夢宵桜

青柳朔

前日譚

さくらの夢、涙のしずく

 その日、有仁ありひとた夢は、ひどく騒々しいものだった。

 女の子がわぁわぁと声を上げて泣いている。その泣き声が耳の奥にまで響くようで、有仁は眉間に皺を寄せながら眠っていた。泣き声のせいで頭痛がするのだ。

 夢であるはずなのに、その声は耳でじかに聞くよりも生々しい。桜の木の下で蹲りながら泣き続ける女の子は、手を伸ばせば触れることができそうなくらいにはっきりとしていた。

 頭上には満月。少女の足元には濃い影が伸びているのに、それを見つめる有仁の足元にはそれがない。

 これが普通の夢でないことを、有仁は痛いくらいに知っていた。


 ふ、と目を覚ますとまだ夜は明けていない。外は仄暗く、夜空に少し欠けた丸い月が浮かんでいる。

「有仁」

 部屋の外から声をかけられる。父の、平坦な声だった。

「夢を視たのか」

 探るような問いに、有仁は「いいえ」と小さく答えた。息をするように嘘をついた。

 父が指す夢とは、過去や未来を視るもののことだ。有仁が視たそれは、間違いなくその類いの夢だった。

 けれど、それを父に言う必要はない。これは、父が望むような類の夢ではないのだから。

「ならば早く眠れ。……子どもが夜ふかしするものではない」

 ほぼ毎晩、見張るように部屋の外にいる父に、有仁は「はい」と答える。この父子おやこの会話はいつも素っ気なく、なんの感情も灯さない。

 愛を感じることもなければ、やさしさに包まれることもなく。かといって怒りや憎しみに覆われたものでもない。感情を揺らすことは、この里ではあまり良いことではなかった。

 だからこの里の人間は、皆能面のような顔をしている。

 有仁は、今年で七つになる。親からの愛に溺れても許されるような年齢だ。しかし有仁は年齢に似合わずとても大人びた、物静かな子どもだった。その年で、己は親から愛情が注がれることがないとしっかりと理解していた。

 この里が異常であることにも、気づいていた。

 布団の中にもぐりこみ、夢で視た泣き声を忘れようとする。女の子の泣き声はまだ頭からはなれない。目を閉じるとすぐに聞こえてくる。

 結局、朝になるまでに視た夢もまた、先程と同じ夢だった。




 次の夜は、見事なまでの満月だった。

 満月の夜に限って、父は必ず自室へと戻る。父だけではない。この夜だけは夢占ゆめうらの一族と呼ばれるこの里の人々は、誰もが夢を視るために眠るのだ。満月の夜はいつにも増して特別な夢を視やすい。

