人魚の至宝

 トントンと、病室をノックする音がした。

「はい、どうぞ」

 山峯が返事をする。

 看護師さんかと思ったが、入ってきたのは柳田だった。なぜか白衣を着て、わざとらしく聴診器を首にかけている。

 少しニヒルで知的な柳田は、ドキッとするほど白衣が似合う。こんな医者がいたら、仮病の患者であふれそうだ。

「柳田さん?」

「マイちゃん、無事だね」

 柳田は私の表情を確認し、すぐに険しい表情になった。

「うーん。ひどいな」

「あの?」

 山峯が柳田の顔を怪訝そうに見る。

「えっと、俺はあなたの病状の専門医でね。柳田瞬と申します」

「専門医?」

 山峯が目を丸くする。

「そちらの田中舞は、俺の助手です。彼女から連絡もらったので、様子を見に来ました」

「助手さん?」

 山峯が私に目を向ける。

「……この病院に来て、かなり楽になったでしょう?」

 柳田は落ち着いた声で、彼女にたずねた。

「ええ。そうですね」

 山峯は得心したように、頷いた。

 呪いの影響下から一時的に脱した彼女は、だいぶ楽にはなったはずだ。

 もっとも、本物の医者の話では彼女の身体は栄養失調状態で、健康とは言い難いらしい。失恋の精神的なショックもあるだろうし、味覚を消失していたのだ。食欲が失せていても、ある意味では仕方がない。

「彼女の応急処置の成果です」

 柳田はそう言って、私と彼女に微笑んだ。

「あの……私の病気って?」

「その前に質問をしてもよろしいですか?」

 柳田の切れ長の目が鋭くなる。

「今日、『なぎさ』という店に来る前に、あなたは何をしていましたか?」

 柳田の口調は柔らかいが、否と言わせぬ雰囲気がある。

「私……勤めていた、『レストラン潮風』に行こうとして藍月浜に行ったのだけど……結局行かなかったんです。駅から、歩いていく途中で……恐くなって。だから、海岸で海を見て、それから『なぎさ』に行きました」

「その間、ひとに会ったりしましたか?」

「いいえ」

 そう言ってから、彼女は思い出したように、口を開いた。

「昔の職場の人間に、引っ越しするというメールを送りました」

「そのあと、体調が急変したのですね?」

「……そうかもしれません」

 山峯は首を傾げながら、そう言った。

「わかりました。横になって、楽にしてください」

 柳田は、優しくそう言って、彼女をベッドに寝かせた。そして、手のひらを彼女の額にのせ、眠りへといざなう。

 すうっと、彼女が眠りに落ち、静かな呼吸を始めたのを確認して、柳田はふぅっとため息をついた。

 使ったのはほんのわずかな霊力だが、効果は絶大だ。如月の影に隠れてしまうけれど、柳田も『防魔調査室』のエースなのだと、改めて感じる。手際の良さは如月以上かもしれない。

「しかし、ひどいなあ、この悪意に満ちた呪いは」

 彼女が眠りについたのを確認し、柳田はそう言いながら首を振った。

「そうですね。彼女、ずっと味覚が消失していたそうです。料理人さんなのに……」

 彼女を取り巻く悪意は相変わらずどす黒くつきまとっている。

「ま、如月が慌てるだけあって、強烈だ」

「如月さん?」

 この文脈で、如月の名が出てきたのは何故だろう。

 トントン、とドアを叩く音がした。

「柳田、入ってもいい?」

 杉野の声がして、大きな病院のワゴンを引きながら、彼女が入ってきた。柳田に合わせたのであろう。看護婦さんのコスプレである。とても良く似合う。男性へのサービスショットのようだ。

