界弾き

 苦しい。

 闇色の鳥の爪が、身体に突き刺さり、大きなくちばしが、私の頭を捕えようとしている。

『縛』

 バリトンボイスが闇の中で響き渡り、鳥の動きが止まったのを見ながら、テノールの声がそれに続く。


臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前


 世界が光に包まれた。

『如月さん?』

 その端正な顔には見覚えがあった。

『救急車を呼ぶ。あまり動くな』

 そう言いながら、彼は私の傷に手をあて、何事かを呟いた。

 すぅーっと痛みが消えていく。

『いいなあ、お前、名前を呼んでもらえるようになったのか』

『隣人だからな』

 如月の声はなんとなく嬉しそうだ。

『不幸だったな。ガラスの破片が降ってきた』

 ポツリ、と、如月が呟くように言いながら私の額に手を置いた。

 頭が痺れて……優しい力が流れて、世界が暗転していく……。




 頭が割れそうに痛い。

 ジンジンする痛みをこらえ、目を開けると、秀麗な日野の顔が間近にあった。

 私は、ベッドに寝かされていて、日野は私にまたがっている状態で、私に顔を近づける。

「嫌っ!」

 声に出して拒絶を試みるが、身体は、痺れたように動かない。

「おや、もう、覚醒してしまいましたか」

 日野は、私の耳元に口を寄せる。

「お愉しみはこれからです。大人しくしていてください」

「何を」するのかと問いかけようとすると、日野の唇が私の唇を塞いだ。

 ぞくりとして、恐怖が体中を走る。

 目の前の日野の目に欲情が浮かんでいる。

「恋しい女を男がどうしたいかって、説明しないとわかりませんかね?」

 くすり、と日野は笑い、私のワンピースを慣れた手つきで脱がしていく。

「これでも、私は貴女に夢中なのですよ。そうでなければ、あんな面倒な男と関わりたくはない」

 日野は、首をすくめた。

「やめて……」

 私は、それだけをやっと口にする。頭が痺れて痛い。

「なぜ、そこまで私を拒絶するのです?」

 こぼれ落ちた私の涙を、日野の手が拭う。

「あの男と、私に、それ程の違いはないはず」

 不満げな顔のまま、日野はもう一度唇を押し付けた。

「如月さんは……あなたとは」

 私は、必死で、日野から顔を背ける。日野の手が、ブラジャーに手をかけ、乳房がこぼれ出た。

 身体が恐怖に震える。

 動かない手足を無理やりに動かそうと、私はあがいた。

――マイ!

 不意に頭の中に如月の声が響く。

 鎖骨の赤の絆の痕が熱を持った。

――マイ! 俺を呼べ! 

 如月の優しい力が、絆から流れてきて、痺れが溶けていく。

「如月さん! 助けて!」

 空気がビリビリと振動した。何かがはっきりと崩れるような音。

 世界が淡く金色に発光する。

「くそっ」

 日野は顔をしかめた。

 光が消えていき、ゆっくりと元の色を取り戻すと、ガチャリ、と扉が開く音がした。

 ベッドに押し付けられたまま、視線をむける。

「陽平さま……」

 如月が、美女とともに入ってきた。先ほどの女だ。しかし、表情は青く、憔悴しきっている。

 助けを乞うような光を瞳に浮かべて、日野を見上げている。

「マイを返せ」

 有無を言わさぬ口調。如月の眼光が鋭い。

 私と目があって、更にその光が険しくなった。

「もう一度だけ、言う。マイを返せ」

「嫌です」

 日野は、私を抱き起しながら肩を抱く。

 逃れようと足掻いたが、強い力で物理的に締めあげられて、抵抗を封じられる。

「麗奈を代わりに差し上げます。なかなかにイイ女でしょう?」

「陽平さま……」

 日野の言葉に、泣きそうな女性の呟き。

「最低だな」

 如月が呟く。

「何と言われても構いません。舞は、私を選ぶと『約束』したのだから」

 ジンジンと頭が痺れる。

「本当に彼女に惚れているなら、なぜ、術で縛る? 心のない木偶人形に愛されて満足ならば、誰でもいいだろう?」

 じわじわと大気に力が満ちてくる。如月と日野の力が、水面下で激しくぶつかりあい、霊気がしみて、ビリビリと肌がしびれてきた。

 くっくっと、日野が笑う。

「木偶であろうが、傀儡であろうが、私は彼女が欲しい。」

日野は私の鎖骨をそっと指で示す。

「術で彼女を縛っているのはそちらも同じでしょう?」

 日野の言葉に、如月が顔をしかめる。

「俺の術は、彼女が受け入れなければ発動しない」

 お前とは違う、と如月は日野を睨みつけた。

「私の術も、彼女自身が受け入れているからこそ、効くのです」

 ニヤニヤと日野が笑う。

 私が、受け入れている……。

 ビリビリと痺れる。私は、日野の言葉を受け入れたのだろうか?

