夢宵桜
夢宵桜(一)
強くなれ、強くあれ。
私はずっと、その言葉に囚われていた。
それは、やっと綻びはじめた山桜さえも凍りついてしまうような、花冷えの日のことだった。
空は薄く霞みがかったように曇り、吹く風はまだ冷たい。絢爛の春の訪れはもう少し先だろう。
その日。ぬくもりが恋しい春の浅いこの日に、ひとりの少年が武の一族の里へやってきた。
黒く艶やかな長い髪は、首の後ろで一つに結われている。細く束ねられたそれを、まるで山鳥のしだり尾のようだと
この武の一族は、連なる山々のあちらこちらの里と交流があるが、少年の纏う衣の模様には馴染みがなかった。
「春になると、
ため息を零しながら、白妙の隣に座る
里の男が山の中でこの少年を見つけ、族長である彼女の指示を仰ぐためにここまで連れてきたのだが、すっかり対処に困っているのだ。
この山々には、たくさんの部族と里がある。その中に、夢によって未来や過去を視るという
かの一族は非情な一面があり、能力の持たぬ子を十五歳の成人を迎える前に山へ捨ててしまう。そうした子を、このあたりでは能無しと呼ぶ。大概は五歳にも満たぬ幼子であり、少年のように成人間近の能無しの子が捨てられていることは大変珍しかった。
「何を聞いても、さっぱり答えねぇんですわ。ぼんやりとしていたから連れてきちまったが、どうしましょうねぇ」
少年を連れてきた男は頬を掻きながら困ったように笑う。薫子も苦い顔をするだけだ。武の里のいずれかの家に預けるにも大きくなりすぎているし、先程から何も話さぬまま、話し合いの結末を待っているだけの少年は、見るからに扱いにくそうな子である。
「ねぇ」
困り果てている大人をよそに、白妙は少年に歩み寄った。
ころころと鈴が鳴るような声は、まっすぐに少年に向けられている。癖のありそうな子ではあるが、決して悪い子ではないと、白妙は直感的に思った。
「私は白妙。あなたは?」
屈託のない笑顔で白妙は少年に問う。少年の、黒く丸い瞳が揺らいだ。
「…………
声変わりの済んだ、けれどまだ低くなりきっていない声が、少年の――有仁の唇から紡がれた。ありひと、と白妙の唇がなぞるように有仁の名を呟く。
「よろしくね、有仁」
白妙が手を差し出すと、有仁は少し迷ったあとで、ぎゅっと強く白妙の手を握りしめた。その姿に、薫子はまるで縋りついているようだ、と感じた。
「……そうだ、ちょうどいい。白妙、有仁はあんたの家に住まわせてやりな。部屋はあるだろう?」
「え?」
白妙が目を丸くして、薫子を見た。白妙は幼い頃に母を亡くしており、今はひとりで暮らしている。母とふたりで暮らしていた家だ。もちろん部屋は余っている。
「私はいいけど……でも」
白妙が伺うようにちらりと有仁を見ると、彼は表情を崩していなかった。驚きも動揺も伺えない顔からは、異論があるのかどうかさえ分からない。
「有仁は、それでいいの?」
問うと、有仁の瞳がまた揺れる。しかしわずかに宿った感情は、すぐに掻き消されてしまった。有仁は何も言わずに、ただ一度こくりと頷く。白妙は消えてしまった有仁の何かを探ろうとじっと見つめるが、有仁は能面のように感情を消してしまう。
「そ、そんなの駄目だ!」
慌てた様子で口を挟んだのは、幼い少年だった。今年で八つになる薫子の息子だ。
「
白妙は振り返って弥斗を見る。こっそりと話を聞いていたのだろう。有仁を指差して、キッと強く睨みつける。
「そいつが白妙を、い、いじめるかもしれないじゃないか! どんな奴か分からないのに、白妙の家に住まわせるなんて危ないだろ!」
白妙を姉のように慕う弥斗には、許しがたいことなのだろう。有仁を警戒して猫のように威嚇している。弥斗の声に反応するように、有仁の手がぴくりとわずかに震えた。
「白妙も武の一族の女だ。己の身くらい守れるだろう?」
