夢宵桜(四)

 里に近づけば近づくほど、焦げ臭い匂いが強くなっていった。

 里の方角から流れてくる風は、わずかに熱を帯びているようにも思える。夕闇の空へと上る煙はまだ続いていた。

 木々の合間を駆け抜け、里に辿りつくまでが途方もなく遠く感じた。里に着いた時には、太陽は西へ沈み、宵闇があたりを包み込んでいる。

 暗くなるはずの時間に、里は赤く染まっていた。


「――っ!」


 そう、この光景を夢に視た。白妙は夢と同じ光景に、息を呑んだ。薄明の空よりも明るい炎に、足が震える。

 赤く燃え盛る炎の前で、指示を出して駆けまわる薫子の姿を見つけた。

「叔母上!」

 白妙が声をあげると、薫子は二人の姿に気づいてほっと安堵の息を零す。

「あんたたち、無事だったのか」

「里は、火は……!」

「今はこのあたりで食いとめられているよ。空き家と厩が燃えたが、それほど被害は大きくない」

 空き家を包み込む炎は大きいが、それも徐々に落ち着き始めている。白妙も薫子の説明を聞いて、少しだけほっとした。夢に視たように、里のすべてを覆い尽くす炎ではないのが幸いだ。

「『夢狂いが火難を運ぶ』私の家にそんな文が朝に入っていたんだが、あんたの仕業かい、有仁?」

 薫子が何も言わずに立ちつくしている有仁を見つめる。しかし有仁は、何も答えなかった。

「おかげで被害も小さく済んだ。それにしたって、直接言ってくれれば良かったのに、なんでまたこんな遠まわしなことをしたんだい?」

「……能無しでなければ、この里にいられないと思って」

 ようやく有仁の口から零れた言葉は、蚊が鳴くようにか細い。

「何を馬鹿なことを言っているんだい、あんたは。族長の私が、あんたを武の里の人間と認めた。どんな力あろうと、あんたはもう武の里の子だよ」

 有仁の不安を消し飛ばすような明るい薫子の声に、有仁は困ったような顔をした。

「族長! 厩の火は消えました! こっちももうすぐです!」

 里の若い男があちこちを煤だらけにして声を張り上げる。薫子は振り返って炎の状態を確認すると、大きく頷いた。

「まだ油断するんじゃないよ!」

「わかっています!」

 薫子はちらりと有仁を見て、我が子にするように、ぐしゃりと頭を撫でまわした。そして何を言わずにまた炎の傍へと戻っていく。

「……有仁は、武の里の子だよ」

 念を押すように白妙が囁くと、有仁は俯いたまま、白妙の手を強く握り締めた。

 炎と夕闇に染められながら、里の桜が咲いていた。山桜の大樹とは比べようもないほどに細く、まだ若い桜の木だ。けれど同じく、花を咲かせる。


「ねぇ有仁。有仁は、ちゃんと未来を変えられたよ」


 有仁は何かを受け止めるように俯き、強く、強く、白妙の手を握り返した。

 白妙は里の山桜を見つめ、ただ静かに有仁の隣に寄りそった。



 武の里の一部を炎が焼いて、数日。里は片付けに忙しいが、力仕事はもっぱら男のやることだ。少女の白妙には出る幕もなく、また白妙よりも力のなさそうな有仁も同様だ。白妙は、その有仁を探して山を駆けていた。


 山桜が、わらう。小さな花を綻ばせ、天に枝葉を伸ばして。

 その大きな山桜の下に、有仁は立っていた。

「有仁」

 白妙が声をかけると、有仁はゆっくりと振り返る。うつくしい顔立ちは、この数日で凛々しさが増したようにも見えた。

「ここにいたんだね」

 探しちゃったよ、と白妙が笑うと、有仁は小さく「ごめん」と呟く。以前より少し、有仁は素直になったように思える。

「桜、満開だね」

「うん」

 山桜だけではない。山のあちこちで、花が咲き誇っている。まるで桜が咲くのを待っていたかのように、開花からほろりほろりと、様々な花が蕾をつけた。

 赤茶けた新緑は、瑞々しい緑へ。たくさんの花は蕾をつけ、あたたかな春の陽気に一斉に咲き誇る。凍てついた冬の山から、生命の溢れる春へと姿を変えた瞬間でもあった。

「……白妙、懐剣は持っている?」

「うん、いつも持っているよ」

 貸してくれるかな、と有仁は手を出すので、白妙は素直に懐から母の形見を取りだした。ずしりと重いその懐剣を、有仁の手に乗せる。

 何に使うの、と白妙が問う前に、有仁は鞘から懐剣を抜き、長い尻尾のような髪に刃をあてた。そのまま勢いよく、懐剣を引く。

「ちょ、ちょっと有仁!」

 白妙が驚き、止めようとした時には遅かった。艶やかな有仁の黒髪は、首の後ろでざっくりと切り落とされてしまった。

「な、何してるの……! 綺麗な髪だったのに!」

「よし」

「よくないよ!」

 満足げに短くなった毛先を撫でる有仁に、白妙は詰め寄った。有仁の髪は、女の白妙から見ても羨ましくなるほど綺麗な黒髪だったのだ。

「白妙は、ここで『白妙』になったって言っていた」

「うん?」

「だから俺も、これでようやく武の里の『有仁』になったんだと思う」

 有仁はうれしそうに、淡く微笑んだ。髪を切り捨てたのは、過去の自分を捨てるためだ。そう言われてしまうと、白妙は何も言えなくなってしまう。

 山桜は生き急ぐように、花びらを散らせる。有仁の手のひらの上の、長い髪の亡骸もはらりはらりと風に乗って散っていく。

「桜も、あとは散るだけだな」

 寂しそうに有仁が呟くので、白妙はそっと肩が触れるほど近くへと歩み寄る。

「来年も咲くよ。その次の年も、ずっと」

 花が散り、葉をめぐらせて、赤く色づいた葉は地へと落ち。そうして季節は巡っていく。山桜が散ったあとには、新たな花たちが春の訪れを謳うだろう。

「里の桜も、これから大きくなっていく。いつかこの桜にも負けないくらいに」

「……うん」

 この山桜が白妙や有仁が目指すべき先であるというのなら、里に咲く小さな桜は、今の自分たちの姿なのだろう。

「だから、それをずっと、一緒に見ていこう」

 白妙が微笑むと、つられたように、有仁も頬を緩める。


 繋いだ手は、お互いが離さないと誓うようにしっかりと握られていた。



〈了〉

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