ヒロインはどこへ?

 私は、男を見据えたまま、じりじりと後退した。

 バッと反転し、マンションのほうへと、走り出す。

「おやおや、走ると危ないですよ」

 子供でもあやすかのような、男の声。

 ふわっ

 疾走しようとする私の前に、あの小鬼が舞い降りた。

 かっと、赤い口が開く。銀の眼が私の姿を捕えている。

 びくりとして、足の止まった私の背に、男の足音が迫る。

 頭が真っ白になる。恐怖で膝が鳴り始めた。

 ――どうして?

 ここが、『闇の慟哭』の世界だからといって、私は脇役の田中なのだ。田中にとって、この世界は鈴木の世界と同じで、化け物などいない、平和な日本のはずだ。

「とても、貴女が美味しそうなので。ぜひ、食べさせていただきたいのです」

 男はそう言って、私を背後から羽交い絞めにしようとした。

「いやっ!」

 私は、咄嗟に鞄を男に向かって投げつけた。

 バシッと音を立て、鞄が男の顔にぶつかる。

 後ろには得体のしれない男。前方には、小さな小鬼。

 ――魔物が見えるとしたら、ひょっとして。

 半ばやけくそで。私は、人差し指と中指を伸ばし、刀印を結んだ。

 正式な印の結び方はしらないが、小説で如月が多用した、早九字護身という格子を描く方法なら、なんとかわかる。


 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前


 最後の横線を引き終わったその時、宙に書いたはずの格子模様が淡い光を放ち、小鬼に向かってはしった。

 ぐわっ

 小鬼が苦痛の声をあげ、憎悪の視線を私に向けた。

「ほう、素晴らしい。霊力もお持ちなのですね」

 小鬼に気を取られた一瞬に、私は背中から抱き付かれた。首筋に、男の生暖かい息がかかる。

 逃げたいのに。

 あまりの恐怖に、私は動けない。

「臨・兵・闘・者」

 闇の中に、テノールの声が響く。まるでエコーがかかっているかのようだ。

「 皆・陣・列・在・前」

 白銀の光が宙を射るように線を描き、小鬼に突き刺さった。

 ぎゃおーぅ

 断末魔の叫びをあげ、小鬼が蒸発するかのように光とともに消えていった。

「なっ」

 男が、驚愕の声をあげる。

「その人を離しなさい」

 静かに男の声が告げる。闇の中からすらりとした男性の姿が浮かび上がった。

「如月さん?」

 暗闇に、彼が手にした独鈷杵が煌めいた。

 男は私を如月の進路をふさぐように突き飛ばす。

 ぎゃっ、と、全く可愛くない悲鳴を私は上げて、如月の胸に倒れこむ。

 ぐおん、と男のいた場所で、音がしたかと思うと、漆黒の闇が男にまとわりついて、男の姿が見えなくなった。

「……逃げられた」

 如月は、悔しそうに闇を見つめた。



「大丈夫?」

 優しい声で問いかけられ、私は我に返った。

 ふと見上げると、如月の長い睫に気付く。同じ人間とは思えない造形だな、と思う。

 そして、自分が完全に如月の胸に倒れこんでいるのに気が付いた。

「す、すみませんでした!」

 慌てて、身を起こそうとして、足に力が入らないことに気が付く。へなへなと倒れこみそうになるのを、如月に支えられた。

「どうした?」

「こ、腰が……抜けたみたいで……」

 私がそう言うと如月がニコリと笑いかけた。

「無理もないな。間に合ってよかったよ」

 すっと、如月の手が私のおでこにのび、前髪をかきあげた。

「あの……記憶、消すのですか?」

 額に載せられた手の感触に覚えがある。

「そうできればいいのだけど、無理だな」

 如月は苦笑した。

「君の魂は二つの魂が重なっている。記憶操作を試みたところで、どちらかの魂は必ず覚えている」

 言いながら、如月は私の身体を抱き上げた。お姫様だっこというやつだ。

 私は、自分のおかれた状況に気が付いて、顔が真っ赤になった。

「き、如月さん、お、降ろしてください」

 この状況はマズイ。

 如月親衛隊に殺される……って、それは鈴木の世界の話だけど。

 優秀なファンというのは、スターと距離を置いて、むやみに追いかけてはいけないのだ。

(た○らヅカファンを見よ!)

 程よい距離感を保ち、節度ある態度でスターの幸せを応援し、願う。それがファンのあるべき姿で。

「腰、抜けたのなら、歩けないだろ?」

「……申し訳ありません」

 先ほど、恐怖で凍りそうだった血液が、グラグラ沸騰しそうで、色っぽい状況じゃないことを理解しているのに胸がバクバクする。

 ――うーっ。これは、お隣さん特権? こんな場面、小説にはなかったはずなのに。

 そもそも、田中が魔物に襲われるのは、プロローグの一回だけのはずだ。

 それなのに、自分も魔物と戦ったり、如月に姫抱きにされたり、田中の出番増えすぎだ。オーバーワークである。

 ――それに、ヒロインはどうしたの? 如月がこんなところで私にかまっていたら、さやかさんは、大丈夫なのかしら? 

 第一話は、ヒロイン雪野さやかに執着したストーカーが、異界渡りの力を使い、何度も彼女を襲うのだ。

 凛とした大人の美しい女性である、さやかは高校時代からの私のアコガレであった。

 闇の慟哭シリーズ歴代ヒロインの中でも、彼女のファンは多い。私のせいで、彼女の身に何かあってはたいへんである。

 結局。

 お姫様抱っこのまま、私は自分の部屋の前まで送られてしまった。

「詳細は、明日、ゆっくり聞かせてもらうよ。今日は、とりあえず休んで」

 如月はそういうと、パチンと指を鳴らした。

 ふわりと壁から清楚な和服美人が抜け出てくる。

「桔梗、扉を開けろ」

「承知しました」

 桔梗は、もう一度壁に消え、我が家のドアの内鍵をあけて、私たちを迎え入れる。

 うちの防犯とかプライバシーとか、いろいろ気にはなったが、腰が抜けて歩けないので、如月に抱きかかえられたままの状態で、ベッドまで運ばれる。

「ゆっくり休んで」

 私をベッドに寝かすと、にこりと如月が笑った。

「桔梗、一晩、彼女についててやってくれ」

「言われなくても、マイちゃんのことは私が守るから安心してください」

 桔梗はそう言って私の傍らに腰かけた。

 彼女の優しい手が、私の顔をなでてくれると、心が不思議と落ち着いてきた。

 式神でもなんでも。誰かが付いていてくれる、そう思うと嬉しかった。

「汗かいちゃったね、マイちゃん、寝る前にお着替えできる?」

「そうね……そうするわ」

 桔梗に優しく微笑まれ、私は支えられながら身を起こし、ブラウスのボタンに手をかけた。

「……悟さま、いつまでここにいるつもりで?」

 桔梗がものすごい目で、まだベッドの傍らに立ったままだった如月を睨み付けた。

「へ?」

 とうに帰ったと思った如月の姿に、私はびっくりする。そう言えば、帰った様子はなかったけれど、長居する理由は彼には全くないわけで。

 顔を朱に染めた如月の視線が、無意識に外した私の胸元に向けられていたのに気が付いて、私は慌てて前を閉じた。

「ご、ごめん」

 少年のように戸惑った顔でそういうと、如月は慌てて帰っていった。

「油断も隙もない」

 桔梗はそう呟き、「スケベ男はどーしようもないわね」と、ため息をついた。

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