魔性

睦月ジューゴ

燃えるような愛とはよくいったものである


 あまりにも突然のことでしたから、僕はたいそう驚いたのです。悲鳴。盛る炎。火だるまになり、手足をもがれた蟲のように、床を転げまわる兄。僕は呆気にとられて唯々、黙って見ていることしかできませんでした。燃える兄の匂いが鼻孔をくすぐり、ちらつく炎が網膜を焼きました。僕はこの光景を一生忘れないことでしょう。やがて声を聞いた母がやってきて、水を掛け、救急車を呼びました。

 この事件は、兄弟二人の火遊びとして処理され、兄の顔に残った傷痕だけがその出来事を記憶しているのみでした。忘れ去られるべき事故でした。


「兄さん、起きられるかい」

 僕は床に臥せている兄の細い身体を布団から抱き起こします。紺色の麻の浴衣と布団の衣擦れ、ひゅう、と兄の喉から呼気が漏れました。冬の冷気が戸の隙間から滑り込んで来て、彼はごほごほと咳をします。僕は畳に膝をついて、びくびくと動く背を摩ります。背骨の突起が薄い皮膚越しに刺さりますが、気にはなりません。

「落ち着いたかい?」

 僕が声をかけると、兄はケロイドに半分覆われた顔を歪めてまだ空咳をしていましたが、小さく頷きました。

「白湯が、あるから」

 ゆっくり飲んでね、と湯呑を兄の口元にあてがいます。彼の細い喉がぐびりと動いて白湯を飲み込むのを見ながら、僕はぼんやりと、兄の蒼白な顔貌を眺めていました。醜い顔でした。

僕が醜い兄の世話を、下から何からすることを、両親はひどく嫌がりましたが、まともに動けなくなった兄の世話をすることは僕にとって悦びでした。兄を見るたびに、僕はあの事故を思い出します。兄の燃えた日のことを。僕は、兄の燃える匂いに興奮したのです。どうしようもなく。醜く溶けた顔が愛おしいのです。狂おしく。人生を狂わせてしまった兄に対する同情でしょうか。か弱い存在に対する慈しみでしょうか。僕は兄を愛しています。疑いようもなく、至誠なる愛を注いでいます。両親は醜くなった兄を見捨てましたが、僕だけは違います。僕だけが兄を愛しています。兄の世界には僕だけしかいません。

けれども、本当は、彼の世話をしているだけでは、物足りないのです。兄の傷跡に触れて、回想するだけでは、どうしても足りないのです。ごみを燃やしても、草木を燃やしても、猫を燃やしても、建物を燃やしても、女児を燃やしても、兄の匂いとは違うのです。……気が狂いそうでした。たった一度の、兄の匂いに、僕は、正気を失おうとしていました。

そんな、ある夜更けのことでした。厠へ行こうと兄の部屋の前を通った時、ぱちり、ぱちり、と物音が聞こえました。いぶかしんで、襖を開くと、兄が自分で起き上がり、爪を切っていました。

「兄さ……」

「知っていたさ」

 喉まで焼けた、しゃがれた声で兄は言いました。そして、どこから手に入れたのでしょう、灰皿に切った爪をぱらぱらと落とすと、それにマッチで火を付けました。

「ほら、おれが燃える匂いがするよ」

 僕は揺らめく燐の火に、ごくりと唾を呑みこみました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔性 睦月ジューゴ @eeesperancaaa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る