外伝 如月の章

夕立

 ※如月視点。本編開始半年前です。


 久しぶりのいわゆる定時での帰宅だ。俺は、スーパーで買い出しをした。とはいえ、基本、酒と缶詰、レトルトと弁当である。最近、家に帰っていないし、明日からは、しばらく地方へ出張する予定だから、食材を買っても腐らせるだけだ。最近、式神の桔梗が、ホームフリージングに凝りはじめたとはいえ(どこでそんなものを覚えてくるのか、謎だ)、ひとり暮らし用の冷蔵庫に、あまり期待しすぎてはいけない。

 何と言っても盛夏である。夕刻でも暑い。俺は、車に買ったものを詰め込み、家路を急ぐ。

 あともう少しでマンションという辺りで、突然、空が暗くなり雨が降り出した。

――夕立かよ……。

 車に傘は置いていない。駐車場から、マンションの入り口まで、そんなに遠いものではないが、濡れずに済みそうはない。

 しかも、土砂降りである。ワイパーが必死で動いているのに、視野が悪くなるほど雨が降っている。

 服がぬれること自体はどうでも良いが、買ったものが濡れるかと思うと、テンションが下がった。

――ま。濡れて困るのは、弁当だけだが。

 ただし。ここのところの激務で疲れ切っているから、食事もエネルギー補給以上の意味はなく、水っぽくなろうがなるまいが、どうでも良いといえばどうでも良い。

 俺は、車を駐車場に止め、大地に叩きつけるように降る雨を車窓から眺めた。

――止みそうもないな。

 意を決して、車から降り、荷物を手にする。

 雨は激しく、車のドアを閉めた段階で、シャツが背中に張り付いた。

 屋根のある場所までは、ほんの少しだが、とりあえず、駐車場を駆け抜けた。

「如月さん?」

 不意に声をかけられ、びっくりして振り返った。

「あ、ごめんなさい」

 慌てたように、その女性は俺に駆け寄って、傘を差し掛ける。

「呼び止めて、かえってぬれちゃったかも」

 申し訳なさそうにそう言った。

 隣人の田中舞だった。彼女が引っ越してきて一年になる。年齢は俺と同じ二十六。派手さはなく、それほど目立つ容姿をしているわけではないが、どこか人をホッとさせる雰囲気を持っている女性だ。

「いえ、ありがとうございます」

 俺は、いくぶん緊張しながらそう言った。

 マンションのエレベータホールまで、傘をさしかけてもらって歩く必要は、ほとんどない。

 しかし、一生懸命、高い位置で傘を持って俺に差し掛けてくれることに気が付いて、胸が高鳴った。

「傘、俺、持ちますよ」

 傘を受渡しするほども距離もないのだが、俺がそう言うと、彼女は少し戸惑った顔をしたものの「お願いします」と、傘を俺に差し出した。

 単なる隣人としての親切心からしていることだとわかってはいるものの、ほんの一瞬の相合傘に、ガキのように俺の心は舞い上がった。

「本当にありがとうございました」

 俺の心とは裏腹に、あっという間に俺たちはエレベータホールにたどり着く。

「凄い雨ですね」

 大粒の雨がアスファルトの上で飛び散り、すでに川のように大地を雨水が滑っていく。

 田中舞は、どことなく心配そうに空を見上げる。

 そういえば、防魔調査室の資料に、彼女の身内は土砂災害で亡くなったと記載されていた。もちろん、ただの隣人である俺が、それを知っているはずはないから、それについて俺から話すことはできないが、豪雨は、彼女の辛い記憶を呼び戻すのだろう。

