恋に気づく瞬間 2

 どうしてあの女性は眞澄くんの名前を知っていたのだろう。気になって仕方ない。

 ごはんを食べていても、ポップコーンを選んでいても、それが引っかかっていた。だけど眞澄くんに尋ねる勇気はなくて、無言で横顔を盗み見る。そして唇が目に留まるとまた今朝の夢を思い出して混乱することを繰り返していた。


「さっきから何を気にしてんだ?」

 上映が始まるより少し早めに座席についたら、そう切り出されてしまった。散々怪しげな態度でいたので仕方ない。

 言い澱んでいると、大きな手が私のそれを握った。


「さっきぶつかったひとなら、初めて会ったから何で俺の名前を知ってたかはわからない」

 小さくため息をついて長い足を組む。

「……ごめんなさい」

 眞澄くんを不機嫌にさせてしまった。自業自得とはいえ落ち込んでしまう。


「謝るなよ」

 薄暗い空間で目を眇めて少し困ったような微笑を唇の端に浮かべた眞澄くんは、頭をぽんぽんと撫でてくれた。

「みさきが俺を呼んでるのでも聞いてたんだろ」


 大きな掌が私の頬に添えられて、強引に彼と正面から見つめ合うことになった。野性味のある双眸、通った鼻筋、そして形の良い唇がまた目に入って慌てふためく。


「今日はずっとそうしてるけど、俺の顔がどうかしたか?」

 夜の闇より深い色の瞳にまっすぐに見つめられて、呼吸も上手くできなくなる。気づかれていたことも恥ずかしい。思わず全身で逃れようとしてしまったけれど許してくれなかった。それどころか、反対側の二の腕を引き寄せられてさらに距離が縮んでしまう。


「怖がらないでくれよ。悪いことしてる気になる」

 近くなる吐息に、唇が触れ合う予感がした。ぎゅっと目と唇を閉じる。


「こんなに早くまた会えるなんて」

 頭上から降ってきた声にぎょっとして目を見開き、顔を上げる。

 薄暗いシアター内で、さっき出会ったわたあめのような女性がふんわりと微笑んでいた。

「運命、かしら?」


 私のことなど眼中にないみたいで、絡みつくようにねっとりとした声音と甘い香りを漂わせながら空いている眞澄くんの隣の席に腰を下ろす。

 彼女の動きを目で追っていたけれど今の私たちの状況を思い出して狼狽えた。


「……申し訳ありませんが、取り込み中なんで」

 眞澄くんの視線は私からちらりとも動かない。

「行くぞ」

 痛いくらい手を握られ席を立つ。無言の眞澄くんの背中から怒気を感じていた。だけど足は勝手に動いて彼について行く。これから開始する映画を見ようと集まる人の波に逆行する。


 人気のない死角へ連れて来られると、眞澄くんに強く抱擁された。

「ま、眞澄……くん?」

 腰から臀部へ撫で下りてくる手。耳朶を食む唇。荒い吐息。全部私の知らない眞澄くんだ。


「みさき」

 今度こそ唇にキスをされる。そう思ったとき、私の中で何かが薄いガラスの割れるような音を立てた気がした。


 漆黒の双眸に射抜かれて全身がすくむ。私の額に眞澄くんの烏の濡れ羽色の前髪が触れた。固く結んだ唇に柔らかい何かが触れたのはほんの一瞬だった。身体中の力が抜けてしまい、立っていられなくなる。

 冷たい金属の壁に背中を預けるとそのままずるずると座り込んでしまう。顔を上げることができなくて、眞澄くんのスニーカーの爪先を呆然と見つめていた。


 眞澄くんと、キスをしてしまった。


 しゃがみ込んで同じ目線になった眞澄くんは、何も言わず親指で私の顎を上げた。呆然としているうちにまた唇が重なり、今度は彼の舌が私の歯列を割って口腔内に侵入してくる。思わず全力で眞澄くんの逞しい胸板を突き飛ばしていた。だけど唇が離れただけで、眞澄くんはびくともしていない。


「いっ、い、今の……何?」

 舌の絡み合う感覚がまだ残っている。いけないことのような気がして、立ち上がってから口元を手で覆った。

「何って、キスだよ」

「だって……っ」


「大人のキスはこうするんだ」

 ゆっくり膝を伸ばした眞澄くんは、狼のような両眼で私を追い詰める。


「みさきがヤキモチなんて焼くから、止まらなくなった」

 精悍な身体が覆い被さるように抱き締められる。適度に鍛えられた大胸筋に顔を埋める体勢になった。


「……好きだよ、みさき」


 鼓膜を揺らす凛々しくも甘美な声に抵抗する力を失ってしまう。

「ズルい……」

「何とでも」

 額、頬と眞澄くんの柔らかいキスが落ちてくる。そしてもう一度、唇を奪われた。



 客席に戻るとあの女性はいなくなっていた。冒頭を見逃した映画を見たけれど、ちっとも内容が頭に入ってこなかった。ずっと繋いだままの手が、何度も触れ合ってしまった唇が気になって仕方なかった。そのことをわかっているのか、眞澄くんは意地悪に、悩ましげに指先で私の手を弄ぶ。何故だか私もそれを振りほどけずにいた。


 劇場から出るときにようやく決心がついた。

「今日ね、夢を見ちゃって」

 いつものふたりの距離に戻っていた。触れるか触れないか、微妙な距離を保って並んで歩く。


「どんな?」

「眞澄くんと……その……、キスする夢……」

 それで眞澄くんは合点がいったという表情になって、すぐに真っ赤になった。


「あんな態度取ってないで、さっさと言えば良いだろ……」

「だって恥ずかしくて……」

 言えなかったせいで正夢にしてしまったとも言える。眞澄くんは長く息を吐いて前髪を掻き上げた。


「良いか?俺以外の男の前で、絶対にあんな顔見せるなよ?」

「そんなに変な顔してた?」

「そうじゃなくて……」

 ガックリと項垂れた眞澄くんをどうしたのだろうと思いながら眺めていると、不意に肩を抱かれて引き寄せられた。そのまま背中から抱き締められる。


「俺しか知らないみさきだから」

 低く甘い囁きが耳殻をなぞった。

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