無性に食べたい卵かけご飯。
ある日の早朝、
それはもう、完璧なスタンバイだった。ご飯を入れる用の深めの器と、しゃもじを既に手にしているのだ。炊飯器が「ご飯炊けたよー!」とちょっとでも合図を発したら、その瞬間に蓋を開けてご飯を混ぜ、器に盛りつけるだろうこと請け合いである。
更に、台所の作業台の上には、器に卵が溶かれていた。完全に黄身と白身を混ぜるのでは無く、ほどよく白身が残るように混ぜられている。そして、そこには既に醤油が混ぜられてある。準備万端すぎた。
炊きたてのご飯と、醤油の混ざった溶き卵。しかも卵はついさっき届けられたばかりの、新鮮すぎる産みたて卵だ。この二つが揃えば何ができるか。そう、それはシンプルに両者の旨味を味わう料理、卵かけご飯である。
どうしても卵かけご飯が食べたくなった悠利が、早朝にひっそりと自分の分だけ用意をしていたのであった。
なお、《
とはいえ、今日も一日仕事に勤しむ皆に提供するようなご飯でないことも解っているので、自分の分だけなのだ。他の面々用には、パン食の朝食を既に準備している。
なら、何も今食べなくても良いじゃないかと言われるかも知れない。だがしかし、悠利は、朝に卵かけご飯を食べたかったのだ。卵かけご飯と言えば朝ご飯だ、みたいな刷り込みが存在していた。その為、いつもよりも早起きして、少量のご飯を炊飯器で用意しているのだ。…そこまでするか?と問わないで欲しい。人間、食べたいものの為には努力するのだ。…多分、日本人は。
そんなこんなの間に、炊飯器が「ご飯炊けたよ!混ぜて!混ぜて!」と訴えてきた。悠利は即座にフタを開けて混ぜる。そしてそのまま、器にご飯を盛りつける。卵かけご飯なので、そんなに山盛りにはしない。だが、少なすぎてもいけない。卵とのバランスを考えて、盛りつける。
そうして盛りつけたご飯の上へ、醤油を混ぜた溶き卵を回しかける。とろとろとした卵が、白いご飯を染め上げていく。炊きたてなので、所々火が入ったようになるのもまた、美味しそうだ。卵をかけ終わると、悠利はじっと器を見つめた。湯気を出している炊きたてのご飯。それに絡められた醤油味の生卵。しかも産みたて。これで美味しくなかったら詐欺だとさえ思う。
「いただきます」
両手を合わせて、いつも以上に神妙に呟いて、悠利はそっと器と箸を手にした。まずは一口。とろりと卵が絡んだ部分を掬い取るようにして、口へと運ぶ。炊きたて故に熱いご飯と、卵の濃厚さと醤油の旨味が調和して、口の中いっぱいに広がる。口に入れた瞬間に、悠利の顔がふにゃあという感じで溶けた。久しぶりのTHE・庶民ご飯な味わいが、実に美味しかったのである。
それに、卵かけご飯はシンプルだが、それだけに素材の味でレベルが上下するのも事実だ。この卵は本当に美味しい。よほど丁寧に育てられているのか、卵自体の旨味が濃厚で味わい深いのだ。しかも溶く時にも感じて居るのだが、卵黄の弾力が凄い。その旨味がぎゅっと凝縮されて炊きたてご飯をコーティングしている。美味しいに決まっていた。
「んー、美味しい-」
悠利は一人幸せに浸っていた。元々、食事当番は皆が来る前に朝食を食べることになっている。皆が来たら、その準備で忙しいからだ。なので、悠利がこうして一人で食事をしているのは別に、悪いことでは無い。…悪いことでは、無いのだが。
「……ユーリ、お前何やってんだ?」
本日のもう一人の食事当番、ウルグスがやってくるのを、綺麗さっぱり忘れていただけで。
口の中に卵かけご飯を頬張っていたので、悠利は首を傾げながら振り返った。そこにいたのは案の定ウルグスで、予定より早い時間に台所にいる悠利に眉間に皺を寄せている。ついで、悠利が大事そうに持っている器に視線を向けた。
ウルグスの視線に気づいた悠利は、器を大事そうに抱え込んだ。口の中にご飯が残っているので、黙っている。黙っているが、その行動は、表情も含めて、実に露骨に「僕のだからあげないよ!」という風情だった。悠利がそんな行動に出るのは珍しく、ウルグスは瞬きを繰り返す。
「別に取るつもりはねぇけど、何食ってんだ?」
「
「……口の中無くなってからで良いから」
呆れたようなウルグスにこくりと頷くと、悠利はとりあえず口の中にある分を咀嚼した。味わって、しっかりと味わって、良く噛んでから、飲み込むのだ。そうでなければ勿体ない。卵とご飯の旨味を味わうからこその卵かけご飯だと勝手に思っているので。
そうしてとりあえず食べ終わってから、悠利は器を作業台において、ウルグスに向き直った。…本音を言えば、まだ温かい卵かけご飯を堪能したいのだが、流石にそれをすると怒られそうだったので。
「僕が食べてたのは、卵かけご飯だよ。ライスに溶いた生卵をかけて一緒に食べる料理」
「…は?それ料理か?」
「料理だよ」
料理とは思えないあまりにもシンプルな手順に、ウルグスの口から疑問が零れた。だがしかし、悠利は真顔で言い切った。卵かけご飯は料理だと信じて疑わない。例えその手順が簡単だろうと、だからこそ素材の味が勝負の決め手になる料理だと信じて疑わない。
……久しぶりの卵かけご飯で、しかも炊きたてご飯と産みたて卵で、悠利のテンションはちょっとおかしかった。え?いつもおかしい?……ナンノコトカナ-?
