闇の慟哭

何かがスパークした。

 衝撃で、私たちは床に叩きつけられた。

 打撃の痛みと同時に、床に霜が広がり、凍り付くような冷たさが肌をつき刺す。


臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前


 如月の声が廊下に響き渡り、光が日野を焼いた。

 ぐがっと、人ならぬ声が叫び、「陽平さまっ!」と麗奈の悲鳴が重なる。 

 私は床に突っ伏した状態から、慌てて身を起こした。

 日野陽平から、のたうつように、黒い触手が何本も伸びている。

 端正な顔はそのままだが、瞳は赤色に輝き、開いた口から、牙のようなものが見えた。

「日野さんっ!」

 私は思わず声をあげる。

一瞬、日野の動きが止まったように見えた。

しかし、次の瞬間、私に向かって伸ばした手から、黒い礫のような妖気が弾き出される。

「マイ!」

 私は、如月に横抱きにされた。

 妖気の礫は、床を叩き――そして、焼く。

「陽平さま!」

 麗奈が泣きながら叫ぶ。しかし、日野の表情は変わらない。

 茶色の髪の色が、しだいに青銅のような色に変わっていく。

 もう、そこにいるのは日野陽平ではなかった。

「マイ、妖魔の力をそげ。摩利支天の真言はわかるか?」

「たぶん」

摩利支天は、太陽の陽炎を神格化したものだ。如月はあまり使わなかったが、闇に属する妖魔と相対する時、杉野や柳田が小説で使用していた記憶がある。


 オン・アニチ・マリシェイ・ソワカ


  真言を口にすると身体から熱い力が噴き出した。

 日野の身体からのびた黒い触手が、揺らめく湯気のようなそれに絡まると、ジュッとほどけるように溶けていく。


 ギンッ

 明らかな憎しみを帯びた赤い眼光が私を捕えた。

「ああっ」

 頭を殴られ続けるような痛みが走る。


『緩和』

 麗奈の声が響いて、私の身体に力が流れ込んできて、痛みがすぅっと消えていった。

「お願い! 陽平さまを助けて」

 彼女の悲痛な声が響く。

「あなたの声だけが届く。あなただけが陽平さまを!」

 切ない哀しい声。

「そんな」

 無茶だ、と思う。私には、麗奈のように泣きたいほど日野を救いたいという欲求があるわけではない。

 しかも、小説のなんちゃって霊能力者だし、実戦経験だってあるほどもない。

「マイ、俺の力を使え」

「え?」

 如月が私の腰を後ろから抱きしめた。すると、鎖骨のあたりが熱くなり、私じゃない、大きな力が私の中に満ちてくる。赤の絆を通して、如月の力が流れ込んでくるのだ。


 オン・アニチ・マリシェイ・ソワカ


 私の力と、如月の力が私の身体から噴き出す。そして、それが、日野の身体を絡め取っていく。

「日野さんっ!」

 私は、もう一度、日野の名前を呼ぶ――日野が、私にしたように、言葉に霊力を込めて。

 見様見真似だから、正しいかどうかもわからないけれど。

「日野さん、私の声が聞こえますか?」

 如月の力も借りて、呼びかける。

「戻って来てください。あなたを待っている人が、ここにいます!」

「陽平さま……」

 私と如月の霊力に絡めとられ、彼の髪の色は、ゆらゆらと明滅する様に変化し続ける。

 くっくっと、日野が笑う。

「……待っているのは、舞、あなたではないのでしょう?」

 愁いをおびた、間違いのない日野の言葉。彼の目に、如月に抱かれた私の姿が映る。

 私は言葉に詰まる。そう。私は、彼を待ってはいない。でも。

「麗奈さんなら、どんなあなたも受け止めてくれるわ」

「その女は、親父に命じられて、私に仕えているだけだ……」

 日野の顔が苦悶に歪む。

「陽平さま、それは違います!」

 麗奈が叫ぶ。

「私は、陽平さまをお慕いしております。親方様は、関係ございません!」

「……そうだとしても、お前が愛しているのは、私の才能だ」

「そんなことは!」

 泣きじゃくりながら、麗奈が訴える。

「麗奈さんはあなたの才能だけを愛しているわけじゃない。才能『も』愛しているだけ」

 私は首を振った。

「そうでなければ、自分を他の男にくれてやろうなんて言うあなたに、こんなに献身的になれるわけないじゃない!」

 つい本音がこぼれる。説得しようとしているのに、罵倒してしまう。

 許せなかった。彼女は自分の感情を押し殺してまで、日野につくしてきたのに。

「愛しているなら才能以外を見ろというの……私を口説くのに呪言を使ったくせに。私の才能に魅かれたくせに。矛盾しているわ」

 日野の動きが止まる。苦悶に満ちた顔が一瞬浮かんだ。

「ジャマヲ、スルナ女……コノ身体ハ、モウ、我ノモノ」

 日野の声ではない言葉が唇からこぼれ出る。青銅色の髪をした日野が、腕を振りおろした。鋭い妖気の刃が私の首をめがけてとんできた。

 カシーン!

