夢宵桜(三)
白妙は着替えをすませ、有仁の姿を探したが、家の中には見当たらなかった。
有仁が何も言わずにふらりと家を空けることはままあることだが、待っていてと言ったのに、と白妙は頬を膨らませる。
以前は有仁の居場所に心当たりなどなかったが――今はひとつだけ、知っている。
もう癖になってしまっているのだろうか、鍛錬に行くわけでもないのに、白妙は肩に弓をかけ小走りでそこへ向かっていた。武の一族の者はいつも武器を肌身離さず持っている。白妙の場合、母の形見の懐剣を持ち歩いているが、馴染みがあるのは弓だ。
「有仁? いるんでしょう?」
弓の訓練場の奥、草木の茂るあたりに潜り込んでみるが、有仁の姿は見当たらない。他にもひとりでいられるような場所を見つけているんだろうか、と白妙は首を傾げた。
「……白妙?」
探していた人の小さな声に、白妙は振り返る。ちょうど白妙がやってきた方から、有仁がこちらを見ていた。探しに来たはずだったのだが、白妙の方が先に着いてしまったらしい。
「有仁! もう、朝餉も食べずに行っちゃうんだから。朝はきちんと食べないと駄目だよ。ほら、おにぎり持ってきたから」
白妙はそう叱りながら、急ごしらえで作ったおにぎりを差し出す。有仁の黒い瞳が差し出された包みをじっと見つめた。
「……食欲ない」
「私が寝ている間に何か食べたの? それなら、これはお昼にすればいいよ。もう少しでちょうどいい時間だもの」
それでも受け取る気配のない有仁に、白妙はこっそりとため息を零す。十四歳の男の子にしては、有仁は華奢すぎる。武の里の男たちが大柄だからそう感じるだけかもしれないが、あまりにも儚げで、白妙はあれこれと有仁に食べさせることに一生懸命だった。持ってきたおにぎりも、二人分はある。
「そういえば有仁、まだ山の中は詳しくないよね? 私が案内してあげるよ」
強引に白妙が切り出すと、有仁はあからさまに困惑した顔を見せる。
「え、別に必要な……」
「いいから!」
言うが早いか、白妙は有仁の手を引いて山を駆け始めた。秋に葉を落とし、冬には寒々しかった山の木々も、今は若葉を茂らせている。頭上も足元にも新たな
「あの小川の向こうは、
走りながら、白妙は少し遠くに見える小川を指差した。有仁もつられるようにして同じ方向を見つめて、きらきらと光る水面を見つける。
「あともっと上の方に行くと
「……知らない」
「じゃあ、夢占とは繋がりがなかったのかな。うちの里にいる犬も、もとはそこの犬だよ。狩りに一緒に行く子とか、番犬とか。あ、向こうにはね、
白妙は獣道のような、足元の悪い道を軽快に走りながら、あちらこちらを指差して一方的に話していた。有仁は白妙に手を引かれてついていくのに精一杯で、途中から白妙の話も半分くらいしか聞けていない。
息も切れ切れの有仁に対して、白妙はまったく平気だった。
はらりはらりと、風に乗って白い花びらが舞い落ちてくる。疲れ果て地面ばかりを見ていた有仁は、花びらを見つけて顔をあげた。
「ここが最後」
白妙が大きな山桜を背に、ふんわりと笑う。
空を覆うほどに大きな山桜が、堂々と咲き誇っていた。淡い春の青空が、その薄桃色をうつくしく彩り、周囲の新緑が山桜と共に春を告げている。
「大きいよねぇ。知ってる? 里からも見えるんだよ。この桜の下で、私は母様に拾われたんだ」
白妙は山桜を見上げて、どこか遠いところへ思いを馳せるように呟いた。その横顔を見つめながら、有仁は手をぎゅっと握る。先程まで有仁を強く引っ張っていた白妙の手が、何故か急に小さく感じた。
「私はここで『白妙』になったんだ」
有仁は何も言わなかった。見上げるとそこには一面に薄桃色が広がっていて、視界のすべてに霞みがかったように感じる。
「……お腹減ったね、ここでお花見しながらおにぎり食べようか」
白妙が持ってきた包みを持ち上げながら微笑んだ。有仁もあちこち動き回ったせいで、いつも以上にお腹が空いている。
「桜、あともう少しで満開だね。今のままでもすごく綺麗だけど」
遠目には既に満開と言ってもいいほどだが、こうして根元で座り見上げると、ちらほらとまだ蕾があるのが分かる。
「あと数日で、全部咲くよ」
何気ない呟きだったが、有仁が応えてくれるので白妙はうれしくなった。最近ではこういうささいな会話も増えた。出来ればもう少し、有仁が他の里の人間と馴染んでくれるといいのだけど、と白妙は策を巡らせている。
傍らに感じるぬくもりが、やさしい。
こんな風に、山桜の下で、誰かと寄り添いながら過ごしたことがあった気がする。そう、話している途中で白妙は眠ってしまったのだ。
母を亡くして、悲しくて悲しくて仕方なかった時。ここで、大声で泣いていた。泣きたくないのに、涙が止まらなくてどうしようもなくて。誰にも泣き顔を見せたくなくて、ひとりで、夜に泣いていた。
『泣くことは、弱さなのか?』
『……ちがうの?』
問いかけてきた少年は、誰だったのだろう。
桜の精だったのかしら、などと幼い自分は思った。けれど、本当にそうだったのだろうか?
