おくすりは

姉川正義

第1話

「いやだ! やだやだやだ、絶対飲まないっ!」

 子どもが薬を嫌がって駄々をこねている。小学校に上がって間もないくらいだろうか、小さな男の子だ。目にいっぱいの涙を湛え、への字に口を曲げてかたくなに足元を睨んでいた。

「困ったわねえ」

 計量カップを手にした母親が溜め息をついた。

 カップの中身は8ミリリットル。たったこれだけのものを飲ますのに、どうしてこんなに苦労しなければいけないのだろうか。

「これだけ、ほんの一口よ」

「い、や、だっ!」

 声に合わせて、ダン、ダン、ダンッと片足が床を踏んだ。

「こらっ、お父さんが怒るよ、そんなことしたら」

「怒らないもん、お父さん絶対に怒らないもん!」

 あまりに威厳のない父親というのも困りものかも知れない。子どものために自分の身を犠牲にしてくれる、やさしい父親なのだけれど。

 子どももきっと、そのことは分かっているのだけれど。

 それとこれとは別問題なのだろう。

「どうしてそんなに嫌なの? 甘いよ、ほら」

「まずいからじゃないもんっ」

「じゃあどうして?」

 抵抗する理由を述べよ。忍耐強い母親も流石に苛立ちを声に乗せ始める。

 問われると子どもが逡巡するような表情を見せた。目が泳ぎ、口が何度も小さく開いては閉じる。何かあるな、と分かった。

「どうしたの? お母さんに言ってみて」

 大丈夫かな。言っても笑われないかな。

 子どもは母親をちらりと見て、それからもう一度目をそらして、言った。

「学校で、習ったから」

「何を?」

「『おくすりは、くすりくすりとわらいます』って……」

「まぁあ! そんなこと!」

 やっぱり馬鹿にされた。だから言いたくなかったんだ。自棄になって子どもは怒鳴った。

「だってくすりくすりと笑うんだよ!? そんな気持ち悪いもの飲みたくない!」

 笑いを堪えながら母親は薬のボトルを指差した。

「ねえ、見て。大丈夫よそんなことないでしょう? 笑ってるように見える?」

「お腹の中で笑うかも知れない! 気持ち悪い!」

 どれだけなだめすかしても子どもは薬を飲まず、泣き喚き疲れて眠ってしまった。

「よいしょ……っと。すっかり重くなったわねえ。私ひとりじゃベッドに運ぶのも大変」

 キッチンに戻り、夫に愚痴を零す。

「あなたは手伝ってくれないんだから、もう」

 テーブルの上に出したままのプラスチックのボトルを爪の先で弾く。甘いオレンジ色のシロップが少し揺れた。

「おくすりは、くすりくすりと笑うから嫌なんですって」

 子どもというのは可笑しなことを言うものだ。

「くすりくすりなんて笑ったこと、ないわよねえ? 一度も」

 全くもってしょうがない。夫も子どもも。

「そういえば私、あなたが笑ったとこ見たことない気がするわ」

 ボトルの中の夫は何も答えない。

 笑った顔には見えない。

 子どものために自分の身を犠牲にしてくれた、優しい父親なのだけれど。


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おくすりは 姉川正義 @anegawamsjs

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