健康診断のお手伝いです。


「突然ごめんなさいね、ユーリくん」

「いえ、大丈夫ですよ。僕でお役に立てるなら、頑張ります」

「ありがとう」


 ふんわりと微笑むのは診療所を預かる医者のニナ。彼女が首を傾げると、頭に付いているウサギの耳がぴこぴこと揺れた。真っ白でふわふわのウサギ耳。ついつい触りたくなってしまうが、ウサギの耳は気安く触ってはいけない部分だということを小学校時代に学んでいた悠利ゆうりは、大人しくしていた。……ウサギの耳は気安く触っちゃいけません。敏感な器官であり、第二の心臓みたいな大事なパーツでもあるのです。ウサギの持ち方が耳を掴むだと思っている人、それは可愛がるための持ち方ではなく、獲物として捕まえた後の持ち方です。ご注意を。

 本日悠利は、ニナに請われて彼女の仕事に同行することになったのだ。勿論、従魔のルークスはその足下で護衛をする気満々だった。……必要があるかどうかは別として。その仕事とは、定期的な健康診断に困った人々への声かけだった。ニナが就任する前から行われているそれは、常日頃忙しく働くために診療所の予約を取るのが難しい、職人や店を経営している者達への配慮だった。病気になってから医者の世話になるのは最終手段だ。それ以前の状態で、己の身体状況を把握する方が好ましい。

 だがしかし、そういう考え方が出来るのは医療関係従事者ぐらいだろう。普通の人にとって診療所というのは、具合が悪くなったら行く場所なのだ。健康なときに向かうとか絶対に思っていないだろう。たぶん。

 そんなわけで、ニナは声かけと予約の確認をするために、職人達の工房が密集している場所や、商業区画などへ足を運ぶのだ。本日悠利を連れてきたのは、彼の鑑定能力を借りるためだった。どこかしら不調があると告げれば、大人しく健康診断に来てくれるのではないかと考えたわけである。

 ……だいたい、どこもかしこも異常無しな人間なんて、そんなにいない。日常生活に支障が無いだけで、疲労が蓄積しているのはよくあるパターンだ。あと、本人に自覚が無いだけで、元々の体質で影響が出やすいとかも。大きな病気になっていないだけで、自分が完全無欠に健康だと信じるのは愚かである。

 そうして二人は職人達が住まう工房地区にやってきた。並んで歩く彼らとすれ違う人はあまりいない。職人達は工房の中で作業をしているからだ。そんな中、工房の入り口を掃除している職人に気づいたニナが、笑顔で声をかけた。


「グルガルさん、こんにちは」

「おぉ、ニナ嬢か。こんにちは。……何じゃ、ひよっこもおったか」

「こんにちは~」


 ひよっこ呼ばわりされても、悠利は気にしていなかった。この錬金鍛冶士のグルガル親父殿の口が悪いのは今更だ。それに、御年200歳前後の山の民の親父殿からしたら、10代の人間なんてひよっこで十分だろう。ニナが嬢と呼ばれ、アリーが坊と呼ばれるのだ。悠利なんてひよっこに違いない。

 この頑固親父系の職人様も、健康診断に来ない困った人なのだろうか、と悠利はちらりと傍らのニナを見た。ニナは、いいえと言うように首を左右に振って笑った。そうして、口を開く。


「グルガルさんは、ちゃんと健康診断に来て下さる珍しい職人さんよ」

「そうなんですか」

「当たり前じゃ。こっちが行ける日時で調整して、わざわざ診察してくれるんじゃぞ。行かん方がおかしいわい」

「皆さんがそう思って下さるとありがたいんですけどね」

「ふん。人間は短命なくせに健康に対する認識が低いんじゃ」


 困ったように笑うニナに、やれやれと言いたげにグルガルはぼやいた。山の民の寿命はおよそ500年。その長さの間に、怪我や病気に見舞われることは少なくない。そんな種族だからこそ、健康には気を遣う。勿論、長命に見合うだけの頑健さは持ち合わせているが、それだけでずっと健康でいられると考えるほど愚かでは無いということだろう。

 そして、そんなグルガルの感覚からすると、人間を含む寿命が100年以下ほどの種族は、いずれも生き急いでいるように見えるらしい。短い寿命で無理をしているように映るのだとか。そこは感覚の違いなので何とも言えないが、少なくともニナの知る限り、健康診断に素直に訪れるのは長命種の人々だった。