にやりと笑う薫子に、白妙は何とも答えられず曖昧に頷いた。弥斗が心配してくれるのは嬉しいが、白妙にはどうしても有仁が危険だとは思えなかった。
「行こう。ついでに里の中を案内してあげる」
繋いだままの手を引き、白妙は有仁を連れ出した。弥斗がまだ何やら騒いでいるようだが、きっと薫子がうまくやってくれるに違いない。
まもなく昼どきを迎える武の里の中は、あちらこちらで鍛錬をする人の姿を見かける。ちらちらと白妙たちが視線を集めるのは、有仁を連れているからだろう。見慣れぬ人間を警戒するのは武の里の人間として当然だが、白妙が手を引いていることで客人か何かだと思われている。こんなに大きな子を能無しの子だとは思うまい。
「有仁は、能無しだったから捨てられたの?」
白妙の隣に並ばずに、有仁は手を引かれ少し後ろを歩く。問いかけながら白妙がちらりと有仁を振り返ると、彼は静かに頷いた。そっか、と小さく呟いて、白妙は地面を見た。
「私もね、能無しの子なんだ。小さな頃に捨てられて、母様に拾われた。だから夢占の里のことなんて、ちっとも覚えていないけどね」
物心がつく前に捨てられ、白妙という名をもらって、この里にやってきた。拾われた頃の記憶も曖昧なくらい昔のことだし、白妙も自分は武の一族の女だと思っている。
「もともと同じ里の子だからかな。……有仁とは、初めて会った気がしないんだよね」
「会ってるよ」
繋がれた手に、ぎゅっと力を込められる。
「……きっと、どこかで会ってる」
有仁の呟きは、冷たい春の風にかき消されてしまいそうなほどかすかだった。
「そうだね、年も近いし、きっと夢占の里で会っているよね。ね、有仁はいくつ?」
「今年で十四」
「じゃあ私の一つ下だ。ちょっとだけ私の方がお姉さんだね」
白妙が笑うと、有仁の表情がわずかに揺れる。むっとするような、困っているような――そんな顔をほんの一瞬だけ覗かせたのだが、白妙はそれに気づかなかった。
強くなれ。
強くあれ。
大切なものを守れるように。
――……強く。
夢の中で、切なげな声だけが響いていた。亡き母の声だ、と白妙にはすぐに分かる。けれどその声は、ただ訴えてくるだけで決して答えをくれない。
ねぇ、母様。強くなるには、どうすればいいの?
目が覚めると、まだ夜更けだった。嫌な夢だったわけでもないのに、妙に汗をかいていた。夜着が汗を吸って、じっとりと重い。
夢は、幼い頃に母とした会話と同じだ。今でも覚えている――最近おかしなほど繰り返し夢に視るので、母の表情もはっきりと思い出せるようになった。
『強くなれ、白妙。大切なものを守れるように』
『はい、かあさま。しろたえは、かあさまのようにつよくなります』
『……私のようでは、駄目だよ。私は、守れなかったのだから』
そう答えた時の母は、哀しげで苦しげで、それでもその色を見せないように微笑んでいた。
先代の族長であった母は、里の誰もが認めるほど強い
「なら私は、誰を目指せばいいんだろう……」
母のように強くなりたいと、ずっと思ってきた。
幼い頃の白妙は、母の言葉を信じなかった。だって母は強くうつくしく、里のみんなを守ってきたのだ。誰かを守れなかったなんて、そんなわけがないと。
けれど母は訴え続ける。こうして、夢にまで現れて。それはまるで、亡き母がこのままではいけないと言っているようだった。
考えれば考えるほど、頭が重くなっていく。数週間前から同じ夢を視てばかりいるおかげで、弓の鍛錬にも身が入らず、ここ数日は手入れをするくらいで弓を引いていない。
襖を開けて、部屋から出た。春の夜風にしては冴返り、胸の奥まで澄んでいくような気がする。
霞みがかった藍色の空に、月がぽっかりと浮かんでいた。
その月が、白妙にはとても心細げに見えた。
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