夏バテさんには、経口補水液を。

「……大丈夫?」


 悠利ゆうりの問い掛けに、彼女は答えなかった。

 ばったりと廊下に倒れているのは、長い水色の髪をした女性だった。うつぶせに突っ伏しているので顔は見えないが、涼しげな薄紅色のサンドレスから伸びる手足は真っ白で綺麗だった。微塵も日焼けしていない綺麗な肌だ。とても冒険者とは思えない。

 だがしかし、悠利にとってはそんなことはどうでも良かった。眼前の相手が色白なのは今更だし、日焼けしない体質なのも知っている。そんなことより何より、廊下で倒れていることの方が重要だった。全然返事が無いので、仕方なく悠利は最終手段に出ることにした。手にしていた学生鞄から水筒を取り出して、中身のハーブ水を眼前の女性にぶっかける。

 一気にばしゃっとかけるのではなく、身体全体に行き渡るようにとぽぽぽとかけてやれば、ぴくりと白い指先が反応した。それに気付くと、悠利は空っぽになった水筒を鞄に片付けて、新しい水筒を取り出して同じことを繰り返した。

 合計三本分のハーブ水をぶっかけ終わったところで、むくりと女性の上半身が動いた。のろのろとした動作ではあるが、作り物めいた綺麗な顔が、悠利を見上げる。

 そして。


「……飲む分もくださいな」

「はいはい」


 震える指先を伸ばして、悠利に水をねだった。悠利は普通の態度で新しい水筒を渡す。ずぶ濡れになっているところは、両者共に右から左にスルーだった。彼女は血の気を失ったような真っ白な指で水筒を受けとると、こくこくとその中身を飲みほす。よほど喉が渇いていたのか、そこそこ大きな水筒が一気に空っぽになった。

 たっぷりのハーブ水を飲み干して人心地ついたのか、彼女はふぅ、と小さく息を吐いた。そうしていると、年齢相応にあどけなく見える。背丈は高く手足は長いが、ほっそりと華奢で、顔立ちから判断するならば、10代の半ばから後半ぐらいに見える。実際に彼女の年齢は17歳と悠利と同じなので、外見から受ける印象は間違っていない。


「イレイス、また行き倒れてたの?水分補給はちゃんとしないとダメだよ?特に君は」

「……解っていますわ。解っていますけど……」

「うん?」

「補給しても補給しても追いつかないのですもの……」


 さめざめと少女は泣いた。じわりと、綺麗な群青色の瞳に涙が滲む。よしよしとその頭を撫でて、未だに上半身を起こしているだけで立ち上がろうとしない少女、イレイシアを慰める悠利であった。

 彼女は、イレイシア。愛称をイレイスと言うこの少女は、《真紅の山猫スカーレット・リンクス》の訓練生の一人だ。見た目はほっそりとした少女だし、実際腕っ節はさほど強くない彼女であるが、れっきとした冒険者だ。なお、職業ジョブは吟遊詩人という、ちょっとマイナー方向である。

 そんなイレイシアは、人間では、ない。どこからどう見ても色白の少女である彼女だが、この姿は、ちょっとした種族特有の能力を用いて人間と変わらないようにしているだけで、本来はまったく別の種族なのだ。

 その証拠に。




 気が抜けたのか、サンドレスの下から出ていた真っ白な両脚が、淡い水色の尾びれになって、びったんびったんと動いていた。




「イレイス、尾びれに戻ってるよ」

「きゃぁ!わたくしったら……!ごめんなさい、ユーリ。見苦しいところを見せてしまいましたわ」

「ううん、大丈夫。お水いる?」

「今は大丈夫ですわ」


 耳まで羞恥で真っ赤に染め上げたイレイシアは、慌てて跳ね起きると、びたんびたんと動いていた尾びれをサンドレスの下に隠すようにして座りこむ。いやいや、と言いたげに両手で顔を覆う姿は、多分、その儚く見える容貌と相まって、大変魅力的なのだろう。だがしかし、この場にいるのはそういった情緒がちっとも発達していないであろう悠利だけなので、何も芽生えることは無かった。大変勿体ない。


