夢宵桜(二)

 どうやら有仁ありひとはひとりでいることが好きらしい。

 ひとりきりになれる場所を見つけ、一日の大半をそこで過ごしているようだった。

 里とその周辺を知り尽くしているはずの白妙しろたえさえ探しても見つからなかったので、おそらく有仁は隠れ鬼の類いが得意に違いない。

 結局いつもどこにいるんだろう、と思いながら今日も白妙は朝から弓の手入れを始める。鍛錬をしなくとも手入れだけは毎日欠かさない、この弓は大切な相棒だ。

 剣を振るうことにはあまり慣れず、とても上手とはいえない腕前なので、幼い頃から弓の稽古ばかりをしている。おかげで弓だけは里の中でもそこそこの上手く扱える方だ。


「白妙! 鍛錬に行くのか? 俺もついていっていい?」


 ひょっこりと白妙の家に顔を出した弥斗やとが、目を輝かせていた。そのきらきらとした眼差しに、ただ手入れをしていただけだなんて言える雰囲気ではなく、白妙は顔を引きつらせた。

「う、うん。ちょっとだけね」

「やった!」

 急かすように先を歩く弥斗のあとを、のろのろとついていきながら訓練場まで行く。里の外れに、弓の鍛錬のためにと太い丸太を何本か置いた場所がある。すぐ外は山の中だし、鍛錬にくる人間以外は危険なので近づかない。

 的の前に立つと、すぅ、と空気を吸い込み、矢をつがえ、弓を引く。的を射抜く光を思い描くことができたら――矢を、放つ。

 ぴんと張り詰めた空気も、自然と背筋が伸びるような雰囲気も、白妙は好きだ。しかし弓をひいても、いつものように光が見えない。


 強くなれ。


 呪詛のような言葉が、白妙の頭の中を巡っては焦らせる。

「白妙?」

 幼い声が張りつめていた空気を破り、白妙は思わず矢を放ってしまった。矢は綺麗とはいえない軌跡を描き、丸太の傍の地面に突き刺さる。

「……あ」

 間の抜けた声が、白妙の口から洩れる。

 地面に刺さった矢はむなしく、静かに影を落としていた。

「ごめん、白妙。俺が話しかけたから――」

「ううん、弥斗のせいじゃないよ。……ごめん、なんだか調子悪いみたいだから、また今度でいいかな?」

 曖昧に笑って誤魔化すと、弥斗は「うん」と小さく頷いた。片付けるから先に帰っていいよと白妙が告げると、弥斗はおずおずと後ろ髪引かれるように去っていった。

 矢を拾いに行くこともできず、白妙はその場に座り込む。

 弓は好きだ。狙いを定めるときの、張りつめた緊張感はたまらなく好きだ。けれど、弓を使う理由は、わからない。弓の扱いが上手くなって、それで、どうするのか。どうすればいいのか。

