第2話 郷に入っては猫に従え
無事、入国許可証を手に入れた俺は必要最低限の荷物を詰めたキャリーバックを片手に、国際フェリーの待合室にいた。フェリーと言っても、カッツェンシュプルング行きの便は極端に需要が少ないようで、これを逃すと次の便は半月先になってしまう。
時計を気にしながら必要なものが揃っているか再確認する。パスポート、財布、通帳、頭痛薬、入国許可証……。改めて考えても、おかしな審査だった。遺伝子検査をされたり、全財産を申告させられたり、1から100までの猫に関するアンケートに答えさせられたり。本当に猫が好きでないと入れないなんて、よくそんな国が承認されているものだ。
丁度、先輩遅いなと思い始めたところで、ガラガラと車輪の音がこちらへ近づいて来た。
「猫沖ー!」
「あ、懐石先ぱ…………は?」
「おはよぉ、お前めっちゃ早いなあ」
キャリーケースとペット用のキャリーバックを3つ積んだ台車を押しながら、貫井が楽しそうに笑った。
「え、お前なんで……先輩は?」
「あぁ、あの人審査落ちたらしいで」
「うそぉ⁈」
貫井はともかく、圧倒的猫派というわけでもない俺が通るような審査だ。猫好きの先輩が落ちるなんて、全く予期していなかった。
「ほら、アンケートにあったやん。今までで最高の猫との出会いは? みたいなん。あれに訳の分からんこと書いたらしいわ。……何やっけな、ふぎゃふぎゃの猫が空から落ちてきて爆発?」
「なんやそれ……。で、お前が代わりか?」
「ぴんぽーん」
貫井の間の抜けた声と、案内のチャイムが重なった。どうやら出発のようだ。
「ああ、もうしゃーない。ほら、行くでっ」
「よっしゃあ!」
こうして俺たちは、猫にまみれた海外生活に一歩を踏み入れた。
甲板に出ると、陸地はもう大分小さくなっていた。春先とはいえ、海風はまだ冬の装いを保っている。
「なぁ、なぁ、見てみて!」
軽いと評判のダウンジャケットのポケットに手を突っ込む俺の後ろから、カッターシャツ1枚を腕まくりした貫井がパタパタと走ってきた。
「……もう半袖半ズボンとかで来てくれた方が逆に納得いくわ」
「ん? なんの話?」
首を傾げる貫井の手には、いつぞやの携帯が握られていた。大きな画面に、これまた大きくて立派な一軒家が写っている。
「めっちゃええ家やん。何、買うの……え、待って。結婚すんの?」
「え、なんの話? 結婚て誰と?」
「誰って、こないだ言うとった彼女と」
「あ、ああ、ちゃうちゃう。彼女には振られたし。そうやなくて、これ俺らがこれから住む家!」
「ええ⁈ 嘘やろ、もう振られたん⁈ 何で、また猫かっ」
「いやぁ、ちゃうよー。今回は割と穏便に終わってんて」
確か前の彼女と別れる時は、三味線にしてやるとカッター片手に追いかけ回されたと言っていたはずだ。それと比べれば何だって穏便だろう。
「それにしたって早いやろ……………ん?」
「いやぁ、実はさぁ、」
「ちょ、ちょい待ち。……あっぶな、彼女の衝撃でめっちゃ大事なもん聞き逃すとこやった」
「今度はなんやねん」
「お前今、俺たちのって言うた? その家……」
「あ、そうやっ、 家の話やった。 会社が用意してくれてんて、めっちゃ豪華やない⁉︎」
「い、いや、それは分かんねんけど。1年やぞ⁈ 何で家2人で1つやねんっ」
「さぁ、経費削減ちゃうん。まぁ、出してもらえるだけありがたいやん?」
早速、持参の頭痛薬が出番のようだった。今認識した最悪の事実は2つ。まず1つは、少なくとも1年間は、貫井の猫、貫井、俺というヒエラルキーの最下層から抜け出せないであろうこと。
もう1つは、海外進出は可能ですか?という会社側からの問いにYES以外の選択肢が無いことだ。調査段階でこの金のかけようはそういう事だろう。種を植えることは決まったから、この前人未到の地を1年かけて2人で耕しておけというのだ。
「あっ、猫沖、島! 島見えてきたで!」
貫井が柵から身を乗り出すのを止めながら、思考も打ち切った。
「はぁー、もう着いてもたやん……。もうええわ、後で考えよ……」
フェリーから降りると、大型のバンから1人の男性が降りてきた。手を振りながら小走りで近づいてくる。