「人魚も大変だねぇ。夏場はやっぱり、陸地より水辺とか涼しい場所の方が良いんじゃない?」

「そんなことを言っていては、一人前の冒険者にはなれませんわ」

「でも、イレイス別に、トレジャーハンター目指してないよね?」

「吟遊詩人として、数多の物語を歌にするためには、生き抜く術は必要ですわ!」


 キリっとした顔で言い切るイレイシア、17歳。彼女は、とある縁からアリーに押し付けられた、人魚の少女だった。ちなみに、彼女が妙にお嬢様っぽい口調で喋るのは、これが彼女達の一族の方言みたいなものだかららしい。普通に喋っているつもりだそうだ。

 人魚にも色々いるので、蓮っ葉な口調の姉御系や、頼れる海の男系兄貴もいるらしい。そういう人魚さんにはあんまり会いたくないなぁ、と悠利は思っている。人魚のイメージだだ崩れである。

 なお、この世界の人魚は、通常は魚の下半身を持っている。呼吸は陸上でも水中でも出来る便利仕様。一定の年齢になれば、尾びれを足に変化させることが出来るので、普通に陸上生活を営むことも可能。とはいえ、大半の人魚は水場を離れることは無い。

 それは、彼らが、暑さに弱いからだ。一言で言ってしまえば、水分が不足するのが他の種族よりも早い。干からびるというたとえが相応しく思えるほどに、夏場の陸上など、人魚にとっては危険地帯になるのだ。

 それでも中には吟遊詩人として各地を転々とする人魚もいる。イレイシアは、そういった先達に倣って、自分も諸国を旅する吟遊詩人になりたいのだ。……水分不足で倒れる以上の、もう本当にどうしようもない欠点が彼女にはあって、そのせいで吟遊詩人として大成するのは絶望的では無いかと皆が思っているのは、公然の秘密である。


「まぁ、その話は良いや。とりあえず、脱水になってそうだから、補給しようっか」

「今、お水はいただきましたわよ?」

「それだと、水分しか補給できてないから、貧血になるかもしれないし」


 人魚にどれぐらい効果があるかは解らないけどねぇ、と呟きながら、悠利はとことこと台所に向けて歩きだす。その後ろを、ゆっくりと立ち上がったイレイシアがついて行く。人魚は全体的にほっそりとしているが背が高いので、少女のイレイシアでも悠利よりは背が高い。というかこの場合、悠利の身長が150㎝ほどで、13歳のヤックとそれほど変わらないということの方が大きいかも知れない。

 頭一つ分は悠利より背の高いイレイシアであるが、細身で華奢な印象から、威圧感はほとんど無かった。アレだ。線の細い美少女は、背が高くても威圧感なんて無いのだ。多分。

 ちなみに、すくっと立ち上がったそのときには、もう既にイレイシアはずぶ濡れでは無かった。水分は皮膚からきちんと吸収されてしまった。髪も、濡れているが、したたるようなことはない。特別製の素材を使ったサンドレスもまた、速乾性を発揮していた。……まぁ、だからこそ悠利も、廊下で水をぶっかけたのだけれど。

 ちなみに、廊下に広がっていた水滴は、お掃除中のルークスが通りかかって、綺麗に処理をしてくれた。出来るスライムは今日もお役立ちだった。

 そして、台所に向かった悠利は、おそらく微妙に脱水症状を起こしているだろうイレイシアのために、とある飲み物を作ろうとしていた。その名を、経口補水液。夏バテの時期に、脱水症状の緩和のために大活躍する水分さんである。

 ただし、悠利が作ろうとしているのは、あくまでも家庭で出来る「簡易経口補水液」でしかない。ナトリウムなどの成分は摂取できるが、カリウムは補給出来ないので、あくまでも応急処置だ。ただの水よりは良いだろう、という感じだった。


「ユーリ、何を作っていますの?」

「経口補水液って言ってね、脱水のときの水分補給に適した飲み物。あくまでも簡易だから、全部の栄養はまかなえないけどねぇ」


 必要なのは、煮沸して冷ました清潔な水。食塩、砂糖、そして味を調えるためのレモンなどの柑橘類だ。今回は、甘党のイレイシアを考慮して、レモンだけではなくオレンジも用意した。後は適切な分量で材料を全て混ぜ合わせるだけだ。水、食塩、砂糖の分量さえ間違えなければ問題ない。柑橘類はあくまでも味を調えるためのおまけである。

