産後のお母さんは無理禁物です。
その日、
そんな悠利の耳に、女性二人の口論めいたやりとりが聞こえた。口論というよりは、片方が何かを訴えて、もう片方がそれをあしらっているという感じだろうか。とにかく、何かもめ事の気配がそこにあった。なので、つい視線がそちらに向いたのだ。
「お願いします。どうか、もう少し休養を取ってください」
「先生は大袈裟なんですよぉ」
困ったように必死に訴えているのは、白衣が眩しいウサギ獣人の女性だった。真っ白な髪に真っ白な耳が良く映える。鼻の上にちょこんと乗った丸眼鏡の奥の瞳は、綺麗な赤色をしていた。ウサギと聞いてイメージする色合いそのもののような綺麗なお姉さんである。
「……ニナさん?」
その姿を見て、悠利は不思議そうに首を傾げた。そこにいたのは、診療所を切り盛りする医者のニナである。悠利達もお世話になるし、悠利は個人的に仕事を手伝ったこともある。普段は診療所で仕事をしている彼女が、どうしてこんな一般民家ばかりの場所にいるのだろうと思う悠利だった。
けれど、すぐに往診か何かかなと思い直した。病院のお医者さんはそこに患者が来るのを待っていることが多いが、中には訪問診療を行う人もいる。地元の診療所とかのお医者さんだと、定期的に患者さんの具合を確かめに家へ往診に来てくれることもあるらしい。とにかく、そう考えればニナがそこにいるのは別におかしなことではなかった。
おかしいのは、ニナの態度だ。というか、必死になっているニナと裏腹に、相対している女性がカラカラと笑っているのが妙に気になる悠利だった。
ニナは医者である。それも、ちゃんと腕の良い医者だ。患者に寄り添うことをモットーにしているのか、自分がどれほど忙しくても時間を削って患者のために頑張ってしまうような、真面目で優しいお医者さんである。……まぁ、それで医者の方が倒れたら元も子もないので、近所のおばちゃん達に見張られているらしいのだが。気力だけではやっていけない仕事なので。
「ニナさん、こんにちは」
「キュピピー」
「え?あ、ユーリくんにルークスくん。こんにちは」
「お仕事ですか?」
「えぇ……」
笑顔で挨拶をした悠利とルークスに、ニナも笑顔で返事をくれた。悠利の問いかけには、ちょっと困った顔になっているが、概ねいつも通りの友好的なニナ先生である。
その彼女が相手をしていたのは、一人の女性だった。気っぷの良いおっかさんという感じの女性だ。乳飲み子を抱っこ紐で胸の位置に固定している。どうやら、産後間もないお母さんのようだった。
その人を相手に、ニナは何をしていたのだろうと悠利は首を傾げる。その視線に気づいたらしいニナが、困ったような顔のままで言葉を発した。
「こちらの方に、もう少し休養を取ってほしいとお願いしていたのよ」
「休養、ですか?」
「えぇ。産後間もない女性の身体に無理は禁物だから……」
「先生は大袈裟なんですよ。今までも大丈夫だったんですし、そこまで柔な身体じゃありませんよ」
ニナの説明に悠利が目を見開くのと、女性が何でもないのだと笑うのはほぼ同時だった。意味の解っていないルークスは、皆の足下で不思議そうにしている。
ニナがどれほど言葉を重ねても、女性は折れなかった。彼女は三児の母だという。今までも、こうやって家事をしながら子育てをしてきたのだと。先生は大袈裟すぎるのだと笑う姿に、気負いも何もない。本当にそう思っているのだろう。ニナへの悪感情も見えなかった。
だが、だからこそ、タチが悪いのだと悠利は思った。思って、そして、思わず口を開いてしまった。
「僕もニナさんに賛成です。少なくとも、貴方はもうしばらくは絶対安静にしているべきだと思います」
「ユーリくん?」
「いきなりどうしたんだい、坊や。怖い顔をして」
不思議そうな女性二人に、悠利は真剣な顔で言葉を続けた。そう、これはとても大事なことだった。気づいた以上、悠利も無視は出来ないのだ。
「僕の故郷では、出産直後の女性はきっちり養生しないといけないという認識があります。産後の肥立ちというんですけれど、子供を産んだ後のお母さんは家事も何もしないでしっかりと養生をするのが仕事という感じです」
「そりゃまた、随分と過保護な国にもあるんだねぇ」
「過保護かどうかはともかく、少なくとも、出産が命がけであることはどこの国、どの人種でも同じだと思います」
「そうかもしれないが、私は今までだってこうやってきたんだよ。先生も坊やも心配しすぎだよ」
「いいえ」
女性の言葉を、悠利は強い口調で切り捨てた。普段ほわほわしている悠利しか知らないニナは、恐ろしいほどに真剣な表情をした悠利に驚いている。女性もまた、先ほどまでののんびりとした風情の少年とは思えない空気に、困惑しているようだった。
