呪い
如月は店を出ると、そのまま電話をかけ始めた。
「俺だ。そっちの予定は……ああ。至急、合流したい」
相手は柳田であろうか。
邪魔をしてはいけないと思い、何も言わずに傍らに立っていると背中から視線を感じた。
矢崎が窓からこちらを見ている。
肌がチリチリする。赤の絆のある鎖骨のあたりもピリピリと沁みるような痛みを感じた。
「ああ……、じゃあ、昼にレストランで」
如月は電話を終えると、私に後をついてくるようにというそぶりだけして、すたすたと歩き始めた。
手をつながないどころか、言葉もない。目も合わさない。
慌てて追いついて如月の顔を見上げると、厳しい目つきをしていた。仕事の時の目だ。何か考え事があるのかもしれない。
「マイ」
ようやく駐車場の近くまで来た時、如月はやっと私の顔を見た。見たことがないくらい目つきが厳しい。
「正午に一条の経営する『レストラン潮風』で柳田と合流する。悪いが、マイはそれまでこのあたりで時間をつぶしていてくれ」
「え?」
私は、時計を見る。まだ一時間以上の時間がある。
「俺は、ちょっと出かける用事が出来た。悪いが、一緒に行動できない」
「どこへ行くの?」
「人魚ヶ崎」
如月はそれだけ告げると、「来るな」という意思を全身からにじませて、車に乗り込んだ。
赤の絆がピリピリと沁みるような痛みを伝えている。
――どういうこと?
仕事の内容によっては、私と別行動をとる必要があるのは、わからないわけじゃない。でも。如月の態度は普通じゃない。いつもなら、理由は説明してくれる。
――私、何か、失敗したのだろうか。
矢崎の店で、やってはならないことをやってしまったのだろうか。
そうでないなら。考えたくはないけれど、如月が彼女に心奪われた可能性もあるのかもしれない。まさかとは思うものの、赤の絆は、私と如月を霊的につなぐものなのだ。その場所が、ずっと痛いのはどういう意味なのだろう。
――それとも、病は気から?
彼女の視線をずっと気にしていたからかもしれない。逆ブラシーボ効果だ。嫉妬心が痛みを感じさせているのかもしれない。
そうだ。そういうことにしよう、と、私は自分に言い聞かせる。
待ち合わせの『レストラン潮風』の位置はわかるが、ここから歩いたところで五分もかからない。
――観光の真似事でもしようかな。
私は、ガイドマップを開く。
「あっ、これ、いいな」
マップに、『藍月浜サイクリングロード』という名の堤防道路があるのをみつけ、私はレンタサイクル屋を捜すことにした。自転車に乗るのは、麻衣も舞も久しぶりである。今日はお天気もいい。鎖骨の痛みは消えないものの、気にしていても仕方がない。
日曜日ということもあって、街を歩いているのは、観光客がほとんどだ。
私は、マップにあった『なぎさ』という名のお店に入った。お店は半分に区切られていた。レンタサイクルと書かれたカウンター側に男性が座っている。そして、観葉植物で簡単に区切られた向こうには、木製の机と椅子がおかれた喫茶スペースになっていて、「だんご」「あんみつ」などのポップが壁に貼ってあるのが見えた。
私は、入り口近くのテーブルにおかれた受付表を記入する。
レンタサイクルでサイクリングは、そこそこ人気があるらしく、私の他にも何組か女子旅と思われる女性たちが受付でカウンターの男性と話していた。
受付表に記入を終え、私も自転車を借りようとしたその時。
不意に、背をぞくりとした感覚が走った。
ガシャーン!
喫茶スペースで、何かが割れる音が響く。
視線を向ければ、ぐらりと、一人の女性がゆれ、こちら側に倒れてきた。
「あぶないっ!」
観葉植物と一緒に、女性が私の目の前に倒れた。
幸い、植物の鉢はわれず、その植物のおかげで、彼女は床に叩きつけられはしなかった。
彼女の周りに明らかに妖しい気が漂っている。攻撃的なものだ。
「大丈夫ですか?」
私は彼女にかけよった。意識はないが、呼吸はしている。ただし、弱々しく、呼吸が深い。肌が青白く、唇の色も紫色をしている。
「救急車を!」
私は叫びながら、ゆっくりと霊視をする。
たぶん、そこにいる人間のほとんどにはみえないであろうが、彼女のまわりには悪意がまとわりついていた。
――どうしよう?