白妙の唇が誰かの名前を紡ごうとして――そして、目が覚めた。満腹になって、ついうとうととしてしまったらしい。有仁の肩を枕にして眠っていたようだ。
「白妙? 起きた?」
顔をあげると、綺麗な有仁の顔がすぐ近くにあった。低い声は寝起きの頭に心地よく響く。そうだ、あの時の少年も、綺麗な顔立ちをしていた。有仁のように。
「……ねぇ、有仁」
ぼんやりとした頭のままで、白妙の口は勝手に動きだしていた。
「わたし、有仁に会ったことある……?」
懐かしい、と思うことがたびたびあった。初めて会った気がしなかった。有仁はやさしく、あたたかく、白妙の隣にいるのが遥か昔から決まっていたことのように、傍にいた。
ゆらりと、有仁の瞳が揺れた。泣きたいような、笑いたいような、そんな感じに顔を歪めて、唇を震わせる。
「……白妙」
縋るように白妙の名を呟く有仁の声は、地を這うように低く、苦しげだった。
「何? 有仁」
「ごめん」
謝罪と共に、白妙は強く手を握りしめられた。骨が軋むほどに強く、こんなに細い有仁の手から、どうやってそれだけの力が出るのだろうと思うほどに。
「……ごめん。言わなきゃって思ったんだ。けど、上手く、言えなくて」
有仁の目は伏せられていて、白妙からはよく見えない。ただ揺らいでいる、とだけ感じた。
「ちゃんと聞くよ……? 伝わるまで、ちゃんと聞くから。だから、ね? 話して?」
強く握りしめられた手を、白妙は同じくらいの力で握り返した。はっとしたように、有仁が白妙を見る。目線の高さはあまり変わらない。
「……俺は、能無しじゃないんだ」
俺には、夢占の力がある。それも、普通よりも強い、夢占の力が。
ゆっくりと、はっきり告げられた言葉を、白妙はしっかりと受け止めた。不思議と、納得する自分が心の中にいる。
「俺は捨てられたんじゃない。逃げてきたんだ、夢占の里から」
「逃げて?」
ただならぬ言葉に白妙は息を潜める。
「俺は、子どもらしくない子どもだったよ。気づいた時には、里のどの人間よりも正確な夢を視ていた。夢の内容を告げていればいいだけの、人間だった。それが退屈で、窮屈で、俺はすごく嫌だったんだ」
夜には監視がついて、朝目覚めるとすぐに夢の内容を問われた。それが鬱陶しくて、成長するごとに嘘をつくことも覚えた。夢なんて視ていない。そう言えば夢占の里の者たちは、有仁から興味を失う。
「俺はただ、俺として生きたい」
道具のように生きるのではなく、ただの有仁として。小さな有仁の声は、白妙の心を震わせた。
「……こんなところにいたのか、夢占の申し子」
背筋が凍るような、冷たい声だ。この春の、うつくしい山桜の下には似つかわしくない黒衣の男が、一瞬にして有仁の首にその太い腕を回していた。首を絞めるほどではないが、声は上手く出せないのだろう。有仁が苦しげに顔を歪める。
「あの情の薄い一族が血眼で探しているから、どんな子どもかと思えば。どこにでもいそうな、ただの子ではないか」
うぐ、と有仁が唸る。白妙は考えるよりも早く本能で、男との距離を取った。
「小娘、武の里の者か。いいのか? 今頃おまえの里は炎に包まれているぞ」
「そんな嘘――……」
動揺を誘うのは戦いの手段だ。しかし白妙の瞳が、里のある方角から立ち上る黒煙を捕える。
「なっ……」
「武の里は恨みを買う一族だ。この子どもが災いを運んできたにしろ、あちらこちらに首をつっこむからこうなる。こいつは、知っていたんじゃないのか? 何しろ夢占でも有名な天才児だ」
男が有仁を見下ろしながら、にやりと笑みを浮かべる。有仁は何も言わなかったが、その表情には驚きもなかった。どくどくと、白妙の心臓は早鐘を打った。
「早く里に戻らなくていいのか? 今なら、見逃してやらなくもないぞ?」
男の言葉が、白妙の頭に何度も響く。里が、白妙の育った武の里が、炎に包まれている。その言葉を飲み込むと、白妙の脳裏に燃え盛る炎が鮮明に映し出された。
そう、夢に視た。あの夜、夢に視た内容と同じだ。
――有仁も、あの夢を視たのだろうか?
