第四章 溺愛の泉

麺つゆが無くて。

「田中さん、お客さんにお茶、持って行ってもらえる?」

「はい」

 社長夫人、山村まどかに言われて、私はキーボードを打つ手をとめた。

 事務所の奥に作られた応接室に、大手の商社さんが商談に訪れている。普段、そういったお客にお茶を出すのは、事務の綺麗どころである白石美紅しらいしみくの役割なのだが、あいにく、彼女はお休みである。

 給湯室で、お湯を沸かしながら、ふと思う。

 今日は暑い。いくら冷房が利いていても、熱いお茶を飲みたいと思うのだろうか。

――いや、でも、冷たいのがダメって人もいるしなあ。

 冷茶は一応、冷蔵庫に入っている。

――面倒だから、両方、持っていこう。

 選んでもらえばいいやと思い、お茶菓子とともに、冷茶と熱いお茶の両方を持って、私は応接室の扉をノックした。

「田中です。お茶をお持ちしました」

 入っていいという社長の声を確認し、私は応接室に入って、一礼する。

 応接室のソファーには、うちの山村社長と、熊田、それと、商社のお客様が座っている。

「熱いお茶と、冷たいお茶、どちらがよろしいですか?」

 私が問いかけると、お客様は私をじっと見上げた。

 非常に端正な顔立ちの男性である。少しキツネ目であるけれど、それはそれで、クールで知的な感じだ。

 あまりにジッと見上げられて、少々、居心地が悪くなり、私は曖昧に微笑む。そんなにおかしな行動をとったのだろうかと、自分の行動を振り返る。

「……冷たいのを」

 そうか。このは迷っていたのか、と納得して。

 私はほっとして、笑みを返し、カランと氷が音を立てる冷茶を、そして、社長と熊田の前にも、お茶とお茶菓子を置いた。

「失礼しました」

 静かに一礼して、私は、応接室を後にした。

 どうということのない、日常の風景――後から思えば、これが全ての発端であった。



「食品物産イベントの営業アシスタント?」

 私は耳を疑った。

 定時間際の、夕刻である。

 たまった伝票を片づけようとしていたところを社長に呼び出された。

 社長の隣には、不機嫌な様子の熊田。

「それは、事務的な意味で?」

 私がそう言うと、社長は首を振った。

「いや、川森商事さんが、田中君を気にいってね。今回のイベントに参加させてもらう条件に、君を担当にしてくれと言ってきてね……いや、それ以外は、もう、うちには有難い条件ばかりなんで、断れない感じなんだ」

 社長は、すまないね、とそう言って笑った。

「あの……私、営業経験ゼロ、営業的コミュ能力ゼロの人間ですが」

 私は呆気にとられてそう言った。

「だから、熊田のアシスタントってことで」

「絶対、無理だと思います」

 社長に言うセリフではないと思いつつ、私はそう言いきった。

「……そもそもどうして、私ですか? 私、川森商事さんの担当をしたことないですけど」

 電話一本掛けたことがない気がする。

「今日、お茶を持ってきてくれたじゃないか」

 社長がにっこり笑った。

「川森商事さんの次長さんで、郡山こおりやまさんというかたなのだが、君に一目ぼれしたらしい」

「は?」

 私は、聞きなれない単語を聞いた気がして、首を傾げた。

 ヒトメボレって、コメの銘柄ですが何か? と本気で口にしそうになる。

「どなたかと間違えていらっしゃるのでは?」

 私はどうにも納得がいかず、熊田を見る。熊田は、不機嫌そうに顔をしかめるばかりだ。

「イベントまでの商談の時に、同席するだけでいい。頼むよ」

 社長が私に頭を下げる。なんだろう。この強制イベント感は。

 しかも、川森商事って大企業なのに、いいのかね、その公私混同な条件。意味がわからない。

「うちの会社の運命は田中君にかかっているっ!」

 そんなアホな、と思う。

 なんだか、最近のオーバーワークぎみな私の人生の荒波が、ついに会社までやってきたか、という感じである。

「……郡山さんに良い眼科をおすすめになったほうが良いと、私は思いますが」

 社長の目が、泣きそうである。

「わかりましたが……熊田さんについていくだけです。仕事を期待されても困りますよ」

 私は渋々了承して、ため息をついた。




「メンツユがない……」

 私は、冷蔵庫から液体が底を這うような麺つゆの瓶を見て、がっくりと肩を落とした。

 ソーメンが茹で上がり、付け合わせもできあがったというのに。

 今日は、いろいろついていない。

「仕方ない。コンビニで買ってこよう」

 現在、午後七時半。もちろん、じぶんでソーメンつゆを作るという選択もあるが、だしを取る気力がわかなかった。

 コンビニは、マンションから五分以内。それに、如月がつけてくれた赤の絆とやらのおかげで、最近は妖魔に会うことがなくなった。(でも、一週間以上たつのに、まだ痕が消えない……)