妖魔の姿がはっきり見えれば、九字を切ればいい。だが、これはたぶん、呪いのたぐいだ。それも念だけのものだ。
私は、念だけの呪いを返すという術法をよく知らない。
「マイちゃんは、まだ、呪い系は手を出しちゃダメ」
研修中、田野倉に口が酸っぱくなるほど念を押されている。妖魔を倒すより、複雑で面倒なものなのだ。
――でも、このままでは、このひとの命が危ないかも。
なんとかしなくては、と、私はこの二か月、防魔調査室で学んだ知識を総動員する。
――そうだ、結界!
この悪意を払うのは難しい。しかし、彼女にそれが、直接攻撃を下さないように結界を張ることは多分可能だ。
「マジック! マジックはありませんか?」
私は、大声で叫ぶ。
「あ、あります!」
自転車を借りるために来ていた女性の一人がかばんから油性の黒マジックを取り出した。
「ありがとう!」
私は受け取ると、衆人の目があるのも気にせずに、彼女の額に護身の護符を描いた。
そしてそのまま『
「
「んっ」
彼女の頬にわずかな赤みがさす。
「救急車が!」
誰かがそう告げた。
サイレンの音が店の前で止まり、救急隊がやってきた。
私は防魔調査室の番号へ連絡を入れてもらうように、救急隊の人と話をする。
「この方とお知り合いの方はいらっしゃいませんか?」
救急隊の人がそう言ったが、彼女はひとりでこの店に入ってきたらしく、誰も反応しなかった。
彼女を救急隊のひとが救急車へと運び入れる。
「あのっ! 私、同行してもよろしいですか?」
とっさに口にしていた。救急隊では、彼女に降りかかる呪いは払えない。ひよっこの私でもいないよりはマシのはずだ。
そして。
私は、見ず知らずの女性と一緒に、救急車で、総合病院へと向かったのだった。
病院に着いて、彼女はまもなく意識を取り戻したようだ。
防魔調査室に報告を兼ねて電話を入れたところ、真田から、しばらく彼女に付き添うように言われた。
如月たちには、真田から連絡を入れてくれるそうで、彼女のことは、私を迎えに来た時に対応するらしい。
彼女はかばんをひとつ持っていたようだから、病院から身内に連絡することは可能であろう。じきに身内がやってくるに違いない。付き添えと言われてはいたが、ひととおりの検査が終わるまで、集中治療室の前の控室で、ぼうっと座って待っている意外にすることはなかった。
「あの、田中さん、ですね?」
看護師に声をかけられ、私は顔を上げた。
「
「はい」
私は頷いて、立ち上がった。山峯、というのは、おそらく倒れた女性のことであろう。
私は、教えてもらった病室の方へと向かい、扉をノックした。
「どうぞ」
柔らかい女性の声がした。
「失礼します」
声をかけて部屋に足を踏み入れると、ベッドで、上半身を起こした女性が座っていた。顔に赤みが戻っているが、額の護符は描かれたままだ。これは、消さないように病院側に『防魔調査室』側から伝えられている。
「助けていただいたそうですね?」
女性は私を見て頭を下げた。先ほどは必死だったからあまり見ていなかったが、とても綺麗な女性だった。
華奢ではかなげに見えるのは、まだ体力がもどっていないせいもあるのかもしれない。
「いえ。たまたまお店にいただけですよ」
私はそう言って、微笑した。
彼女の周りを悪意の塊はまとわりついたままだ。これを取り除かない限り、いくら医学的に治療しても症状の改善は難しいだろう。
「
「田中舞です。迷惑だなんて。私は、救急車に一緒に乗ってきただけです」
だから気にしないでください、と、そう言った。
「ご身内の方とは、ご連絡がつきましたか?」
私は、彼女の顔を注意深く見ながらそう言った。
「……私、天涯孤独なの。県外に、従妹が一人いるけれど、音信不通だから」
「職場の方は?」
彼女は苦く笑った。