 重要な未来や過去を取り逃さぬように大人たちは愚かなくらいに必死だった。その様は、夢に狂っていると言っても過言ではない。

 有仁は里の人間が寝静まった頃――里人は早くに眠りにつくのでまだ夜更けではなかった――こっそりと部屋から抜け出した。夢で視たあの女の子に会うために。

 慰めようなどとは露ほどにも思っていなかった。ただ、有仁は知りたかったのだ。

 どうして泣いているのか。

 どうしてそんなに泣けるのか。

 七歳にして早くも泣くことを忘れてしまった有仁には、あの女の子があれほど泣き続ける理由がとんと思いつかなかった。

 今でも耳の奥に残る泣き声。

 桜の雨が降る中、そのうつくしさを見ることもなく、ただただ泣き続けたあの姿が目に焼きついている。

 場所には覚えがあった。あの大きな桜の木は、有仁が知る限り一本しかない。

 夜になれば親の縛りがある有仁も、眠りと関係のない昼間だけは自由だった。同じ年頃の子どもと遊ぶほど無邪気ではなかったから、ひとり山の中を歩き回ってばかりいたが。

 だからこそ、里から少し離れた場所にある、あの桜の木を知っている。天まで覆いそうな桜の大木は、この時期もっとも美しかった。

 そしてその桜に近づくにつれ、夢で聞いたあの泣き声が聞こえ始めた。夜の山の中に響いている。それは不気味でもあり、滑稽でもあった。


「どうして泣いているんだ?」


 桜の木の下で泣いている女の子に声をかけると、女の子はぱっと顔をあげた。夢で視たよりも鮮明な姿だった。黒い髪はより艶やかに、白い肌は雪のように白く。

 女の子は有仁をじっと見ると、慌てた様子で涙を拭い始める。泣き顔を見られるのが嫌なのだろうか、と有仁は漠然と思った。

「な、泣いてないよ」

 目元を濡らし、枯れた声でそんなことを言っても説得力はない。黒く大きな瞳は濡れたままで、すぐにでもまた涙が溢れ出しそうだった。

「泣いていた。遠くからも聞こえていたし」

 じわりとまた女の子の目に涙が浮かんだ。

「か、かあさまが。白妙しろたえの一族の子なんだから、かんたんに泣いてはダメだって」

 ふぅん、と有仁は呟いた。

 白妙という名前らしいということだけ頭の片隅に置く。武の一族というと、近隣の山では有名な一族だ。女も弓や剣を扱い、男顔負けに戦いに身を投じるという。

「母さまが、地の女神様のもとへいってしまわれた、から。つらくて、かなしくて、でも、泣いたらいけないって」

 思ったから、こっそり泣きに来たの。そう呟く声はまた嗚咽が混じり始めている。地の女神は母なる大地を司る、死と安寧の神だ。

「おばうえは、母さまはしあわせだったよって、だからかなしまないでいいって。でも、やっぱり、母さまがいないのは、さみしくて」

「さみしいなら泣けばいい」

 有仁の里の女たちは、普段は能面のような顔をしているくせに、何かあると泣き喚くので鬱陶しかった。それなのにこの白妙という子は涙を堪える。まだこんなに幼いというのに。

「だめなの。強くなりたいから、泣いたらダメなの。でも私は泣いちゃうから、誰にも見つからないように、一人で泣くのに、ここにきたの」

 人に泣き顔を見せたくない。人に弱いところを見せたくない。その発言は、既に一人前の武の一族の女だった。

「……泣くことは、弱さなのか」

「ちがうの?」

 有仁の問いに、白妙は目を丸くして首を傾げた。その瞳はまだ濡れている。

「わからない。泣くことなんて忘れたから」

 有仁が淡々とそう告げると、白妙はまた泣きだしてしまうのではないかというくらいに顔を歪めた。幼子が泣き始める瞬間と同じ顔だ。

「……なんで、あんたがそんな顔するんだよ」

 どうすればいいのか分からずに、有仁は膝をついて白妙と目線を合わせた。白妙は自分の膝に顔を埋めて有仁の視線から逃れる。

「今の私は弱虫だから、そういうことをきいたら悲しくなっちゃう」

 白妙の言葉に有仁はますます困って、膝をついたまま夜空を見上げた。満開の桜の花がひらひらと舞い落ちる。頬に感じる夜風はまだ冷たい。このままだとお互いに風邪をひくな、と有仁は他人事のように思った。

「俺は泣く必要なんてないから、気にしなくていい。あんたが悲しむ理由なんてないんだ」

 淡々と有仁は告げる。自分自身のことなのに、まるで見知らぬ他人のことのように。

 白妙は唇を噛み締めて、有仁の袖をぎゅっと掴んだ。怒っているように、悲しんでいるように有仁を見る。

「気持ちをかくしてしまうことは、つらいことだわ」

「辛くは――……」

 ない、と答えようとする有仁に噛みつくように白妙は顔をあげた。

「つらいことよ!」

 真っ直ぐに相手を射抜く白妙の目に、有仁はそのまま言葉を失った。白妙は強く有仁を見つめながらも、その瞳の端には涙を浮かべている。

「つらいことをつらいと知らないのは、もっとつらいことだわ!」

 涙を溜めた瞳は、強く強く有仁を見つめる。有仁はただその瞳から目が離せなかった。辛い、と感じることもない有仁に白妙の言葉は理解できない。けれど白妙が訴えようとしている想いは、握りしめられた袖の重みと強い眼差しで伝わってくるような気がした。