その二人に対して、悠利はゆっくりと息を吐いて感情を落ち着けてから口を開いた。これは、何を置いても伝えなければならないと思ったのだ。
「今、僕の目に映る貴方は、重傷者と同じです。傷が目に見えていないだけで、身体はボロボロです。どうか、ニナさんの言うようにゆっくり休んでください」
「何を、言って……」
「あの、ユーリくんは鑑定の
「……勝手に人を鑑定したのかい?」
「していません。少なくとも、詳細な状態を見るようなことはしていないです。ただ、僕には、重傷者や重病人は、そうだと解るんです」
胡乱げな女性に、悠利は淡々と告げた。全て事実なので、隣でニナがこくこくと頷いている。ニナのことは信頼しているのだろう。その彼女が肯定しているので、頭から悠利の言い分を否定することはしない女性だった。
それでも、やはり、何を言われているのか解らないのだろう。……彼女にしてみれば、三度目の出産である。今まで恙なく行ってきたことなのだ。それを、何故今回に限って咎められるのかが解らない。ただ、それだけの話である。
「今までは大丈夫だったかもしれません。でも、今は大丈夫じゃないんです」
「だから、さっきから何を」
「今無理をしたら、一生不調を抱えたままになるかもしれません。もしかしたら、命に関わるかもしれないんです」
お願いします、と悠利は頭を深く深く下げた。見ず知らずの少年にいきなりそんな行動に出られて、女性は何が何やら解っていない感じだった。けれど、悠利は必死だったのだ。名前も知らない、どこの誰とも知らない相手だ。それでも、このまま放置すれば大変なことになるのは解っている。
悠利の保持する鑑定系最強のチート
けれど、その辺りの事情を上手く説明出来ずに悠利は困っていた。目の前の女性は、元気そうに見えても今にも死にそうなぐらいに重傷なのだ。当人が気にしていないだけで、身体は本当にガタが来ている。どうすればそれが伝わるだろうかと、必死に考えを巡らせる悠利だが、良い案は浮かばなかった。
「キュウ……?」
大丈夫?と言いたげにルークスが悠利を見上げる。焦っている悠利を見て心配になったのだろう。そんなルークスの頭を優しく撫でながらも、悠利は視線は女性から離さなかった。
目を離した隙に、無茶をして倒れはしないかと不安になったのだ。悠利だけではない。医者としての知見から何かを察しているニナも同じくだ。当人だけが全然解っていないという、実に面倒な状況だった。
「別に、無理や無茶はしていないよ。家事をやってるだけなんだから」
「それが駄目なんです」
「家事は重労働ですよ」
「そんなことを言われてもねぇ……」
女性の言い分に、ニナと悠利は大真面目に反論した。実際、家事は重労働だ。休みなんて存在しない、常に働き続けているような状況である。オマケにそこに乳飲み子を抱えているとなれば、いつ休んでいるのかということになる。世のお母さんは忙しいのだ。
これが、体力が完全に回復しており、出産の後遺症もないというのならば、悠利もニナも何も言わない。無理はしないでくださいね、程度の挨拶で終わっただろう。
けれど、この女性の場合はそうはいかないのだ。何とか自分達の感じている危機感を理解して貰いたいと思う悠利だった。
「こういう言い方をすると怒られるかもしれませんが、最初のお子さんを産んだときと、三人目のお子さんを産んだときでは、状況が違うと思います」
「うん?」
「貴方の年齢もそうですし、出産は回数を重ねると、それだけ母親の身体から栄養が抜けていくそうです。……赤ちゃんを育てるときに、自分の中にある栄養も分けてるんだと思います」
「……先生、そうなのかい?」
「少なくとも、回数や年齢を重ねた方は、それだけ回復が遅くなる傾向があります」
悠利の説明に半信半疑だった女性だが、ニナの説明には耳を傾ける。そこはやはり、お医者様の強さだろう。ただの少年の悠利より、医者のニナの言葉に説得力を感じるのは当然だ。
二人の言っていることが同じなので、この場合、どちらの言っていることに重きを置くかは関係ない。悠利もニナも、女性に身体を労ってほしいだけなのだから。
「解りました。なるべくゆっくり過ごすようにしますよ」
「お願いします。ご家族にも、ちゃんと伝えてくださいね」
「はい。……そっちの坊やも、心配してくれてありがとうね」
「あ、いえ。……突然割り込んですみませんでした」
二人の思いが通じたのか、女性は苦笑しながらも彼らの言い分を聞いてくれた。優しい笑顔で告げられた言葉に、悠利は頭を振ってぺこりと頭を下げた。見ず知らずの人間なのにいきなり割り込んだのは悪かったと思っているので。
