眞澄ルート 第1章

恋に気づく瞬間 1

 大きな手が私の耳の後ろを撫でる。

「眞澄……くん?」

 心臓がどくん、どくんと大きな音を立てている。

 妖艶に輝く漆黒の双眸から目が離せない。息を飲んだ次の瞬間、唇に眞澄くんのそれが重なる。それは多分一瞬のことだったのに、とても長い時間に感じた。体温と柔らかさに安心してゆっくり目を閉じる。

 私は――――。



 パチリと目を開くと、視界に入ってきたのは白い天井だった。こんなにじっくり天井を眺めたのは初めてかもしれない。


 夢だった。


 どうしてこんな夢を見たのだろうと大きなため息をついてから、寝返りを打とうとした。その時布団に重みを感じて少し身体を起こしてそちらを見ると、いつも通りみやびちゃんが丸まって眠っている。


 今日はゴールデンウィーク初日でお休みだし、時計は見ていないけれど、きっとまだ早い時間だからもう少し眠ろうと思うのに、目が冴えてしまった。抗うようにぎゅっと目を閉じていると、ドアがノックされた。


「みさき、朝飯できてるぞー」

 扉の向こうに眞澄くんがいる。勢い良く掛け布団を捲って起き上がった。巻き込まれたみやびちゃんが華麗に床に着地する。

「何事?」

「えっ!あ……。ごめんね」


 みやびちゃんに謝ったあと、ドアの向こうの眞澄くんへ届くように大きな声を出した。

「お、起きてるよ!」

「りょーかい」

 声を聞いただけなのに、眞澄くんがちょっとだけ苦笑いしている姿が思い浮かぶ。


「みさき?」

 みやびちゃんに呼ばれたのでそちらを向く。

「顔、真っ赤よ」

 言われて慌てて頬を掌で隠す。あんな夢を見たせいだ。照れ隠しに暴れたい気持ちになってシーツの上を転がり回った。


「どうしたの?」

 完全に挙動不審なひとだ。はあ、とため息をつきながらベッドを押して身体を持ち上げる。

「……夢を見ちゃって」

「何の?」

 みやびちゃんがちょっと首を傾げる。その仕草が堪らなくかわいい。


「みやびちゃーん」

 ベッドから飛び降りてぎゅっと黒い猫を抱き締めた。

「何なの……?」



「みさき」

 脱衣所で汚れた衣類や濡れたタオルを洗濯機に入れていると、眞澄くんがすぐ後ろに立った。それだけなのに心臓が口から飛び出てきそうなほどびっくりする。


「な、何?」

 平静を装いたかったのに、明らかにおかしい態度で振り返ってしまう。目が合った眞澄くんも一瞬だけど不審そうな表情になった。でもすぐに唇の端に笑みを浮かべてくれる。

「一緒に買い物行かないか?」


 こくりと頷くと、眞澄くんのオオカミのような鋭さのある端正な面が、くしゃっとした笑顔になった。その様子にまた胸の辺りが苦しくなる。


「どこに行く?」

 私がどきどきしていることに気づかない眞澄くんが隣に立って、かごの中の汚れものを洗濯機に移す作業を手伝ってくれる。男性5人分に私のものもあるのでなかなかの量があった。1回では終わりそうもない。


「何を買うの?」

「あ……その、買い物じゃなくてもいいんだ。映画でも……何でも」

 語尾が小さくなっていくのでどうしたのだろうと横顔を見上げると、精悍な頬に赤みが射して、照れているのだとわかる。デートに誘われているとようやく気がついた。


「じゃ、じゃあ、映画に……」

 私もどんどん声が小さくなってしまう。並んだまま、お互い黙って俯いてしまった。


 しばしの沈黙。どうしよう、どうしようと混乱しながら横目でちらりと眞澄くんを覗き見する。視界に飛び込んできた端正な唇に、今朝の夢を思い出して脳が蒸気を噴射してしまった。それを皮切りに、これまで眞澄くんとの間のできことの反芻が始まる。


「みさき?」

 眞澄くんの心配そうな声が聞こえるのに、溢れだした記憶の洪水が収まる気配はない。

「どうした?真っ赤だぞ」

 目の前にひょいと現れた漆黒の双眸で、卒倒しそうなぐらいに驚いてしまう。声も出せずにいると大きな手が私の前髪を押し上げ、彼の額が優しく触れる。


「熱ではないな……」

 そう呟いた唇から目を反らせない。私の視線に気づいた黒曜石のような深い色をした瞳が少し困ったように、柔らかく細められる。

「さっさと終わらせようぜ」

 一歩退いてから、何も言わないでこくりと頷いた。




 映画館は最寄り駅から一駅電車に乗ったところにある。

 見たい映画のチケットを買って、上映までの時間にお昼ごはんを食べようと定食屋さんへ行くことにした。休日なので混んでいて、用紙に名前を書いて順番待ちをする。


 待っている間、すぐ向かいにあるゲームセンターで少し遊ぼうと歩きはじめたとき、眞澄くんに横から女性が勢い良くぶつかった。その人は倒れて尻餅をついてしまう。

「ごめんなさい。大丈夫ですか?」

 眞澄くんがその人を振り向いて手を差し伸べる。


「とんでもないです……。私こそ、よそ見をしていて」

 私もそちらを振り向く。おっとりとした口調でかわいいのに色気のある声をした女性は、容姿もわたあめのように愛らしかった。襟ぐりの大きく開いた服からはたわわに実った乳房がこぼれ落ちそうだ。


「ありがとうございます」

 女性が眞澄くんの手を掴んで立ち上がる。ヒールの高い靴を履いていたせいか、彼女は眞澄くんの胸によろけて抱きつくような格好になった。


 おもしろくない。ムッとして、モヤモヤしてしまう。

 眞澄くんの腕の中にいる女性が、私を見て小さく嗤った気がした。

「ご迷惑をおかけしました」


 頭を下げる眞澄くんに対して彼女はちょこんと首を傾けて微笑む。花の香水の甘い余韻を残すように掌は彼の胸板に触れたままだ。

 嫌だ、イヤだ、早く離れて。どす黒い靄もやのようなものが私の中でとぐろを巻き始める。


「また会いましょうね、ますみクン」

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