 如月が手にした独鈷杵で、刃を払いのける。

「日野……お前の気持ちはわからなくもない。霊能力者は所詮、影だ。命を張って戦っても、誰からも認められることはない。この力で飯を食っていく者は、闇に生きることを宿命づけられている」

 如月がすっと、私の前に立つ。

「マイの言葉は俺も耳が痛い。俺もマイに許可もとらずに術で彼女を縛った」

 赤の絆のことだろうか。縛られた……という意識は、私にはない。

「これは私を守るためのものですよね?」

 私の言葉に如月は苦笑する。

「正確には、マイの所有権が俺にあることを妖魔に見せつけるものだ。――だから、同じだ。俺もお前も、どんなに頭で力を否定したところで、肝心なことを自分の言葉で紡がずに、力を選択してしまうことがあることは、な」

 如月は、日野を見据えたまま、独鈷所を構えた。

「本家に跡継ぎと認められないことが辛いか? 世間に胡散臭いと見られるのが辛いのか? 違うだろう? お前自身が、お前の力を捨てることも認めることもできないのが辛いのだろう?」

 日野の目が、如月を捕えている。

「俺は、舞の日常を守ることで、やっと自分の力を受け入れることが出来た。時候の挨拶で一喜一憂していた俺に比べたら、ありのままの姿を知っている女に、愛を叫んでもらえるお前は恵まれていると思うが」

 防魔調査室の規定では、記憶操作をした人間との接触は禁止されている。ゆえに、強引に私を隣人にしたものの、如月はそれ以上の接触はしなかった。田中の記憶の如月は、挨拶をすれば必ず返してくれる人ではあるが、積極的に話をした記憶はない……だから。ずっと彼に守られていたことに、私は気がつかなかった。

「マイ……チャンスは一度だ。分離する。合図をしたら、九字を切れ」

 如月が小さく呟き、私は頷いた。

「日野さん、もう一度だけ言うわ。戻ってきて。麗奈さんの傍にいてあげて。彼女は、あなたがそのまま魔に取り込まれたら、たぶん、生きてはいられない」

 私は、刀印を結びながら、日野を見る。如月がゆっくりと私から離れ、日野との間合いを詰めながら後ろへと回り込んでいく。

 青銅色の髪が一瞬だけ、茶色の光を放つ。

「陽平さま……」

 麗奈は立ち尽くしたまま動かない。

 如月が跳躍した。彼の金の独鈷所が、日野の首筋に突き刺さる。


 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前


 ぐがぁっ

 私の描いた格子が光となって、日野の身体を焼いた。

 パチン。

 如月の指が、鳴る。

 日野の身体と、別の何かがゆらゆらと揺らめく。

「陽平さま!」

 麗奈の叫び声に、日野の目が反応した。

『遊離』

 如月が突き立てた独鈷所に向かって力をおくる。


 オン・アニチ・マリシェイ・ソワカ


 私は、摩利支天の真言を唱える。執拗に日野の身体を求める妖魔の力を削ぐために。

 日野の身体が二つに割れる。青銅色の髪の日野と、茶色の髪の日野。

 そして、茶色の髪の日野がバサリ、と、床に倒れ落ちた。

「陽平さまっ!」

 麗奈が、倒れ落ちた日野に駆け寄りすがりついた。


 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前


 如月が九字を切った。

 世界が黄金に輝き――妖気が消えていった。



 

 一週間が過ぎた。

 日野は病院に搬送された。短い間とはいえ、巨大な妖魔に蝕まれた身体はダメージが大きく、現在も入院中である。防魔調査室の監視の下ではあるが、麗奈が付き添っているとのことだ。

 話によれば、現在、日野は霊力を失っているらしい。それが、一時的なものなのか、恒久的なものなのか、まだ判断が付かない。どちらにせよ、霞言流のほとんどは異界の穴を固定していた幻視のメンバーと重なり、防魔調査室にのきなみ逮捕された。彼らの声明は、結局、表に出ることはなく、霞言流は事実上、崩壊したと言っていい。