「ああ。病院側の許可は取ってきたな?」

「大丈夫よ。」

 杉野は持って来たワゴンから、呪符をとりだして、病室の壁にぺたぺたと張り始めた。

「呪符結界?」

 私の言葉に、杉野が頷く。

「そ。大本を叩かない限り、また来るから。術を返してしまえばいいのだけど……今回は相手が素人だし」

「素人?」

 私はびっくりした。これほどの呪いを素人がしているとはとても思えない。

「マイちゃんの場合は、相手が如月だから、素人じゃないが」

 柳田が首をすくめながらそういって、私に座るように指示をした。

「はい?」

 言われた意味がわからずに、私は首を傾げる。

「気が付いてない? まあ、如月は必死で感情閉じているから、それほど影響が出てないかもしれないけど」

「どういう意味ですか?」

 私の言葉に応えず、柳田は私の額に呪符を貼り付けた。

 すると、ずっとしくしく傷んでいた赤の絆の痛みが、消えた。

「とりあえず、祓はらいがすんだら説明する」

 なんのことやらさっぱりわからないが、私は、おとなしく病室の椅子に座る。

 杉野は、部屋の三方に呪符を貼り付け、最後には、山峯にも呪符を貼り付けると「いいわ」と、言った。

大祓詞おおはらえのことば

 パシっと、柳田が柏手を打つ。

 空気がシャンと急激にしまったように感じた。

高天原たかあまはら神留かむづまりす」

 柳田と杉野の声が唱和する。すがすがしい気が満ちてきた。

 大祓詞とは、神道において、穢れを払うために使われる祝詞である。

 呪いを術者に返すというような攻撃的なものではないが、呪いを祓うという点においては、非常に効果的な祝詞である。

「今日の夕日の降くだちの大祓おおはらえはらへ給ひ清め給ふ事を諸々聞食もろもろきこしめせと宣のる 」

 ふたりの唱和が終わると、身体が明らかに軽くなった。

 山峯を取り巻いていた悪意は、欠片も残さずに消失している。

「ふうっ」

 柳田がほっとしたように息をついた。山峯の額にそっと手を当てた。記憶を操作しているのだろう。

「マイちゃんと会った記憶は残しておく。その方が辻褄をあわせやすい。後々、フォローが必要かもしれない」

 たぶん、彼女は、貧血で倒れたというような筋書きなのであろう。呪いというのは、祓ったとしても精神にダメージは残る。アフターケアが必要なことも多いそうだ。

 杉野は、穢れを祓い出すために開けていた壁に、新たな呪符を貼り付けている。

「とりあえず、如月と合流しよう。あ、マイちゃん、呪符は肌身から離さないように」

 おでこに張られた呪符をはがそうとしたら、そう言われた。

「これ、張ったままですか?」

 私が不服気にそういうと、杉野がぷっと笑った。

「はがしても大丈夫よ。持っていればいいわ。マイさんほど霊力があればもう要らないと思うけど、相手が如月だし。しかも、マイさんと如月、つながりが大きすぎるから」

「如月さんが、私を呪っているのですか?」

 胸がドクンとした。赤の絆の痛み。肌を刺すような感触。あれは、如月の力だというのだろうか。

「えっと。そういうことだけど、そう言う訳じゃない。説明はきちんとするから。とりあえず、『レストラン潮風』に向かおうか」

 柳田が少し困ったようにそう言った。

「山峯さんは?」

「この部屋にいる限りは大丈夫だ。それよりも、彼女の『元カレ』をなんとかしないと、な」

「一条健司が、山峯さんを呪っていたのですか?」

 山峯のような優しい女性をふったうえに、呪うなんて、と私は怒りを感じた。

「そうだが……奴も被害者なんだよ。マイちゃん」

 複雑そうな顔をして、柳田は首をすくめた。




 『レストラン潮風』に向かう車中で、私は、これまであったことを柳田と杉野に報告した。

「マイさんって、単純に霊的魅力が高いだけじゃなくて、遭遇運も高いのね」

 杉野は助手席で苦笑した。

「でも、マイさんが、『なぎさ』にいてよかった。マイさんがいなかったら、彼女、死んでいたわ」

「まったくだ」

 丁寧な運転をしながら、柳田が頷く。

「あの……一条健司が被害者ってどういうことです?」

 私の質問に、杉野はふうっと息をつく。

「人魚の至宝という、術具があるの」

「人魚の、しほう?」

 私の言葉に、杉野は頷く。

「別名、人魚の御霊みたま。人魚の肉を食べて、不老不死となった八百比丘尼やおびくにが死を手に入れるために人魚から手に入れたとされるものよ」

 随分と非現実的なお話である。人魚だけでも充分に非現実的なのに、不老不死だの、八百比丘尼だの、妖しさ大爆発であるが……私が、これから足を踏み入れる世界は、そういう世界なのだな、と再確認する。

「その至宝は、人魚ヶ崎の渦潮寺うずしおでらの裏にある海岸の洞窟に安置されていたのだけど、どうやら紛失したらしいの」

「紛失?」

「ひとがめったに入れない場所にあるから、寺側もすぐに気が付いてなかったらしいわ」

 杉野は首をすくめた。

「盗難ですか?」

 柳田は、首を振った。

「時期的にみて、おそらく界弾きが原因だな」

「あ」

 二か月ほど前におこった界弾きは、全国で災害を引き起こした。大事には至らなかったとはいえ、空間の歪みや渡ってきた妖魔により、小規模な混乱があった時期だ。

「おそらく界弾きの歪みで人魚の至宝は、波でさらわれたのち海岸に打ち寄せられ……そして、拾われた」

「矢崎さんですか?」

 私は、矢崎の胸に輝いていた青い石が脳裏に浮かぶ。

「そうだ……矢崎には霊力も霊的魅力も全くない。おそらく人魚の至宝は、ふさわしくない持ち主に所有されて、暴走を始めた。人魚の至宝は、人魚の御霊を慰める祈りを代償に、持ち主の願いを叶えると言われている」