「あ、多分案内の
貫井がぶんぶんと手を振り返す。
ベルトの上にぽしゃんとお腹が乗った猫背さんは、ふっ、ふっと息を吐きながら俺たちの前まで来るとお辞儀をした。
「こんにちはぁ。inframinceの猫沖さんと貫井さんですね? 長旅お疲れ様でしたぁ」
てっぺんの薄くなった頭を何度も下げる猫背さんに、こちらも何度もお辞儀を返した。
「いえ、こちらこそ、わざわざ迎えに来て頂いてありがとうございます。今日は宜しくお願いします」
猫背さんのバンに荷物を積み、俺たちも乗り込もうとしたとき、助手席のドアに手をかけた貫井が声を上げた。
「わぁ、めっちゃ綺麗なペルシャ猫!」
「あぁ、僕のパートナーです。乱歩っていいます。あ、貫井さん。恐れ入りますが、真ん中の席でもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。どうりでうちの猫がそわそわしてると思った。こんな美人が近くにおりはったんやね」
貫井の言葉に、ただでさえ笑い顔の猫背さんの顔がさらに緩んだ。そういえば、入国許可証にも猫をペットではなくパートナーと書いてあったことを思い出す。対等な関係という意味だろうか。
車に乗り込んだ俺たちは、港からぐんぐん離れていった。街並みは工場からビル街、そして繁華街へと移り変わる。
「なんか、みんな必ず猫つれてはりますね」
「思ったぁ、みんな可愛い子ばっかりで、まるでパラダイスや」
猫背さんが心底可笑しそうに笑った。
「そりゃあねぇ、猫がいなけりゃ暮らしていけませんからねぇ、ここではぁ」
猫好きが集まる国だからかと思ったが、それにしたって外出時にまで全員が猫を連れて歩くだろうか。僅かな違和感が脳裏をよぎる。
「あ、コンビニ。お二人とも、喉乾きませんか?」
「あ、少し」
「お腹空きました」
素直すぎる貫井の頭を軽く叩く。猫背さんは笑いながらコンビニの駐車場に車を止めた。
車から降りると、ふわりと柑橘系の香りが鼻をついた。
「わぁ、めっちゃいい匂い」
「猫背さん、これは……」
「ああ、猫よけですね。猫が事故に合わんように、ガードレールに柑橘系の匂いがつけてあるんです。猫は嫌がるさかい」
コンビニは店名こそ聞いたことがなかったが(看板にはthe hands of catと書かれていた)、中身は普通だった。置かれている商品も、普段買っているものと変わりはない。俺はコーヒー、貫井と猫背さんはおにぎりやパンを抱えてレジに並ぶ。俺や貫井が財布を準備したところで、猫背さんがあっと声を上げた。
「そういえばお二人、まだ両替をされてないですよね」
「両替?」
「あ、もしかして、許可証に書いてあったやつですかぁ? 大使館に来いみたいな 」
そういえば、全財産をこの国の通貨に両替するなんて恐ろしい条件が書かれていた気がする。ということは、野口英世の顔がここではきかないということか。
「いやぁ、申し訳ない。この後直ぐにご案内しますんで。 あ、お二人とも私のカゴに商品を入れてください」
えっ、と無意識に遠慮の姿勢をとる俺たちを猫背さんはまぁまぁと言って宥めた。
「これから1年、必要な知識です。この国での決済の仕方をしっかり見ておいてくださいねぇ」
そういうと猫背さんはカゴをレジに持っていった。いらっしゃいませ、と若い店員が手早く処理をする。1633円になります、と言われたとき、俺たちの横をサッと何かが走り去った。その何かは、猫背さんの横で踏み切るとひょいっ、とレジカウンターへ舞い上がる。
「あ、乱歩さん」
「あれ、ほんとだ。いつのまに……」
乱歩さんは料金が表示されたモニターと猫背さんの顔を交互に見た後、カウンターの上に設置されていた青いセンサーに向かってピタリと鼻をくっつけた。
ピッ
「ありがとうございましたぁ。またのお越しをお待ちしております」
「「え?」」
猫背さんが袋を持ち上げながらニッコリと笑った。
「改めまして、ようこそ。猫が小判の国、カッツェンシュプルングへ」
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