 日野の霊力がどうであれ、彼は、霞言流から解放されたのだ。

 界弾きの影響は、思ったほど大きくはなかったが、各地で小規模の災害が起きた。怪我人は何人か出たが、幸いなことに死者は出なかった。界弾きで渡ってきた最大の災厄である魔物が、結論的に言えば、日野の身体に封じられていたため、大事には至らなかったということだ。

 私は、今回の事件で今の会社を辞める決意をした。引き継ぎがあるため、実際に辞めるのは少し先になるが、会社には、『友人が起業するので』と、いう理由を貫いている。さすがに公務員とはいえ秘密機関にスカウトされているとは言えないからしかたない。

「あ、違う、マイちゃん、ここは線が二本」

「げっ、あっホント」

 田野倉の指摘で、頭を掻く。私は、会社の休日に防魔調査室で研修を受けることになった。本日は、その初日。田野倉から、様々な札の描き方を教わっている。

 とにかく、私は基礎知識が圧倒的に少ない。しかも運動能力も乏しい。今のままでは、最前線も後方支援もろくすっぽできはしない。霊力だけはあるが実戦ではほぼ使えない人材なのだ。

「やっぱり、難しいですね」

 私はため息をついて、田野倉を見上げる。

「すぐには、無理だよ。マイちゃんは、職場にいてくれるだけで、雰囲気が良くなるから、そんなに焦って覚える必要はないって」

「田野倉さん、慰めはいいです。これって、どうすれば?」

 私が筆を持ったまま聞くと、田野倉は私の背に回り手を重ねるように筆の運筆を教えてくれた。非常にわかりやすいが、ちょっと近い。私の身体がほぼ抱きすくめられて田野倉の息がかかりそうだ。これって、セクハラすれすれだよなあと思っていると、パシッと何かがぶち当たる音がした。

「いてぇ!」

 田野倉が叫び、私から離れた。ファイルが一冊、床に落ちている。どうやら、これが田野倉の背中に直撃したらしい。

「……マイにくっつくな」

 不機嫌な如月の声。振り返ると、汗を拭きながら如月と柳田が立っていた。

「指導中だぞ」と、田野倉が不満げに言うと、脇を通りすぎながら杉野が、「セクハラ坊主」と言い捨てる。

「えっと。札の運筆のご指導をしていただいていました」

 教えてもらっていたことは事実なので、私がそう言うと、柳田は首をすくめた。

「田野倉よ……まだ、こっちは幻視の残党狩りで忙しい。俺の相棒の士気を削ぐような行為は慎めよ」

「うちのエースは案外、溺愛系だからなあ」

 真田が小さく呟いたのが聞こえて、私は真っ赤になった。

「ふう。如月と柳田は、もう上がっていいぞ。一週間休みなしだったから、疲れただろう……あ、マイちゃんも、今日はそのくらいで。また、休みの前の日に連絡して」

 真田の言葉に、ふーっと、如月と柳田がのびをした。

「帰るぞ、マイ」

 当たり前のように、如月は私にそう言う。

「マイちゃん、送り狼に気をつけてね」

 田野倉が面白そうに笑いかけた。

「送るも何も……家、隣りですから」

 私が苦笑すると、田野倉は、残念なものを見るような目で、私を見た。



 如月の車に乗り、夕闇の道路を走る。

 日野の事件があってから一週間、如月と二人きりになったのは、これが初めてだった。

「食事してから、帰る?」

「はい」

 如月の質問に応えながら。まるで、一緒に住んでいるかのようなセリフだなと思い、顔が赤くなる。

「仕事なしで、マイとデートするのは、初めてだな」

 如月の顔が照れ臭そうだ。

「何を食べたい?」

 私は首を傾げる。

「如月さんは、何が食べたいですか?」

「……男に、それを聞いたらダメだって」

 如月は苦笑を浮かべた。

「どうしてですか?」

 私は端正な如月の横顔を見つめる。

「とりあえず、マイは何が食べたい?」

「オシャレでなくてもいいですか?」

 私は少し俯く。初めてのデートだからと、今さら、可愛い女の子を演じるのは無理である。

「ああ」と頷く如月に、ちょっとだけ申し訳ない気分になった。

「私、お好み焼きが食べたいです」

「いいよ」

 如月は面白そうに笑う。

「俺の知っている店でいい?」

「はい!」

 私が頷くと、如月の車は、街の中を滑るように進む。

「……それで、どうして男の人に食べたいものを聞いてはいけないのですか?」

 私の問いに、如月は首を振った。顔が少しだけ赤い。

「マンションに帰ったら、教えるよ……俺の部屋で」

 その言葉の意味することを理解して、私の全身が熱くなり、肌が朱に染まった。


ーーーーーーーーーーーーーーー


「天道寺先生、こちらでしたか!」

 今日は『闇の慟哭』のドラマ化のキャスティングが決まり、作者も同席しての記者会見である。

 まだ若いプロデューサーの鏑木は、自ら、平身低頭で、控室の大作家を呼びに来た。

「先生、最新刊読みました。いやあ、面白かったです!」

 鏑木の言葉を、天道寺は社交辞令として聞き流す。

「先生が、ドラマのキャスティングで田中舞にこだわった理由がようやくわかりましたよ」

 くすくすと、鏑木は笑う。

「最新刊読むまで、どうして田中役にオーディションが必要なのか理解不能でしたから」

 ニヤリ、と初めて天道寺は笑った。

「あの結末にするのに、編集と随分喧嘩してね」

 最初の原稿を書いてから編集の意向で、五回ほど改稿したものの、結局、当初の内容に戻した、と天道寺は苦笑した。

「担当が変わって、ようやく出版することが出来たのさ」

「いや、僕も、あの展開は驚きでした」

 鏑木は、持っていた本をポンと叩く。

「田中舞に決まった、女の子の事務所、大騒ぎですよ」

「まあ、そうだろうね」

 天道寺はふーっと息をついた。

 このドラマのオーディションが行われたのは、最終巻発売の前である。

 その時点で、田中舞という役名に決定したと言われても、少しも嬉しくはなかっただろう。

「まさか、最終巻のヒロインが、田中舞だなんて予想しませんでしたよ。しかも、かつてない純愛路線。編集さんが反対なさったのも、わかります」

 鏑木は、くすくすと笑った。

「如月みたいなモテ男でも、結局、最後に選ぶのは、平凡で身近な女というのは、案外リアルかもしれません」

「まあね」

 天道寺はニヤリと笑った。

「僕、昔、大学の後輩で気になっていた女の子が、ちょうど田中舞みたいな雰囲気の子でね。懐かしくって」

「ほう」

 天道寺は面白そうに鏑木を見た。

「サークルが一緒で話しているうちに、いいなって思って、アプローチしていたけど、暖簾に腕押しって感じで相手にされなくって。ま、彼女とは何もなく終わったンですけど……」

 その後、彼女は実家に不幸があって、サークル活動には全く出てこなくなり会うことはなくなった、と鏑木は言い、遠い目をした。

「その子、偶然にも、『まい』って名前で。漢字は違うけど。そう、田中じゃないけど、やっぱり珍しくない名字でね。鈴木麻衣って名前なんですよ」

 鏑木は面白そうにそういった。

「鈴木麻衣? え? 写真はある? 見てみたい」

 天道寺は急に目を輝かせる。明らかに好奇心を刺激されたような表情だ。

「写真ですか? さすがに……。実家に帰れば昔の写真があるかもしれませんけど」

 大作家の不意の食いつきに、鏑木は戸惑う。

「今度見せて」

「え? あ、はい」

 鏑木は頷きながら、次にこの作家に会う前に実家に帰れるだろうかと、頭をひねった。

「それでは、会見の方、よろしくお願いします」

 記者会見の会場に近づき、鏑木は深々と頭を下げ、天道寺から離れていった。

「鈴木麻衣か……まさかね」

 天道寺は首を振る。『闇の慟哭』は、天道寺の見た夢をもとに、書いた小説だ。

 昔から天道寺は、妙に現実感のある夢を見る。それは何も、闇の慟哭に描いた世界だけではない。天道寺は、その夢をもとに、自らのストーリーを編上げる。

 『闇の慟哭』の主人公のモデルとなった如月悟は、小説よりも、ずっと一途な男だ。

「読者アンケートも、評判、良いみたいだし。真実は強しってか?」

 天道寺は独り言ちながら、最終話でヒロインを田中舞にしたとき猛反対した担当の顔を想い出す。

――だって、如月は本当に田中を選ぶんだぜ。

 何度、そう言いたかったことか。

 昨日、久しぶりに如月たちの夢を見た。

 すっかりバカップルぶりが板についていた。田中の顔を見る如月の面差しに、彼を始めて見た時の暗い陰りはない。

 彼は、もう、闇の中で慟哭することはないのだ。

 天道寺は、記者会見会場に足を踏み入れた。

 

 <了>

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