 ぼんやりと虚空を見つめていると、的の向こうの草むらががさがさと音を立てた。野生の獣だろうか。白妙は慌てて立ち上がり、緊張で震える手で弓をかまえた。

 獣除けが張り巡らされている里に野生の獣が近づくことは珍しいが、里の人間である可能性は限りなく低い。

 息を呑みながら、草むらの向こうの何かが姿を現すのを待つ。汗が頬を伝った。

 がさりと草木が大きく揺れたあと、その合間から黒いそれが現れた瞬間、なんだ、と白妙の肩から力が抜けた。


「……有仁」


 長い黒髪を一つに束ねた、うつくしい少年がそこにいた。

「なに、しているの」

「別に。ここは、誰も来ないから」

 ひとりになれる、と有仁が答える。おそらく、いつもどこかに消えてしまったときは、このあたりにいたのだろう。

「危ないよ。弓の訓練場なんだから、流れ矢にでも当たったりしたら――」

「白妙は」

 有仁が白妙の言葉を遮るように口を開く。しろたえ、という響きに、白妙の身体は止まった。どきり、と胸が鳴る。はじめて、名を呼ばれた。

「何をしていたの」

 静かな水面のように穏やかな瞳が、白妙を見つめていた。

 何を、と白妙は口を開こうとして、何も言葉が浮かばないことに気がつく。当たり前だ、何もしていないのだから。ただ地面に刺さった惨めな矢を見ていただけだ。

 有仁は草むらから出ると、白妙の放った矢を地面から抜いた。あ、と間抜けた声が白妙の口から洩れる。

「何か、悩んでいる?」

 気遣うでもない、心配するでもない、ただ平坦な響きの問いに、白妙はなぜか泣きたくなった。

「べつに、なにも」

「白妙は、嘘が下手だ」

 何もかも見透かすように、有仁が言葉を重ねた。しかし追究しようとはせず、有仁は白妙の前に立つ。黒い瞳が、静かに白妙を見つめている。

 どうして有仁は、分かるんだろう。分かってしまうんだろう。白妙は、いつも笑っていたはずだ。弱いところなんて見せなかったはずだ。

「……強くなるには、どうしたらいいんだろう」

 ぽつりと漏らすと、心の中で沈んでいたものがふつふつと浮かび上がってくるようだった。

「何のために、強くなればいいんだろう」

 有仁は何も言わなかった。白妙は有仁の目を見つめ返すことができなくて、自分の足元へと目線を落とした。生え出したばかりの草が見える。

 答えを探すように白妙は手を彷徨わせて、有仁の手をとった。びくり、と一瞬だけ有仁の手が震える。でも、振り払われることはなかった。

「母様のようになりたいのに、母様はそれではいけないと言ったの。けれど、強くなれと。強くなるには、守るべきものを見つけるには、どうしたらいいの? 私には分からない」