「ついこの前まで、レストランで働いていたんですけど、ひと月前に辞めてしまったの」
彼女は首を振った。私は目を見開いた。
「でも、貯金もあるし。保険証も自動車の免許証もクレジットカードも持ち歩いているから、金銭的には問題ないです」
「あの、私で良ければ、力になります……私も、天涯孤独で、今は無職ですから」
再就職先が決まってはいるが、無職には違いない。
それに、彼女の目はとても寂しそうで、とても「意識が戻って良かったですね、ごきげんよう」という気分には、なれなかった。
「レストランというと、コックさんですか?」
「ええ。一応ね。藍月浜の『レストラン潮風』で働いていたの。今日は、県外に引っ越すことに決めたから、一応職場に挨拶に行こうかと思って……」
「では、電話連絡くらいしたほうが?」
「いえ……結局、訊ねることができなくて。それで、あのお店に入ったの。私、職場で失恋して……それで辞めたの」
「失恋?」
山峯は苦笑を浮かべた。
「いま時、失恋くらいで職場放棄って、軟弱だと思うでしょ? 私もそう思う」
「そんなこと……」
もし如月が心変わりしたとしたら、私は防魔調査室に、就職するだろうか?
そもそも、今の家に住み続けることが可能だろうか?
私は、そんなにタフじゃない。少なくとも、一定の距離は必要だ。そして、忘れるためには長い時間がいるだろうと思う。
「味覚が……無くなったの」
彼女はそう言って、苦笑した。
「心理的なショックを受けたせいか、何を食べても味がわからないの……料理人としては致命傷ね」
彼女は味覚喪失を理由に医者に診断書を書いてもらって、退職したらしい。
「失恋して、二か月たって。あのひとのこと、忘れようとしているのに、未だに味覚は戻らない。もう、料理の世界から身を引くわ」
私は、彼女につきまとうように絡みつく悪意に目をやる。失恋による、心理的なショックはもちろんあるだろう。しかし、それだけが要因とはとても思えなかった。
「あなたの味覚……戻っているかもしれない」
私は、近くの看護師に、彼女が何か口に入れても構わないかと聞いてみた。とりあえず、お茶のようなものなら構わないという返事を聞き、私は自販機でお茶のペットボトルを一つ買ってきて、彼女に手渡す。
「飲んでみて?」
山峯はいぶかしそうに首を傾げたが、ペットボトルを手にして、おそるおそる口にする。
「あっ」
小さく彼女は叫んだ。
「味が……味を感じる……」
彼女の頬に一筋の涙が流れた。肩が震えている。唇に笑みが浮かんだ。
「……何が、起きたの?」
不思議そうに、山峯が私の顔を見つめた。
「説明する前に、あなたの話を聞かせて。きっと、力になれるわ」
私は山峯の手を握る。彼女はコクンと頷いた。
山峯は『レストラン潮風』に勤めて五年で、今年三十才だそうだ。勤続三年目の秋ごろから、職場の男性と交際を始めたらしい。ところが、山峯が結婚を意識し出した矢先に、突然、別れを告げられたらしい。それが味覚を失った二か月前ということだ。
話していて、彼女はとても優しい人だと思った。
突然、別れを告げたという男について聞いても、辛そうに首を振るだけだ。
職場環境は、別離した後も悪くなく、辞める時も同僚から留意を促されたらしい。
「相手の男性のお名前を聞いてもいいですか?」
私は、辛そうな山峯の様子にためらいながら、聞いた。彼女につきまとう『悪意』とその男性は無関係ではありえないと、私は感じていた。
「彼の名前は、
悲しげに告げた、その名前は記憶にある。私の頭に矢崎の顔が浮かんだ。
彼女が観光船で一緒にいた恋人の名だった。
鎖骨の傍の赤の絆が、チクリと痛んだような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます