があまり良くないが、何かあったか?」

「あ……。買い物中に負傷者に出くわして、少し気分が悪かっただけです。もう大分落ち着きました」

「……そうか。あまり無理はするなよ」

「はい」


 ラジの性質をよく知っているアリーは、案じるように告げる。それに素直に返事をするラジ。悠利は神妙な顔をしているラジを見ながら、ちょいちょいとクーレッシュの袖を引いた。


「何だよ、ユーリ」

「アリーさんって、こういうところお父さんみたいだよね」

「……ぉ、まえ、なぁ……」

「何?」

「思ってても口に出すなよ……。リーダー、まだ若いんだぞ……」


 きょとんとしている悠利に、クーレッシュははぁとため息をついた。アリーの視線が突き刺さってくるのだが、それには気付かないフリだ。なお、悠利はまったく気付いていない。戦闘員と非戦闘員の間の壁は大きい。

 とはいえ、アリーが強面な外見と荒っぽい口調に反して、面倒見の良い世話焼き気質の常識人であることは、周知の事実だ。それを当人に告げると照れ隠しなのか怒られるだけで。

 なお、皆がアリーをお父さんと形容するようになったのは、悠利が来てからである。悠利とアリーのやりとりが、兄と弟ではなく保護者と子供のように見えるからだろう。小言を言いながらもそこに愛が含まれているので、鉄拳制裁すらお父さんの愛情に見えるのだ。


「でも僕、時々うっかりお父さんって呼びそうになるよ」

「なるなよ」

「呼んだら拳骨貰ったけど」

「いや、そら貰うだろ……」


 のほほんとした口調で悠利が告げる内容に、クーレッシュは脱力した。相変わらずだなこいつ、と言いたげな態度だ。安定の悠利だった。

 そんな二人のぼそぼそとしたやりとりが聞こえているのだろう。ラジが、白い獣耳をぴくぴく動かしながら耐えている。反応したら負けだと思っているのかもしれない。

 対してアリーは、目を細めて二人を見ている。それ以上何も言わないが、目が普通に怖かった。微妙なバランスを保っている状況なので、あと一押しがあったらツッコミが入りそうな感じだ。

 その微妙な空気を破ったのは、やはりというべきなのか、悠利だった。


「そうだ、ラジが帰ってきたらおやつにしようと思ってたんだよね。準備してくる!」

「ユーリ、僕、今は食欲がないんだが」

「じゃあ、飲み物だけでもどう?フルーツジュース」

「あー、……じゃあ、それだけ貰う」

「解った」


 まだ本調子ではないことを伝えたラジに、悠利は笑顔で提案する。その好意まで無下にすることは出来なかったのか、ラジが困ったような顔で答える。それに悠利は、嬉しそうに笑った。

 笑ってそして、アリーを振り返って質問する。


「アリーさんは、ジュースか紅茶かどっちにします?」

「お前らはどうするんだ?」

「僕はジュースです。クーレは?」

「俺もジュース」

「なら、ジュースで頼む」

「解りました。用意してくるんで、食堂まで来てくださいねー!」


 笑顔を残して去っていく悠利。心なしかうきうきしているその背中を見て、三人は図らずも同じタイミングでため息をついた。


「ユーリだなぁ……」

「あいつ本当にマイペースだよなぁ……」

「何であんなに楽しそうなんだ……」

「「それは思います」」


 アリーのツッコミに、クーレッシュとラジは声を揃えて答えた。本当に、いつもいつも、誰かのために料理を準備するのを喜ぶ悠利なのだ。皆で食べたら楽しいし美味しいよね!というのが悠利の持論である。

 顔を見合わせ、苦笑して、三人も食堂へ向けて歩き出す。彼らの愛すべきおさんどん担当は、今日も美味しいおやつを用意してくれるのだろうなと思いながら。




 ちなみに、四人でジュースを飲んでいるところに他の面々が戻ってきて、ジュースが足りなくなったので追加で果物をジュースにする作業に追われる悠利達でした。




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