けれど、間違ったことをしたとも思っていない悠利だった。産後の女性の身体は労らなければならないのだ。どれだけ医療技術が進歩したとしても、出産やその後の産褥期に亡くなる女性は後を絶たない。命を生み出すというのは、同時に命がけなのだから。
女性と別れた悠利は、ニナと一緒に診療所に向けて歩いていた。別に診療所に用事があるわけではなかったのだが、何となくニナと会話を続けているのだ。そんな悠利の足下には、ルークスがちゃんと控えている。
「ユーリくん、本当にありがとう。一緒に説得してくれて助かったわ」
「いえ、勝手なことをしてすみませんでした。……でも僕、あのお母さんが無理をして、ずっと苦しい思いをするのは嫌だったんです」
「私もよ。……どこのお母さんも強いの。出産直後だって言うのに、家事があるって動き回っちゃうのよ。でも、それで大丈夫な人と、大丈夫じゃない人がいるのよね」
「ですね」
ニナの言葉に、悠利は深く深く頷いた。実際それは事実だ。産後でも元気に動き回れる人もいれば、ぐったりとして布団の中から出られない状態の人もいる。その辺りは個人差だが、それでもやはり、大なり小なり休養は必要だ。
悠利は日本人なので、日本人の出産事情でアレコレ考えているので、この世界のそれとは少々ズレているのは事実だ。日本人は欧米人に比べて産後の回復が遅い。骨格や体格などによるのだろう。悠利は詳しい事情は知らないが、それでも解っているのは、産後の女性は労るべきだということだ。
「体力のある種族の場合は産後すぐに動き回っても大丈夫なんだけどね」
「あ、やっぱりそういうのあるんですね」
「あるわよ。特に、獣人でも狼とか虎とか熊とかの、たくましい種族はそれが顕著ね」
「……つまり、戦闘能力が高そうな種族は大丈夫ってことですか?」
「大雑把に言っちゃうとそんな感じかしら」
悠利の物凄く雑な括り方に、ニナはころころと笑いながら答えた。実際、体力のある種族というのは戦闘に秀でている場合がある。骨格が頑丈だったり、筋肉の質が違ったりするのだろう。その延長線上で、出産時の死亡リスクや産後の回復力の違いなどもあるのだという。自然界は厳しい。
「そういえば、ユーリくん、いつも誰かの体調を鑑定してるの?」
「え?してないですよ。ただ、物凄く具合が悪い人とかの場合は、勝手に解っちゃうんですよねー」
「……鑑定ってそういう
「レベルによるのかもしれませんねー。僕、そこそこのレベルなのでー」
ニナの疑問に、悠利はへろろんと笑いながら答えた。上手に取り繕えて良かったと思っている。あくまでも自然な流れで返事が出来たと自画自賛している悠利だった。
まさか、所持
「うふふ。そうね。ユーリくんはアリーさんのお墨付きだものね」
「恐れ入ります」
そんな悠利の誤魔化しがちゃんと通用したのか、ニナはくすくすと楽しそうに笑っていた。彼女が口にした内容は確かに事実だった。悠利の能力はアリーのお墨付きだ。むしろ、
「
「そうですね。色々と便利ですし」
「その調子で、仲間の皆さんの体調不良も見抜いてちょうだいね?」
「そのときは、診療所まで連れて行きますねー」
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
ぺこり、ぺこり、とお互いに頭を深々と下げるニナと悠利。次の瞬間、二人揃って破顔した。ちょっとお茶目なニナ先生は、癒やしキャラだった。
「そうそう、今度また、健康診断のお手伝いをお願いしても良いかしら?」
「僕でよければ、喜んで」
「前回、とても助かったの。それに、ユーリくんに言われると皆、罪悪感を抱くみたいなのよ」
「…………罪悪感とは?」
「何だか、子供を虐めているみたいな気分になるらしいわよ」
「?」
くすくすと笑うニナに、悠利は意味が解らずにこてんと首を傾げた。実は、童顔で小柄、年齢よりも幼く見える悠利の性質が上手に作用しているのだ。幼い子供に「ちゃんと診察受けてくださいね?」とお願いされると、拒否する自分が大人げない気分になるらしい。棚ぼただった。
次の健康診断を手伝うことも約束して、悠利は診療所にたどり着く前にニナと別れた。ルークスと一緒に街のお散歩の続きだ。天気の良い日に主従で仲良く散歩をするのは、彼らのとてもとても楽しい時間だったので。
後日、「お母さんを休ませてくれてありがとう」という言葉が、女性の長女からニナに届けられた。家族が何を言っても聞いてくれなかったお母さんを、彼女達はとても心配していたのだという。その話をニナから聞かされて、人助けが出来たなぁと嬉しく思う悠利なのでした。
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