「そうじゃ、ひよっこ」

「はい?」

「お前さん、アクセサリー職人のブライトと知り合いじゃったな?」

「はい。ブライトさんのところには時々遊びに行きますけど」

「なら、あの小童も説得しておけ。だいたいあの年代は、自分は大丈夫だと根拠もなく言いおる」


 ぶつぶつと口の中でぼやいているグルガルに、悠利は首を捻った。視線をニナに向ければ、困ったように笑っている。どうやら、ブライトは困った人に分類されるらしい。確かに若いので眠れば回復するのだろう。だからって、身体に負荷がかかっていないとは言えないのだけれど。仕方ないなぁと思いつつ、悠利は先導するニナにくっついて歩いて行った。

 グルガルの発言を受け止めたからではないのだが、出会う職人出会う職人、何らかの不調が隠れているので、悠利はそれを指摘して、ニナが説得して、健康診断にこじつけた。今すぐどうこうなるほどではないにせよ、職人というのは同じ姿勢で作業をすることが多いので、身体に負荷がかかってしまうのだ。その自覚が足りないのが困りものであった。


「ブライトさーん」

「あ?どうした、ユーリ。……と、ニナさん?」

「こんにちは。健康診断のお誘いです」

「あー……」


 笑顔のニナに、ブライトはすすっと視線を逸らした。仕事が、とか言いかけたブライトに対して、悠利はジト目で口を開いた。グルガルの忠告を受けていたので、ブライトの体調を調べてみたのだ。そうしたら、案の定。彼もまた、他の職人達と同様に身体に負担を抱えていた。


「ブライトさんアウトー」

「は?」

「あら、ダメでしたか?」

「ダメです。ダメダメです。特に腰と首と肩への負担が半端無いです。大人しく診断してもらって、適切な処置を受けるべきです。命令ですー」

「ヲイ、ユーリ、何の話だ?」

「目に見えて無くても、自覚が無くても、負荷がかかってるって話です」


 気持ちしかめっ面をして伝えてくる悠利に対して、ブライトは瞬きを繰り返している。ニナが手にした手帳の予定を確認して、この辺りでどうですか?とか聞いているのだが、ブライトは良く解っていなかった。そんなブライトのズボンの裾を、ルークスがむにーっと引っ張った。引っ張って、見上げて、何かを訴えるように無言で見つめた。


「……ユーリ、ルークスは何がしたいんだ?」

「ブライトさんが倒れたら嫌なので、大人しく健康診断受けて欲しいってことだと思いますけど」

「キュウ!」

「合ってたみたいですね」

「……いやだから、何で」

「だってルーちゃんブライトさんのこと好きですよ」

「キュキュー!」


 その通りだと言いたげにぽよんぽよんと跳ねるルークス。ね?と言いたげな顔の悠利。笑顔で手帳を見せてくるニナ。いずれも温厚なメンバーではあるが、畳み掛けるようなその姿に、ブライトは諦めたようにため息をついた。ニナの手にした手帳を見て、己の予定を振り返るように頭を掻く。


「この辺りが納期なんで、そこが終わってからでも大丈夫ですか?」

「問題ありません。……今回は来て下さるんですね?」

「……あー。……ユーリを敵に回すと面倒そうだからなぁ」


 ぼそりとブライトが呟いたのは、紛れもなく彼の本音だった。何が面倒って、背後に過保護集団がいることを彼は知っているからだ。《真紅の山猫スカーレット・リンクス》の面々だけではない。彼の知己である調香師のレオポルドがいるのは確実だ。あのオネェを敵に回すことだけはしたくないブライトだった。にこやかに微笑みながら、相手の急所を攻撃するタイプだと知っているので。

 そんなこんなではあったが、とりあえずブライトも大人しく健康診断を受けることになった。ニナは歩きながらご機嫌だった。いつもなら、「仕事がある」「元気だから問題無い」みたいな反応をしていた人々が、大人しく予約を受け入れてくれたのだ。医者として嬉しいのだろう。

 医者の本懐は、何も病人を治すことだけでは無い。病気を未然に防ぎ、健康に過ごして貰うことも重要だ。怪我や病気を治すだけではなく、健康をどうやって保つのか。そちらも重要だと思っているから、ニナは前任者から引き継いだ健康診断を続けているのだ。