 私は、鞄をもって、外に出る。

 夏ということもあって、まだ明るくて、ほっとしながら、エレベータホールで、エレベータを待つ。

――しかし、郡山さん、何を考えているのかねえ。

 あのひと、実は妖魔とか幽霊とかいうオチだったりして。そう独りごちて、首をすくめる。

 直接告白されたわけではないから、社長の勘違いかもしれない。如月ほどではないにしろ、あれほどの美形が、私にヒトメボレなんて、悪い冗談だと思う。

 ポンっ と、音がして、エレベータの扉が開いた。

「あ」

 如月悟が美しい美女と一緒にのっていた。モデルのように美しい女性は、髪を栗色に染めている。長い睫がお人形のようだ。

 仲睦まじそうに、美女が如月の手を握っているのに気が付いた。 

――ああ。これは、第四章、溺愛の泉だ。

 私は確信した。

 これまで、現実は小説とは、大きく違った姿を見せてはいたけれど、このシーンは間違いなく田中のシーンだ。

 そう。こうやって、田中は如月と美女が仲睦まじく部屋に入っていくのを目撃するのだ。

「マイ」

 如月は慌てて美女の手を振り払った。美女は不思議そうに如月の顔を見る。

「こんばんは」

 私は、無表情を装って、挨拶をした。

 パッとエレベータの進行方向が下に切り替わったので、私は如月たちと入れ替わって、慌ててエレベータに乗り込む。

「こんな時間にどこへ?」

 如月が閉まりかける扉に向かって声をかけてきた。

 私が答えるより先に、扉が閉まる。

 私はエレベータの壁に寄り掛かった。

――第四章、スタートか……。

 始まってほしくなどなかった。

 第四章は、第三章の爽やか路線の反動なのか、如月とゲストヒロイン杉野亜弥すぎのあやの濃厚なラブシーンから始まる。

 そう、私こと、田中に目撃された後、ふたりは如月の部屋で、かなりのページ数を費やして濡れ場を繰り広げるのだ。

 あくまで小説情報であるが、杉野亜弥は如月の昔の恋人で、現在は、フリーの霊能力者。久しぶりに仕事で再会した二人は、とりあえず夜のお愉しみで旧交を温めるのだ。

 そして二人が臨む事件は、ある旧家を蝕む呪いによる、連続変死事件を中心に進む。

――あのひとが、杉野亜弥かどうかは別として。

 仲睦まじく握っていた手は、ふたりの関係を物語っていた。

そもそも、如月が女性を部屋に連れ込むのを見たのだって、田中舞は初めてではない。最近こそなかったものの、前は結構な頻度で目撃していたのだ。

――如月悟だもん。モテるのは当たり前だよね。

 ここのところ、如月との距離が縮まりすぎていて、自分の中の勘違いが膨らみすぎていたけど。

――私は、隣の田中だから。ただの、隣人枠のモブだものね。

 ストーリー補正の気まぐれで、なぜかキスシーンまであったけど。

 いや、あれだって『赤の絆』をつけるためだけにしたことだったかもしれない。 もしそうなら、あんなに濃厚なキスをしないでほしかった。そうすれば、私は簡単に隣人枠に戻ることが出来たのに。

 エレベータが一階につくころ。私の頬は涙でぬれていた。手で、ゴシゴシと涙をふく。

 勘違いしないように、ずっとずっと気をつけていたのに。

 惹かれていく気持ちは止められなかったようだ。

――バカみたい

 自嘲しながら。私は夜道をフラフラと歩き始めた。



 コンビニで良かったのに、フラフラと気が付くと、商店街のスーパーまで歩いていた。

「あれ? マイちゃん」

 低いバリトンの声に呼び止められ、振り返る。

「柳田さん」

 柳田は、仕事帰りなのかスーツ姿である。

「こんな時間にどこ行くの?」

 問われて、私は当初の目的を思い出した。

「えっと。めんつゆを買いに来たんです。ソーメン食べようと思ったら、つゆがなくって」

「ソーメンかあ。いいねえ」

 柳田はそう言った。

「ね、俺にも食わせて」

「は?」

 私は柳田の顔を見上げる。

「飯食おうと思って、店、捜していたところでさ」

「だったら、お店に入ればいいじゃないですか?」

 私がそう言うと、柳田は首をすくめる。

「外食の多い独り身だから、家庭の味に飢えていてね」

「ソーメンと市販のめんつゆに、家庭の味があるとは到底思えませんが」

 私は首をすくめた。

「ホイホイ女の家に上がったりしていると、彼女に叱られますよ?」

 私がそう言うと、柳田は嬉しそうな顔をした。

「大丈夫。俺、フリーだから」

 如月といい柳田といい、美形と言う人種は、彼女でもない女の家で飯を食うことに抵抗はないらしい。

 というか、『防魔調査室』って、食事環境、悪いのだろうか?