動揺で、白妙の頭はまともに働いてくれない。
有仁が、白妙を見ていた。
白妙も、有仁しか見えない。
このまま、見過ごせというのだろうか? 有仁が、連れ去られるのを?
しかしこうしている今も里は燃えていて、目の前の男もそれなりの手練であることは最初の素早さで分かる。早く里へ戻りたいという気持ちと、有仁を放っておくことはできないという気持ちが戦っていた。
「しろ、たえ」
かすれた有仁の声に、白妙の身体が震えた。
「おれは、いいから、はやく……さと、に」
有仁は、白妙の迷いを見透かすように、そう笑った。苦しいだろうに、有仁は笑った。
心を、身体の中心を、何かで貫かれたような気がした。
考えるよりも早く白妙は弓をかまえ、目にも止まらぬ速さで、一矢放った。
「っ……!」
その矢は、有仁の首に回っていた男の腕に刺さる。一瞬の出来事に、男は拘束を解き、隙が生まれた。すぐに有仁が男から離れる。
「動かないで」
凛とした白妙の声が、その場に響く。
「動いたら、次はあなたの右目を射るわ。この距離だったら、外さない自信がある」
次の矢を構える白妙は、まっすぐに男を睨みつけながらきっぱりと言い切った。男とは十歩程度しか離れていない。
強くなれ。強く、あれ。
母の遺した言葉が、胸の奥から湧き上がってくる。大切なものを、守れるように、強くなれ。
「有仁は、もう武の里の人間よ」
自分に言い聞かせるように、白妙は告げる。
こんな、物のように人を扱う奴らに。
有仁が逃げたいと思うような里の奴らに。
有仁を、大事にしない人間なんかに。
「あなたたちなんかに、有仁はあげない」
白妙の瞳に、迷いはなかった。瞬きもせず、白妙は男を睨みつける。強い風が吹いて、ざあぁと山桜の花びらの雨を降らせる。
弓を、武器を、持つ意味を知った気がした。人を傷つける力じゃない。人の命をただ奪うだけの力じゃない。
――大切な、大事な人を、守る力だ。
「小娘が……!」
射られた右腕を庇うように、男が左手で剣を抜いた。しかしその剣が振るわれるよりも早く、白妙は左肩を射る。続けて息つく暇もなく、右足を。右目を射抜かなかったのはせめてもの情けだ。
「ぐあぁっ」
男は剣を落とし、その場に膝をついた。うつくしい花びらを運ぶ風の中に、血の匂いが交じる。
「――去りなさい。まだ動けるはずよ。去って、夢占に伝えなさい。有仁が欲しければ、武の里まで出向いて来いと」
それでももちろん、有仁を渡すつもりなんてないけれど。
「く、そ……!」
男は獣のように唸るが、これ以上手出ししてくる気配はない。利き足と両腕を怪我したのだ。いくら小娘とはいえ、そんな男に後れを取るほど白妙は弱くない。
「白妙、早く里に……!」
有仁の大きな声で、白妙も事態の忙しさを思い出した。有仁が強く白妙の手を引いて、草を掻き分け山道を駆ける。
どうしてこんなに上手く足が動かないんだろう、と白妙は考えて、自分の足がかすかに震えているのだと気づいた。
「……ねぇ、有仁は夢に視たんだよね? 私と同じ、あの、炎の夢を視たんだよね? なら、もう――」
手遅れなのではないか。そんな、言いたくもない言葉が不安と共に白妙の口から零れる。
「確定した未来なんて、存在しない」
しかし有仁は白妙の手を強く握り締め、山道を先に駆けながらきっぱりと言い切った。
「夢で未来を視たとしても、それは必ず起きる未来じゃない。だから、俺は、俺の視た未来を崩してみせる」
それは、まるで自分に言い聞かせているようだった。有仁の瞳はまっすぐに前を見つめていて、うつくしい顔立ちは精悍さを滲ませている。華奢な有仁の背中が、白妙にはとても頼もしく感じた。
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