「……そんなこと、教わらなかった」

 ぽつりと有仁は呟き、下を向いた。

 有仁が教わったことは、夢のことばかり。自分の視る夢の意味。重要性。そして夢の内容を理解するための教養だけだった。

「誰も、教えてくれなかったから」

「知らないなら、知ればいいの」

 困惑する有仁に、白妙はふわりと微笑みかけた。有仁が顔をあげると、白妙は優しく有仁を見つめている。先程までの涙はどこかへいってしまったようだ。

「ね、わたしとおはなししましょう?」

 わたしが教えてあげる、という白妙の提案に、有仁は素直に頷いた。そして二人肩を並べて、夜空を見上げる。口数の少ない有仁ではあったが、白妙がおしゃべりなので会話は途切れることがなかった。




 空に浮かぶ満月が場所を変えて、時間が経ったことを教えている。白妙は泣き疲れたのか、話し疲れたのか、寝てしまった。有仁の肩にもたれて規則正しい寝息をたてている。

 こんな風に人と寄り添い合うのは、有仁の記憶にある限り初めてだった。肌寒い夜に、もたれかかってくる白妙の体温は温かい。

 夢占の一族の中でも類い稀な才能を持った有仁は、物心ついた時から両親に愛情を注がれた記憶はない。もともと情に薄い一族だということも関係しているのだろう。

 三歳の時に拙い言葉で告げた「未来」は有仁の他は誰も視ることの叶わなかったもので、その瞬間から有仁は畏怖の対象であり、そして里の大人達に利用される運命が決まった。

 今がわずかなりとも自由でいられるのは、まだ様子を見ているだけだからだ。有仁が真に力のある子であるのなら、隔離され里の未来を視るためだけの人間に育てられるだろう。それを早くも理解している有仁は、ここ最近夢を視ても人に告げないようにしていた。

 肩からじんわりと伝わるぬくもりが染みる。

 今まで知ることのなかった優しさに溢れていて。

 不意に、舞い散る桜の雨が霞んで見えた。ぼやけた薄紅の花弁は、まるで雪のようにも見える。

 ぽたりと手の甲に雫が落ちた。頬はうっすらと湿り気を帯びている。ああ、泣いていたのかとぼんやりと思いながら、泣くことができたのか、と思う。

 涙の理由は有仁にも分からなかった。けれど悲しさからくるものではないということは、胸に伝わる隣の少女のぬくもりが教えていた。




 うるさいくらいの鳥の声に、白妙は目を覚ました。

「――……う、ん?」

 目をこすり起きあがると、太陽は東の空から顔を出して世界を鮮やかな赤に染め上げている。夜明けだった。

「あれ……?」

 白妙は桜の木の下で横になって眠っていた。黒髪や身体には桜の花びらがいくつもついていた。桜に埋もれていたかのようだ。

 きょろきょろと周囲を見回して、白妙は首を傾げる。昨夜いたはずの少年の姿がなかった。確かに眠る瞬間まで、ぬくもりを感じていたのに。しかし周囲に少年の痕跡はひとつも残っていなかった。

 まるで、夢か幻のようだ。

「夢、だったのかなぁ」

 名も知らぬ少年は、白妙が見たことのない模様の衣を着ていた。間違いなく武の一族と交流のある里の子ではないのだろう。大人びた雰囲気も、物静かな佇まいも、少年が人ではなかったと告げているように感じられた。

 桜の精だったのかしら。そんなことを呟いて、白妙は満開の桜を見上げる。もしかしたら、一人で泣く白妙に桜が見せた夢だったのかもしれない。

 それでも。

「また会いたいな」

 赤く色づく、世界の目覚めを見つめながら、白妙は小さく呟いた。


 それは、何かが始まる前の、小さな小さな出会いの物語。

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