 藍月浜の海岸が見えてきた。晴れ渡った空に、キラキラと海面がおだやかに輝いている。

 こんな穏やかな光景をみていると、全てが嘘のようだ。

「矢崎は、一条を欲した。一条は矢崎に魅了され、そして、彼の中にあった山峯への感情は、呪いに変換された」

「呪いに変換?」

 山峯に執拗につきまとい、彼女を苦しめた悪意は、一条の山峯への想いの深さの裏返しだというのだろうか。

 そうだとしたら、悲しすぎる。

「矢崎が、一条一人に色目を使っているなら、女として同情もしなくはないけどね、他にも何人か男と付き合っていて、さらに、如月にも秋波おくるって、どれだけ節操がないンだか」

 杉野があり得ない、というように首を振った。

「人魚の至宝の暴走に支配されているという側面はあるかもしれんが」

 フォローする訳じゃないが、と、柳田は首をすくめる。

「ごめんね、マイさん。私が、この前、強引に彼女からネックレスを取り上げていれば、こんな面倒なことにはならなかったのに」

 杉野が振り返って、私に謝罪する。

「ううん。だって、確証がないのに取り上げたりできないもの」

 人魚の至宝は異性に対して呪力が働くようだから、杉野が見逃したとしても仕方がない。

「それで、これからどうするのですか?」

車は『レストラン潮風』の駐車場に静かに停車する。

「まずは、一条にかけられている魅了の呪縛を解く。そのあとから、如月を餌に、矢崎を誘い出す」

「同時でなくていいのですか?」 

 一条への魅了の呪縛が解かれたら、矢崎はさすがに気が付くのではないだろうか。

「……術を単純に返すのなら、そうする。しかし、人魚の至宝がどの程度のものか未知数だ。極力、安全に行きたい」

 柳田が渋い顔をする。

「難しいのですね」

 私がそう言うと、「ああ」と柳田が頷く。

「術を単純に返すと、至宝が壊れたり、矢崎が死ぬ可能性がある。それは、まあ、ある意味仕方がないと言えるがな。最悪は術が返し切れない場合、マイちゃんに危害が及ぶ。俺たちも、それから如月も慎重になるさ」

「私?」

 きょとんとした私に、杉野が苦笑した。

「想いの深さが呪いに変換されるって、言ったでしょ? 如月は、それはもうアブナイくらいマイさんに夢中だもの」

「そんな……」

 私は、どんな顔をしたらよいか戸惑う。ここは、喜ぶところだろうか。

「如月もその自覚があるから、自制している。魅了の呪縛を跳ねつけても、呪力が作用しているくらい強烈だからな。ま、如月なら、きっと完全に返しきってしまうだろうとは思うが」

 エンジンを止め、柳田は駐車場で車の傍らで立っていた如月に目を向けて手を上げる。

 事情は理解したものの、私と視線が合ったとたんに目を背けられ、私の胸は苦しさでいっぱいになった。

「いっそ、如月も一条と一緒に呪縛を解いて、餌は、柳田がやれば?」

「は?」

 私の顔をちらりと見て、杉野がそう呟いた。よほど、私は酷い顔をしていたのだろう。

「杉野さん、私、大丈夫ですから」

 私は慌てて、そう言ったが、杉野は首を振った。

「柳田なら、別に想い人がいないから、誰にも迷惑かからないじゃん」

「なんだよ、その決めつけは?」

 ムッとした声で柳田が抗議する。

「そもそも、俺に矢崎が興味持つとは限らないし」

「大丈夫よ。矢崎、顔が良ければ誰でも良いみたいじゃない? 金持ちの御曹司のふりして近寄れば、虚栄心の強い女みたいだもの、簡単に落ちるわよ」

 杉野はそう言ってから、柳田の顔を見つめ、ふーっと息をついた。

「……冗談よ。如月なら、ガードする相手がわかりやすいから、そのぶん楽だわ」

 それだけ言って、彼女は車から降りた。

 私は柳田の背を見る。後部座席からは、柳田の表情は読めない。

「ごめんなさい。柳田さん……私のせいで、なんだかおかしな空気にしちゃって」

「いや――杉野の言うことは一理ある」

 柳田は首をすくめた。

「あるが……俺は、如月ほどモテないから、現実的じゃない。ごめんな、マイちゃん」

「いえ」

 私は頷きながら、そんなことはないだろう、と思いながら車を降りる。

 柳田は二枚目だし、女の扱いは、如月より上手い。

 柳田が本気で落としにかかれば、矢崎でなくても、たいていの女は落ちるだろう。

 如月にべた惚れしている自覚のある私ですら、時々、柳田のバリトンボイスにクラッとすることがあるのだから。

 柳田はフリーだと公言しているが、それは恋人がいないというだけであって、想い人がいないという意味とイコールとは限らない。もし、そんなひとがいたとしたら、こんな状況で好きな人が誰かなんて他人に告白したくはないだろうと思う。

 車から降りた杉野と柳田は気まずいのか、顔をあわせない。

 如月は杉野と前を歩き、その後ろを柳田が歩き、私は柳田の後ろを歩いていく。

 必要以上に重たい空気に耐えながら、私は『レストラン潮風』の事務室へと向かったのだった。

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