「深い霊傷を与えて、塩を塗りこむような手口を、承諾と呼ぶのか?」

「傷を負わせたのは、私じゃない。」

 日野は私を抱きしめたまま、手を伸ばす。

 ずんっと空気がきしむ音がする。

 気温が下がっていく。

 ビリビリと痛む肌。

 力が、走る。刃のような霊気が、パシンと、撃ちあったのがわかった。

 巨大な力と力がぶつかりあっている。

 このままでは、どちらかが死ぬ。そう思った。

「もういいです…如月さん」

 私は、擦れる声を振り絞る。涙がこぼれた。

「来てくださってありがとうございます。本当にうれしかった」

「マイ?」

 戸惑う如月に、私は微笑む。

「こんな意味のない戦い、する必要ありません。如月さんにはしなくてはいけないことがいっぱいあるのだもの」

 ここにいたって、気が付いたことがある。

 身体の持ち主である田中舞ならば、鈴木麻衣を弾くことは可能かもしれない。鈴木麻衣はどうなってしまうのかわからないけれど、田中舞は、もとの自分に戻ることが出来る。

「日野さん、異界人の私がいなくなった私は、あなたにとって価値があるかしら」

 鈴木麻衣がここにいるから。田中舞ひとりに戻れば、霊力もないただの市民だ。如月との距離も、ただの隣人に戻る。

 こんなにせつない想いをしなくてもいい。私の為に如月が戦う必要もない。

「だめだ、マイ! やめろ!」

 私は、私に向かって九字を切る。そう。これで吹き飛ぶはずだ。何より、鈴木麻衣がそう望んでいるのだから。たとえ、ふたりのマイが共倒れになったところで、構わない。

「何を?」

 日野は私が何をしようとしているのかわからないようだ。


臨・兵・闘・者


「やめろ! マイ! 俺を置いていくな……行かないでくれ」

 如月が叫ぶ。なぜそんなふうに叫ぶの?

 その時、ヒシヒシと大気がきしんだ。肌を刺すような妖気がじわじわと広がる。

「陽平さま、界弾きが!」

「なっ!」

 地震のような激しい揺れを感じた。

 私は、立っていられずによろめき、日野の手を離れた。

 如月が奪うように、私の身体を受け止める。

 空間がのたうつように揺れる。黒い霧のようなシミが宙に広がり、強い妖気が吹き込んできた。

 調度品である、ベッドや机が横倒しになり、私は如月に抱えられたまま、その陰に隠れた。

「舞!」

「陽平さま、いけません!」

 私に手を伸ばそうとした日野を、麗奈が必死で部屋の反対側の物陰に引き戻す。

 地震と竜巻がいっぺんに来たような状態だ。

 異界から吹き込む風が、私を誘う。あの日のエレベータに乗った自分の姿が、脳裏に映る。

「マイ! 頼むから……俺の傍に居てくれ」

 鎖骨が熱い。私はぼうっとしながら、私を呼ぶ如月を見つめた。

「やっと、陽の光に当たれた。やっと、戦う意味が見つかったんだ」

 帰るなら、今だ。今しかない、と本能で直感する……でも。

「マイが好きだ。マイがいないと、だめなんだ……」

 私の身体を締め付けるように如月は抱きしめる。

「如月さん……」

 日野の術に痺れた頭の痛みが、引いていく。

 私は、懐かしい世界にサヨナラを告げる……もう、戻らない。

「如月さん」

 私は、如月にしがみついた。

「陽平さまっ!」

 部屋の向こう側で、麗奈の悲鳴のような叫び声が響き渡った。

 突然、大きな力が大気中に膨れ上がり、何かが弾けた。

 私は、如月の腕の中で意識を失った。



「マイ、大丈夫か?」

 如月の声に、意識を取り戻すと、部屋は不思議と元のままだった。

「界弾きは、次元が歪むときにのみ激しい変化を感じるが、実際に物理的な変化は少ない」

「そうみたいですね……」

 倒れたはずのベッドも、机も、最初からあった場所にある。

「日野さんは?」

 私の問いに、如月は首を振った。

「わからない。界弾きが終わる寸前、かなり強い妖気を持った奴が渡ってきた。俺は結界を張るので精いっぱいだったから状況がわからない。気が付いたら、日野も、女も消えていた」

「……そうですか」

 早々に気を失ってしまった自分が情けない。こんな有様で、本当に霊能者として生きていけるのだろうか。

「被害は、どの程度だったのでしょう?」

「わからん。界弾きそのものより、どの程度、妖魔が渡ってきた方が問題だな」

 如月は窓の外の光景に目をやる。ホテルの窓の外は、レイクビューで、キラキラとした美しい湖が見えている。

「とりあえず、本部に連絡をするが、その前に」

 如月は、私の身体を見て……顔を赤らめて、動きを止める。

「マイ、服を着てくれ」

「え、あ、すみません」

 私はほぼ半裸状態であったことを思い出した。

 如月が背を向けている間に、私は服装を整える。こんな状況なのに、ふたりきりであることを意識して、ドキドキした。

「ああ。俺だ、どうだ、様子は?」

 如月は、私に背を向けたまま、電話をしている。

「そうか。わかった。すぐに戻る。大丈夫だ、マイも連れていく」

 いつもと変わらない如月に、先ほどの告白は界弾きの最中にみた白昼夢だったのではないだろうかと思う。

 それでも、頭の芯の痺れはすっかり消えている。明らかに、呪言の影響は消えた。

「本部に戻る」

 電話が終わると、如月はそう言いながら、私の手を握った。

 第五章、界弾きのラストシーンは、妖魔降臨。暗雲たちこめた夜空を見上げた如月で終わる。

 許されるなら。

 ――その瞬間に、隣で彼を支えたい。

「厄介なことになりそうだ。マイも来てくれ」

「はい」

 私は頷く。ここから先は、未知の現実――。

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