 分からないから、弓を使えなくなった。

「なんで」

 低く穏やかな声は、いつものような静けさをもっていない。白妙が顔をあげると、有仁は苛立ちを滲ませて白妙を見ていた。黒く大きな瞳が、困惑した顔を映す。

「なんであんたは、そうやっていつも自分ひとりで抱え込むんだよ。あんたの両手は、そんなに大きくないだろ」

 有仁の声は、的を射抜く矢のようだ。空気を引き裂いて、まっすぐに心の中心に刺さる。じわりと目頭が熱くなって、白妙は慌ててまた俯いた。

「……へんなの」

 声が震えて、かすれている。まずい、と思った。泣きたくなるなんて、何年ぶりだろう。

「有仁の方が、私のことをよく知っているみたいだわ」

 返事はなかった。けれど、手だけはしっかりと繋がれたままで、それがなんだか余計に苦しくさせる。足元に生えている草がぼやけて、その細い葉の上にぽたりと雨粒が落ちた。

 ぽたりぽたりと、続けざまに雫は落ちる。

「いやだ」

 子どものように駄々をこねる白妙の声が、小さく響いた。

「なきたくなんか、ないのに」

 強くうつくしかった母のように、凛として、背筋を伸ばして立っていたい。涙なんて誰にも見せたくない。自分自身にも。

「いいんだよ」

 やさしい声が白妙の耳をくすぐる。すぐに、慣れない手つきで有仁が白妙の頭を撫でた。

「白妙は、もっと泣いていいんだ」

 じわりと浮かんだ涙は、しばらく白妙の足元に降り続けた。




 有仁が武の里にやってきて、十日ほどが経っただろうか。頑なだった山桜の蕾は、あたたかな日に一斉に綻び、山の深緑を薄桃色に染め上げていた。

 夜半に目が覚めた白妙は、外の空気でも吸おうと障子を開けた。まどろむ月が、霞みがかった夜空に浮かんでいる。

 悩みが消えたわけではないが、一度たっぷりと泣いたあとは、不思議と夢に苦しむことはなくなった。

「……ぅ、……ぁ」

 ほの暗い夜の闇に、苦しげな声がかすかに聞こえた。有仁が眠る部屋の方からだ。

「…………有仁?」

 襖越しに声をかけるが、返事はない。どうしようか、と少し悩んだあとで白妙はそろりと襖を開けた。

 ぼんやりとした月明かりに照らされて、褥の上で魘される有仁が見えた。長い黒髪は乱れ、息は苦しげだ。

「有仁?」

 思わず駆け寄って肩を揺らすが、有仁は目を覚まさない。眉間に皺を寄せて、何かに怯えるように身を縮めている。悪い夢でも視ているのだろうか。

「有仁、有仁」

 胸を掻き毟ろうとする手を両手で包み込み、何度も名前を呼んだ。白妙の声に反応するように、手が強く握られる。しばらくすると、乱れていた呼吸がわずかに落ち着いてきた。

 白妙も、小さい頃に怖い夢を視た時は母に手を握ってもらった。同じ効果があったんだろうか、と胸を撫で下ろす。

 部屋に戻ろうとも考えたが、強く手を握られたままなので動くにも動けない。すぅすぅと規則正しくなった寝息を聞いていると、じわりじわりと白妙にも睡魔がやってきた。


 ごうごうと、炎がすべてを焼き尽くす。

 舞い上がる火の粉も、身体に感じる熱も、何もかもが現実的で、白妙はただ燃え盛る炎を見つめていた。

「や、めて」

 もう到底止めることなど叶わぬ炎に手を伸ばして、その熱さに悲鳴をあげる。

 しかし、燃えているものは家だった。人だった。これまで白妙を生かし育んできた武の里だった。

「やめて! 燃やさないで!」

 白妙の必死の叫びは、宵闇を赤々と照らす炎に掻き消された。


「白妙!」

 大きくはない、けれど世界を足元から揺るがすような声に、白妙は目覚めた。すぐに有仁の綺麗な顔が飛び込んできて、粗い呼吸を整えようと白妙は空気を吸い込んで噎せる。

「……大丈夫か?」

「だい、じょうぶ……なんだか、すごく怖い夢を視た気がする。……すごく、嫌な夢」

「……」

 鮮明な夢だった、という記憶はあるのに、詳細はすっぽりと白妙の頭の中から消えてしまっていた。

 ただ漠然と、嫌な夢だったという意識しか残っていない。有仁は無言で白妙の背をさすってくれた。その手のひらのぬくもりが、強張っていた心をほぐしてくれる。

「……ふしぎ」

 くすりと白妙が笑うと、有仁が首を傾げた。

「有仁の傍にいると、妙に安心できるの」

 それほど長く一緒にいるわけでもないのに。むしろ、出会ったばかりと言っても過言ではないのに。他の誰よりも、有仁の傍らが安心できる。

 有仁は、予想外の言葉に困惑しているようだ。喜びたいけれど、素直に喜べないと言った顔で、白妙を見ていた。

「……なんで、この部屋にいたんだよ」

 問われて、白妙はここが自分の部屋でないことを思い出した。

「夜に目が覚めたら、有仁がうなされていたみたいだったから」

「……理由になってない」

 白妙は至極当然のことのように答えたが、有仁は憮然として低く呟く。この頃になると、白妙も有仁のかすかな表情を汲み取れるようになった。

「有仁、怒っている?」

 たぶん、間違っていない。白妙には有仁が少し怒っているように見える。

「……怒ってないよ」

「嘘だ、ちょっと怒っているでしょ」

 追究すると、有仁はますます不機嫌になった。引き結んだ唇が、頑ななまま言葉を語ろうとしない。

 白妙は困ったように笑って、有仁の顔の前で手をひらひらと振った。俯き気味だった瞳が白妙を捕えて、またかすかに表情が揺れた。困惑、だろうか。

「…………怒って、ない」

 確かめるように静かに呟く有仁に、白妙は「うそ」と強情にも言い切った。

「嘘じゃない。……白妙に、怒っているわけじゃないから」

「そうなの?」

「白妙には、呆れている」

 ふぅ、とため息を零して有仁が珍しくはっきり言うものだから、白妙もかちんとくる。

「なにそれ」

「そのままの意味」

 白妙はさらに問いただそうとするが、有仁はすっと立ち上がって襖を開ける。飛び込んできた日の光に、白妙は目を細めた。夜が明けていたことにも気がつかなかった。太陽はもう中天近くまで移動している。

「……いいかげんに着替えたら?」

 白妙は自分の姿を見下ろして、ああ、と思い出す。有仁の部屋で眠ってしまったのだから、夜着のままなのだったのだ。

「急いで着替えて、朝餉あさげを作るね。待っていて」

 有仁の隣をするりと抜けて、白妙は自分の部屋へと戻った。背中に流れる黒髪がふわりふわりと揺れていて、有仁はもう一度深くため息を吐き出した。

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