 大きめのピッチャーで混ぜ合わせて作った経口補水液を、悠利はグラスに注いでイレイシアに手渡した。彼女は初めて見る経口補水液を不思議そうに見つめているが、中に入っているのが何かは解っているので、気にせず口に含んだ。

 ……なお、手作りの経口補水液はあんまり美味しくない。スポーツ飲料とか市販の経口補水液はやはり、プロが試行錯誤しているので飲みやすいのだ。


「……不思議なお水ですわねぇ」

「一応オレンジとレモンで味は調整したけど、そんなに美味しくないでしょ」

「えぇ。正直に申し上げて、ユーリが用意してくれた飲み物にしては、あまり美味しくありませんわ」

「だよねぇ」


 味見をしたときに解っていたので、悠利は別に怒らなかった。イレイシアと一緒になって飲まないのは、悠利は別に脱水症状が出ていないからだ。普通の人が水分補給に飲んだら、それは栄養の取り過ぎで宜しくないのだ。汗をいっぱいかいた後とかならばまだしも、のほほんと家事をしていただけの悠利では、飲まない方が良いのだった。

 それでも、これは薬みたいなものだと考えれば、何も問題は無い。経口補水液の仕事は、脱水で失われた水分と栄養素を補給することである。薬と同じなのだから、そこまでのおいしさは求めなくて良い。せいぜい、飲みやすさぐらいだろう。

 だから悠利は、イレイシアからのざっくりとした評価を平然と受け入れている。以前、回復薬の味についてはあれこれ色々画策した悠利であるが、経口補水液の場合は、飲むのが苦痛になるほどの不味さではないので、現状維持なのだ。というか、どうやったら成分バランスを壊さずに味を調えられるのかが解らないので、そのままとも言う。

 悠利は別にプロの調理師でも科学者でもないので、そういう難しいことはちっとも解らないのである。この経口補水液の作り方だって、猛暑のときにテレビでやっていたのをたまたま見ただけだ。普段は薬局で市販のものを購入していた。


「ねぇ、ユーリ」

「何?」

「このお水、あまり美味しくはありませんけれど、元気は出ますわ」

「そう?」

「えぇ。普通のお水より、全身に染み渡る気がします。海の水にも似ていますわね」

「……お塩入ってるからかな?」

「ふふふ、かもしれませんわね」


 イレイシアの言葉に、悠利は不思議そうに首を捻った。くすくすと楽しそうに笑うイレイシア。実際に、経口補水液は普通の水よりも浸透率が良い。全身の水分が足りなかったイレイシアには、大変ありがたいものだった。けれど、彼女が感じたのはもっと感覚的な何かで、それはきっと、自分のためにわざわざ作ってくれたことに対する感謝だったりするのだろう。

 とはいえ、悠利にとってはいつもの行動であった。イレイシアもそれが解っているから、そこに特別な感情など無いと解っているから、楽しそうに笑っているのだ。当たり前みたいにそっと手をさしのべてくれる悠利の性格を、イレイシアは知っている。そんな悠利に癒やされているのは事実だった。

 《真紅の山猫スカーレット・リンクス》の面々は優しいが、やはり冒険者やそれを目指すだけあって、少々荒っぽい。一部の例外を除いて、癒やしに該当する存在はいないのである。


「あ、でも、飲み過ぎると今度は色々取り過ぎちゃうだろうから、あんまりがぶ飲みしちゃダメだよ?」

「えぇ」

「経口補水液は最後の手段で」

「はい」


 新しく差し出されたハーブ水の入ったグラスを手にして、イレイシアは微笑んだ。実に愛らしい微笑みだった。だがしかし、悠利が思ったのは彼女の美貌に関してではなく、元気になって良かったなぁ、という相変わらずの思考だった。

 余談であるが、カリウムが足りないという弱点は、異世界特有の謎果物によって解消された。その果物とは、見た目と味は柑橘系、なのに栄養素が海藻並のミネラル系ばっかりというココイという果実だ。そのため、しょっちゅう脱水寸前で倒れるイレイシアの常備飲料として、改良型経口補水液が用意されるのであった。


 ……なお、案の定素晴らしい嗅覚で察知したらしいハローズによって、これも生産ギルドにレシピ登録され、夏場のお共として販売されるのであった。

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