「田中さん……少し前まで、お留守でしたよね?」

 俺は、知らない風を装って、話を切り出す。

「ええ。私、ちょっとの間、入院していまして」

「どこか悪いのですか?」

 知っているくせに、わざとびっくりした顔を作る。

 妖魔に襲われた彼女に事故の記憶を植え付け、病院へ連れていったのは俺だ。当然、聞くまでもなく、どこの病院に入院していたのかも知っている。

「私、事故にあって怪我をしたんです」

 彼女は自嘲めいた口調でそう言った。

「発見して下さった人が、適切な応急処置をしてくださったので助かったのですが、危うく死にかけました」

 運がいいんです私、と恥ずかしそうに彼女が笑う。

 その言葉に、ドキリとした。怪我をして入院をしたというのに運がいいと言える彼女の強さに、思わず目を見張る。

 彼女は、そんな俺の様子に気が付かず、そっとエレベータの上行のボタンを押した。

 ポン、と音がして、エレベータの扉が開く。

「それは、災難でしたね。もう体の方は大丈夫ですか?」

 無難な言葉を選び、俺は『開』のボタンを押しながら、先にエレベータに乗りこみ、6Fのボタンを押した。

「ええ。本当に、発見して下さった方には、感謝してもしきれないけれど……」

 彼女はそう言って、首を振る。

「命の恩人が、どなたか、わからないんです」

 彼女は困ったような顔をした。

「お礼も言えてなくて。病院まで付き添って下さったそうなのに、名前も告げずに帰られたそうで」

 彼女は、事故調査をしたという警察にも問い合わせたらしい。しかし、ほんの一言、お礼を告げたいという彼女の願いは叶わなかった。

「どんなひとだったのですか?」

――君を病院に連れていったのは、俺だ。

 そう言えればどんなにいいだろうかと夢想しながら、社交辞令を装って、口にする。

「若い男性だったらしいです」

 彼女はそう言って、苦笑した。

「でも、会えなくてよかったのかもしれません」

「なぜ?」

「だって」

 彼女は、首を振る。

「たぶん複雑な事情があるのに助けてくださったってことでしょうから。それで満足しなければ、きっとその方に迷惑がかかります」

 ふんわりと透明な微笑みをうかべる彼女。彼女のこの優しい透明な微笑みは、命の恩人に向けられたもの。彼女は知らないだろうが、俺に対して、向けられた笑みなのだ。

 胸が熱くなった。妖魔退治という、人に言えぬ職業をしていて、はじめて報われたと思った。

 全てを暴露して、彼女を抱きしめたくなる衝動を必死にこらえる。

 ポンと、音がして、エレベータの扉が開く。

「今日は、その、ありがとうございました」

 エレベータを降りながら、俺は彼女に向かって頭を下げる。

「何かお礼を」と言いかけた俺を、彼女はくすりと笑った。

「お気になさらずに。そのうち助けていただくこともあるでしょうから」

 それを口実に、彼女に近づきたいという俺の下心はものの見事に散らされた。

 俺は慌てて、自分のスーパーの袋から、缶ビールをひとつ取り出した。

「えっと。じゃあ、俺から退院祝いということで」

 もっと、他にいいものがあるだろう、とは思いつつ、咄嗟にそれしか思いつかなかった。

「ありがとうございます。いただきます」

 彼女はにっこり笑って、缶ビールを受け取ってくれた。

「すみません。色気も何もなくて」

 俺がそういうと、彼女は首を振った。

「私、この銘柄好きですから。それに……」

 彼女はいたずらっぽく笑う。目がくりくりっと動いて愛らしい。

「色気があるものを隣に住んでいる女に贈ったら、カノジョさんにしかられますよ」

 おやすみなさい、と、彼女はそう言って、自分の部屋に消えていった。

――カノジョね……。

 俺は首を振る。

 どんな女を抱いても満たされなかった。それがなぜなのか、今、はっきりとわかる。

――俺は、田中さんに魅かれている。

 時間にすれば、五分ほどの彼女との会話が、俺の中で宝物のようになっていく。

 命を張った俺の戦いを彼女は覚えてはいない。それでも、彼女は、誰ともわからない誰かに感謝をしてくれている。

 俺は、彼女の笑顔を守っているのだ。

 防魔調査室の職務規定に触れるのを覚悟で、彼女を今の家に引っ越しさせて一年。

 引っ越しの前よりは減ったものの、未だ彼女は保護観察リストの筆頭人物だ。彼女を守るのは、俺の仕事だ。そして記憶操作の対象であるゆえに、必要以上の接触は禁止されている。今日のように彼女から話しかけてくれるなら別であるが。

――でも、彼女は俺に興味がなさそうだ。

 長く独り暮らしをしているが、今まで女性が隣に住むと、煩わしいほど用もないのに隣人面をされ、つきまとわれたり迷惑なほど世話を焼かれたりした。

 しかし、田中舞は、まったくそういうことがない。もちろん、会えば必ず挨拶はしてくれる。今日のようなときは、手を差し伸べてくれる。まさしく、良き隣人なのだ。

――彼女が俺に興味を持ってくれるのが早いか、俺が彼女を諦められるのが早いか……。

 今の関係を俺から崩すことは許されない。

――何にしても、今の俺は、彼女に相応しくない。

 彼女の言う、俺のカノジョは、ほぼ身体だけの関係だといったら、きっと彼女は軽蔑するだろうな、と思う。

 そして、真面目な彼女が、何度も女を部屋に連れ込む俺を警戒するのは当たり前のことだ。

――バカだな、俺は。

 感謝されないからと自棄になり、女に溺れた。

 助けた相手から、直接感謝を受け取ることはできなくても。助けた人間の笑顔を守っていると自負することはできるのだ。

 そんな簡単なことが見えなくなっていたことに気付く。

 ふと外をみれば、バケツをひっくり返したような、豪雨になっている。

 俺は首を振った。

「運が良かった」

 思わず呟く。そう。彼女に会えて、俺は運が良かった。

 雨が降っていなければ、彼女は声をかけてくれなかった。妖魔退治をしていなければ、彼女には会えなかった。

 彼女の透明な笑顔を思い出すと、くすんでいた俺のすべてに光が差し込んでくる。

――思った以上に、重症だな。

 思わず、自嘲しながら、部屋に入る。

 次に話せるのはいつだろうか。

 壁の向こうを見つめながら、俺はそう呟いた。

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