「美味いのか?」
「卵が美味しいから、すごく美味しいよ」
「……」
「まだ炊飯器にライス残ってるから、ウルグスも食べるなら、朝ご飯これにしたら?」
「する」
未知の料理だろうが、料理とは思えないぐらいに単純な作りだろうが、目の前で美味しそうに食べられては、食べたくなるのが常である。ウルグスの決断は早かった。……なお、ウルグスはこれでそこそこ裕福な家庭で育ったお坊ちゃまなので、こんな手抜き前提みたいな庶民飯に縁などなかった。
さっそく器にご飯を盛りつけようとしたウルグスを、悠利が手を掴んで止めた。ご飯を盛りつける前に、卵を準備するべきである。卵かけご飯の作り方は人それぞれこだわりがあるだろうが、悠利の作り方は、あらかじめ卵を溶いて醤油を混ぜておくことにある。人によっては卵をご飯にかけてから醤油を垂らしたりするようだが。
なお、悠利がその方法で作っているのは、醤油の味がまんべんなく卵に混ざることと、醤油が直接ご飯にかからないようにするためだ。ただ醤油を吸っただけのご飯は辛くて食べたくない。求めているのはそれじゃない、になってしまうので。
「先に、卵を一個割って、溶いて、醤油で味付けしてからだよ」
「お、おう?」
「それができたら、器に多くなりすぎないようにライスを入れて、卵をかけて出来上がりだよ」
「…解った」
妙に真面目に説明されたので、ウルグスも真面目に答えた。ウルグスが卵を用意するのを見てから、悠利は自分の卵かけご飯に戻った。まだほかほかなので、実に美味しい。とても美味しい。欲を言えば鰹節が欲しくなるのだが、生憎王都には売っていなかった。もしかしたら港町には売っているのかも知れない。今度ハローズさんに聞いてみよう、と悠利は思った。
鰹節が手に入ったなら、色々と料理のアクセントに使える。葉物野菜でおひたしを作ったときも、鰹節を散らすと何となく美味しそうに見える。それに、鰹節はあれで魚なので、栄養も豊富である。出汁を取るのに適した鰹節が見つかったら、美味しい出汁であっさりとしたすまし汁とかも作れそうだ。夢が膨らむ悠利であった。
さて、そんな物思いにふける悠利の隣で、ウルグスも未知の味、卵かけご飯に挑戦していた。醤油はあまり入れれば辛くなることぐらいは解っているので、ほどほどに。ご飯の量も、悠利に言われたのでちょっと控えめに。…万年欠食児童の彼にしてみれば、もうちょっと入れたかったのだが、「美味しくないよ?」と真顔で言われては、従わざるを得なかった。何ならお代わりすれば良いのだ。…ご飯はもう少ししか残っていなかったが。
箸を使うのが苦手なウルグスは、スプーンで卵かけご飯を掬った。…この世界、箸もシルバー三点セットも、どちらも普通に浸透してるのだが、よく使う食器はそれぞれの層によって異なっていた。有り体に言えば、そこそこ富裕層になると、シルバー三点セットがメインになる。貧乏人は箸とスプーンぐらいしか持っていないのだ。そして、お貴族様とかの身分が高いヒトになると、どちらも完璧に使える。
そんなわけで、箸が苦手なウルグスはスプーンで食べているのだが、流石に未知の味を最初に食べるのだから、ちょっとしか乗せなかった。それを口の中に入れて、じんわりと広がるご飯の甘み、卵の旨味、醤油の味わいを堪能して、呆気に取られたように呟いた。
「…美味い」
まさにそれが真理であった。手間暇をかけたわけでも無い、ただただご飯に卵をかけただけの料理が、何故こんなに美味しいのか、ウルグスには解らなかった。解らなかったが、この味はダメだとすら思った。スプーンが止まらないのだ。次から次へと食べたくなる。妙に癖になる味だった。
ウルグスがガツガツとかき込むように卵かけご飯を食べている横で、既に食べ終わった悠利ははふーと温かいお茶を飲んでいた。本日のお茶はほうじ茶である。煎茶は入れるのが難しいし、苦いと皆に不評なので、ほうじ茶にしている。元は同じ茶葉だと伝えても、8割が信じてくれなかった。解せぬ。
「…ユーリ」
「お代わり禁止」
「何で!?」
残っているご飯を使ってお代わりをしようとしたウルグスは、にっこり笑顔の悠利に止められて思わず叫んだ。早朝だということを思い出してすぐに口を塞いだが。
そんなウルグスに向けて、悠利はさらっと答えを告げた。
「だって、お代わりするって事は、卵もう一個食べるって事でしょ?朝に卵二個食べちゃったら、もう今日一日卵無理だよ」
「は?」
「卵は栄養価高いけど、取り過ぎるとダメだと思うんだよね~。体質によって違うと思うけど。あと、昼とか夜にも卵使いたいし、そもそもおやつ作る時に使うし、これでおしまい」
「横暴!」
「違うよー。ウルグスの健康を気遣ってるだけだよー」
ちくしょうと呻きながらも、悠利に逆らわないウルグス。逆らわないのは、逆らったら今後の食事が大変なことになるのが解っているからだ。それでも、卵かけご飯が美味しかったので、未練がましく炊飯器を見ていた。…どうやら、シンプルな庶民飯は、お坊ちゃまの口にも合ったらしい。
後日、別の見習いが悠利と一緒に卵かけご飯を朝食の賄いに食べる姿が、時折目撃されることになるのだった。
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