 そうして最後に赴いたのは、悠利には馴染みのある大衆食堂の《木漏れ日亭》だった。え?と思っていると、隣の宿屋日暮れ亭から看板息子のアルガが走って来る。がしっとニナの手を掴むアルガに、悠利はきょとんとしているが、ニナは苦笑していた。


「こんにちは、アルガさん。……説得は不可能でしたか?」

「申し訳ない。あの頑固親父、本当に、本当に……!」

「アルガさーん、こんにちはー」

「あれ?何でユーリくんがいるんだ?」

「今日の僕はニナさんのお手伝いなのです」


 えっへんと戯けて胸を張ってみせる悠利に対して、アルガは瞬きを繰り返す。繰り返して、そして、ぽんと手を叩いた。今の今まで彼の中で、悠利が鑑定能力を持っているという事実が忘れ去られていた証明だった。アルガの中で悠利は、《真紅の山猫スカーレット・リンクス》の家事担当の料理上手な少年で、時々父親の店でご飯を食べているお客さんなのだ。……まぁ、間違っていないが。

 そんな風に暢気な会話をしていた彼らの耳に、女性の叫び声が聞こえた。《木漏れ日亭》からだ。そして声の主は、看板娘のシーラだった。


「お父さんのバカ!」


 実の父親に対してのバカ発言。アルガが頭を抱えていたが、ニナは苦笑するだけだ。とりあえずアルガは、ニナの手帳を覗き込んで、自分と母親、妹の予定を決定していく。……つまるところ、健康診断を拒絶しているのは父親であるダレイオスのみなのだろう。元冒険者のおっちゃん店主は医者嫌いなのだろうか?と悠利はぼんやりと思った。


「ユーリくん、お願いして良いかしら?」

「了解です~」


 こそっと店内を確認してみれば、客のいない状態で、娘が父親に怒鳴っている光景があった。ちなみに、シーラが必死に怒っているのに、ダレイオスは右から左に聞き流していた。お父さん強い。

 そんなダレイオスの状態をこっそり【神の瞳】で確認する悠利。確認して、盛大にため息をついた。おそらく、元々冒険者として鍛えていたし、今も自分で食材を狩りに行くような人物なので、大丈夫なのだろうと結論付けた。

 結果から言えば、何だかんだで疲労が蓄積しているので、メンテナンスが必要なのは明らか、という状態だった。当人の体力とか耐久力とかが高いので、平然としているのかもしれない。困った親父さんだった。


「こんにちはー。ダレイオスさんもアウトなので、大人しく健康診断受けてくださいー」

「ユーリくん?」

「あ?どうした、坊」

「肩、膝、それに左足首に負荷が見られます。内臓系は大丈夫そうですけど、関節とかは疲労しています~」

「はぁ?」


 呆気に取られたようなダレイオスの腕を、がしっとシーラが掴んだ。逆の腕を、いつの間にやってきたのか、アルガが掴んだ。そして二人がかりで父親を、ニナのところまで連れて行く。ニナは手帳を手にして、にっこりと微笑んでいた。ウサギのお医者様の笑顔は今日も麗しい。


「俺達の予定がここだから、親父もこの辺で」

「そうよ!ユーリくんがアウトって言うなら、大人しく受けるべきよ!」

「だから、何なんだお前ら!」

「「アリーさんの秘蔵っ子だから間違いは無い!」」

「……」


 子供達の力説に、ダレイオスは黙った。黙ってしまった。アリーの実力は知っているが、ダレイオスは悠利の能力を見たことが無い。それがどれだけ規格外かなど、知るよしも無い。だがしかし、アリーの秘蔵っ子というパワーワードは、この親父殿にも有効だったらしい。

 ……流石、《真紅の山猫スカーレット・リンクス》を束ねる凄腕の真贋士。アリーのネームバリューは強かった。

 結局、ダレイオスも珍しく素直に折れて健康診断の予約をしたらしい。思った以上に楽にすんで、ニナはほくほくだった。彼女は皆の健康を大切にしているので、健康診断に来て欲しいと常々思っていたのである。頑固な職人達も悠利の指摘で大人しくなったので、今回は本当に楽だったのだ。


「ユーリくん、今日はありがとう」

「いえいえ。皆が健康診断受けてくれて良かったですね」

「本当にね。……本当に、ありがとう」


 そう言って笑ったニナに、悠利も笑顔を返した。その足下でルークスも、キュイ!と元気よく鳴いていた。皆元気で健康が一番だ。怪我や病気を未然に防げるのならばそれに越したことは無い。そんなことを思う三人であった。

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