猫のいない人生もまた、人生とは言えないらしい。
独楽花
第1話 名を捨てて猫を取る
[入国許可証]
厳正な審査の結果、貴方は以下の条件を全てクリアし入国が許可されましたことをお知らせ致します。
<入国条件>
その1、猫虐待遺伝子を持たないこと
その2、猫アレルギーでないこと
その3、現在所有するお金の全てを、我が国の
通貨と両替すること
その4、仕事をもつこと、一生懸命働くこと
その5、病めるときも、健やかなるときも、
猫を愛しぬくこと
入国後、猫沖様の昨年度末までの所得証明書等を参考に貴方のパートナーを決定いたします。必要書類をご持参の上、カッツェンシュプルング日本大使館へお越しください。
20$%年 €月¥日
カッツェンシュプルング 国王
「お前またBセットかよ。偏るでー」
昼のピークより少し前、騒めき始めた食堂で無事席を確保した俺たちは、仕事の話題をおかずに炊きたてご飯を貪り始めた。
「Bってのはお前、バランスのBやろ。Aにプラス
「あ、バランスと言えば。……ちょ、見てぇや! うちの猫のバランス感覚!」
貫井が突然眼前に突き出してきた携帯の画面には、ヨガの様なポーズをきめた貫井とその背中に器用に這い上がる白猫の姿があった。
「……うん」
「な? すごいやろ? 絆の深さが伝わってくる写真やと思うねん」
「せやな。……てかそれ、誰が撮ってんの?」
「ん? 彼女ー」
俺が箸で掴んでいた絹ごし豆腐が、ぽちゃん、ぽちゃんと音を立てて味噌汁に吸い込まれた。
「彼女? お前に? ……猫の爪きりのために有給とるようなバカに……彼女?」
貫井は袋に入ったノンオイルドレッシングをパタパタ振りながら、携帯の画面をモニターに切り替えた。
「彼女もめっちゃ猫好きでさぁ。なんか、いけそうな感じがすんねん」
最新機種の大きな画面には、壁全体がキャットタワーと化した貫井の家が映っていた。黒と白のまだら模様の猫が、逆から見ていても分かるほどの大きな欠伸をする。
「へー。……まぁ、頑張ってや。 11
シャケの尾っぽ側に溜まった脂身を箸で一生懸命切り離していた貫井が、ぴたりと動きをとめた。まずい、適当なことを言いすぎただろうか。彼女の話なんだから、コイツなりに真剣に決まっている。ただの猫バカというわけではないのに。
「お前……」
「……ごめん、ちょっと茶化し過ぎ……」
「天才か」
良かった、どうやらただの猫バカだったようだ。
隣の席では、若い社員達が日経平均がどうの、仮想通貨がどうのとエリートビジネスマン風の会話を垂れ流していた。明らかにこちらを意識している。気付いていないはずないだろうに、さらに声高々に猫賛歌を奏でる貫井を見て、思わず笑いが漏れた。
「ふん? なんか笑うとこあった?」
「いいや。 俺もやっぱ猫派やなぁと思って」
「おお! マジで⁈ 猫飼う? 飼っちゃう⁈」
隣から嘲るような小さな笑い声が届いた。
「飼わへんわ。けど、なんか犬って
「あー、まぁ子犬や子猫んときはみんな一緒やろ。遊びたい盛りやねんから、そういうときちゃんと
隣のテーブルはいつのまにか静かになっていた。貫井の向こうで、部長がタッパーに入ったデザートをほうばるのが見えた。
俺たちが属するinframinceは、ペット用品を扱う会社だ。割高だが圧倒的品質で信用のある日用品や、オーダーメイドの首輪などは飼い主の間では一種のステータスとなっているようだ。ペットの幼稚園といった新たな需要にもいち早く反応し、確かな地位を得ている。
「猫沖君、ちょっといいかな?」
「は、はいっ」
メールチェックの最中、部長から突然声がかかった。コーヒーでもどう?と笑顔で談話室を指差す、見慣れない姿に嫌な予感がはしった。断るわけにもいかず、俺はパソコンをスリープ状態にすると立ち上がった。
「さっきはごめんねぇ、気を遣わせたみたいで。ほら、営業の貫井君にも、謝っといて」
実際より少し老けて見える部長の顔が、長年笑顔を刻み込んだしわでいっぱいになった。なんと言っていいのか分からないままもごもごしている俺を置いて、部長は穏やかに本題に入った。
「ところで、さっきたまたま聞こえてしまったんだけど。君たち2人とも猫が好きなの?」
「へ? あ、ああ、貫井は異常なまでの愛猫家ですね。猫も3匹くらい飼っていて、すごく大切にしてますよ」
「ほぉー、そっかそっか。君は?」
「僕は……そうですね。今まで沢山の商品に関わらせて頂いて、猫と接する機会も多々あったので。もちろん好きです」
部長はそうかそうかと満足そうに笑った。ミルクを3つも入れた優しい色合いのコーヒーが、部長の雰囲気に良く似合っていた。
「あの……それが何か?」
「ん、うん。実はねぇ。うちの会社、海外に進出しようかって話になっててね」
あっ、まだここだけの話ねと部長はすぐさまつけたした。わざわざ呼び出されたうえに“ここだけの話”。頭の中の不安と期待のバロメーターが一気に逆転する。
「で、第1号店をどこに出すかっていう話になって。君は聞いたことある? 僕は知らなかったんだけど……えっとね」
部長がマーカーと付箋でガヤガヤになった手帳を億劫そうに取り出した。
「かっつぇ……ん、……カッツェンシュプルングって国らしいんだけど」
「えらい名前ですね……。聞いたことありません」
「だよねぇ。なんでも猫が好きな人だけでつくられた国なんだって」
猫好きだけの国。名前の響きといい、ヨーロッパのおとぎ話のようだ。上もよくそんな御誂え向きの国を探し出したものだ。
「貫井ならすごく喜びそうですね。で、俺は何をすればいいんですか?」
「うん、ちょっとここに行ってきて欲しいんだよね。なんでも、平和な国らしいんだけど、入国条件が厳しくって。情報もあんまり出てこないから、高級ペット用品の需要があるのかも分からないし」
「はぁ、市場調査ってことですか。でも俺、英語がチョロっとできるくらいですし、1、2週間ならなんとかなるかもですけど……」
「1年、行ってきて」
「……は?」
「1年、暮らしてみて、小まめに報告書送ってもらう感じになると思う。あ、言葉は心配しなくていいよ。関西弁らしいから」
「なんっ…………僕1人でですか?」
なんでやねんっをギリギリで呑み込んだせいで、うっかり不安が溢れでた。そんな得体の知れない国に1人で1年なんて鬱過ぎる。
「ああ、それは大丈夫。営業からもう1人、
「あ、そうなんですね……」
懐石先輩は猫好きで有名で、貫井と親しいため何度か飲みに行ったことがある。距離感が丁度いいため、好きな先輩の1人だった。海外経験のある先輩が一緒なら、良い勉強になるかもしれない。新卒でこの会社に入って7年、
「いつでもできるって思ってることほど、なかなか踏み切れないものだよ。新しいことへの挑戦……とかね?」
「……分かりました。行きます、猫の国」
部長の顔がまたしわくちゃになった。優しい色合いのコーヒーはすっかり飲み干され、カップの底には焦げ茶色の渦がこびりついていた。
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