――ま。今、ひとりであの部屋に帰るのも嫌だしな。

 ふと、そんな気持ちがよぎる。

 壁の向こうで、如月が女性と愛しあっていると思うと、辛すぎる。

 ふう、と私は息を吐く。

「ソーメンしかないですから。それで良ければ」

「もちろん。マイちゃんが作ってくれるなら、カップ麺でも嬉しいから」

 痺れるバリトンボイスは、ほとんど殺し文句である。

 このひと、何人この声で女を落としているのだろう。私はため息をついた。



 結局、柳田も一緒に食べるということなので、もう一度麺をゆでた。

 しかも、家庭の味とか言われてしまったので、かぼちゃの煮つけも新たに作る。

「エプロン姿のマイちゃん、いいねえ」

「心にもないことばっかり言っていると、夕飯代、請求しますよ」

「お金払ったら、毎日来てもいい?」

 何を言っても、柳田のほうが上手である。私はふうっと溜息をついて、食卓テーブルを整えた。

 それにしても、なぜ、私が柳田の飯を作らねばならないのか。

 私と柳田の関係は……隣人の会社の同僚である。

「そろそろかなあ」

 柳田が時計の針を見て、そうのたまわった。

「何が?」と、私が聞こうとしたら、ピンポンと玄関のベルが鳴った。さらにドンドンとノックする音がする。

 随分と切羽詰った感じがする。

「はい」

 こんな時間に何だろうと思い、玄関の扉を開けた。

「マイっ! 無事か?」

 血相を変えた如月が、そこに立っていた。

「へ? 如月さん?」

 何のことかわからず、きょとんとすると、後ろで柳田が大爆笑している。

「柳田、てめぇ」

 如月が、目をつり上げる。

「飯を食ってくるから、遅れるって言ったくせに、ここで何してやがる」

「だって、飯、ここで食べるから」

 しれっと柳田が答えると、如月が私を睨みつけた。

「メンツユ買いに行ったときに偶然会いまして。どうしてもソーメンを食べたいとおっしゃったので」

「……相変わらず、無防備にもほどがある」

 ブツブツと如月は呟く。

「で、ソーメン食べるだけに、何故、結界なんか張った?」

「結界?」

 私は何のことだかわからず首を傾げると、苦しそうに柳田が笑った。

「だって、せっかくマイちゃんといっしょに食べるごはんだから。お前の式神に邪魔されたくなかったからだよ」

「お前というやつは……」

 如月の目がとても冷たい怒りに満ちている。

「柳田さん、お仕事だったのですか?」

 私の言葉に、柳田はまあね、と答える。

 私は、ため息を一つ着いて、首を振った。仕事サボって、隣りで飯食っていたら、そりゃあ怒るだろうと思う。

「如月さん、申し訳ないケド、ご飯がすむまで待ってください」

 ムッとした顔で如月が睨む。まあ、気持ちはわかるけど。

「作ってしまいましたから。私一人で食べられないもの。残したらもったいないから、食べていってもらわないと困ります」

「じゃあ、俺も食べる」

「は?」

 如月は、私の返事を聞く前に、靴を脱いであがりこむ。

「なんか、美味そうで腹が立つ」

 食卓テーブルを見た如月の顔は不機嫌なままだ。

 なぜ、美味しそうだと、腹が立つのか。しかも、なぜ、如月も食べることになったのだろう。

「如月さん、お客さんがいらっしゃるのでは?」

 私がそう言うと、「そもそもアレは客じゃないし」と私の顔をじっと見ながらそう答える。

「……柳田が遅いから、もう帰した」

「あら、杉野、帰ったの?」

 柳田が不思議そうな顔をした。

「ああ、杉野っていうのは、如月の元カノで、『防魔調査室』の派遣社員みたいなものね」

「柳田」

 余計なことを、と言いたげな如月。

「元カノさんですか。美人さんでしたし、仲も良さそうでしたし、お似合いだと思いましたよ」

 私は、如月に背を向ける。平静を装った言葉は、ほとんど棒読みのセリフのようになってしまった。

「マイ、俺と杉野は、もう何の関係もない」

「……如月さんも食べるなら、もう一度麺をゆでなくては。おかずはもう、作りませんけど」

 如月の言葉に応えず、私は、あたふたと台所仕事を始める。

 言い訳なんてしなくていいと思う。

 だって、私、ただの隣人なのだから。時々、飯屋にクラスチェンジするみたいだけどそれだけだ。

「如月、悪い。なんかブリザード吹かせちゃった」

 柳田が、ぼそりと呟いた。

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