日常と、非日常

 朝八時。私は大慌てで服装を整える。

 本日、金曜日は、可燃物ゴミの日である。異世界トリップをした翌日に、ゴミの日だ。

 生活臭丸出しである。しかし、異世界に来た鈴木はともかく、田中には、綿々と続く『日常生活』というものがある。鈴木が居座ろうが、元の世界に帰ろうが、田中は田中の生活を守らなければならない。

 ……こうした、他人様にはバカげた葛藤を脳内で繰り広げながら、私は小走りでゴミを集積場に置きにいった。

 マンションの駐車場の傍につくられた集積場には、ゴミ袋が積み上げられている。私の少し前を、男性がゴミ袋を持って歩いていた。出勤前らしい、シャツとスラックスという出で立ちで、黒い鞄を脇に挟んでいる。すらりとした立ち姿が、ゴミを持っているのに美しいと感じるような姿勢の良さ。

「おはようございます」

 声をかけながら、男性の横をすり抜け、自分のごみを置こうとして、顔を上げ、ビクリとした。

「おはようございます、田中さん、体調はいかがですか?」

 如月悟だった。ナチュラルな短い髪、精悍で端正な顔立ち。均整の取れた鍛えられた体格。

 主人公の名に相応しく、モデルか俳優さんのような美形だ。

 ――キサラギサトルが、ゴミ袋を持ッテイル。

 別段、不思議でもない風景だが、私の中に衝撃が走った。

 何せ、高校の時からのアコガレの、ハードボイルドキャラである。

 もちろん、ここが現実で、如月が人間である以上、トイレにだって入るだろう。生活すれば、ゴミだって出る。しかも、一人暮らしなのだから、ゴミ出しは自分でするしかない。しかし、あの如月の家に生ごみが存在するなんて、小説を読んだファンの誰が想像できるだろうか? 

 乙女の夢がガラガラと音を立てて崩れ、私は精神にかなりのダメージをくらった。

「き、昨日はどうもありがとうございました」

 私(田中)は、動揺するもう一人の自分(鈴木)を抑え、慌てて頭を下げた。

 まさか、ゴミを出しにきて、如月に会うとは思っていなかった。

「ゴミ……桔梗さんが出すのではないのですね」

 ぼそっとそう言った私に、如月が苦笑した。

「桔梗? ああ、見られたって言ってたな。桔梗は、実体がないわけではないけど、全ての人に見える訳じゃないですよ」

 ええと。モノは持てるけど、姿が見えないひともいるってコト?

 と、ゆーことは、ゴミ袋を持ってくることは可能だけど、桔梗が見えない人には、ゴミ袋が浮遊しているように見える訳だ。想像すると、ちょっと怖い。

「ふーん」

 物珍しそうに、如月が私を嘗め回すように見る。ちょっと、ドキリとした。

「桔梗に聞いていたけど、田中さん、変わりましたね」

 ニコリ、と如月が笑った。笑顔が現実の人間とは思えぬほど眩しい。

「あ、あの」

 如月は私の事情を桔梗から聞いているようだ。それならば、話は早い。

「桔梗さんとか、私自身のことで、少しご相談があるのですが」

 朝の忙しい時間である。ゴミの集積所で話す内容ではない。しかし、ただの隣人である私には、主人公さまと接触できる機会はそう巡っては来ないだろう。

  如月は首を傾げ、私を見た。秘密機関と言えど、如月は公務員だ。出社の時間が近いらしく、彼は腕時計をちらりと見る。

「申し訳ないけど、明日は会社が休みだから、明日の午前中でもいいかな?」

「あ、はい。ありがとうございます」

 柔らかい笑顔でそう言われて、私は頷いた。笑顔にいちいちドキリとしてしまうのは、長年のファンだから許してほしい。

  それに。桔梗のことはともかく、私自身はこみいったことになっているので、五分や十分話したところで解決できそうもない。相談のための時間がもらえたということは、ありがたかった。

「あの、如月さんは、『雪野さやか』さんって、ご存知ですか?」

「ん? 知らないけど」

 私の唐突な質問に、如月は怪訝そうに首を傾げた。

  と、いうことは、まだ異界渡りは退治されていないのだな、と少し私は安心する。明日、相談しても全然問題はなさそうだ。

  ひとりで頷いていた私を、面白そうに如月は見た。

「田中さん、自分で思っているより雰囲気が変わっているから、気をつけてくださいね。それに、貴女はもともと、異形に好かれやすいから」

 他の住人がゴミ出しにやってきたのを見て、如月は小声でそういうと、「では」と、頭を下げて、駐車場へと消えていった。

  私は『異形に好かれやすい』って、何だろうとは思ったが、深く考えても仕方がない。

  私は、慌てて部屋に戻った。


  私は、いつものように、いつもの会社に出社する。一夜立つと魂が馴染む、と言われていたが、田中と鈴木の記憶や意識が、ほぼ違和感なく、臨機応変に表層に浮かんでくるようだ。

  田中の勤める会社は、電車に揺られて三十分。駅から五分の、小さな食品加工会社である。工場には三十人ほど働いているが、

  田中は事務担当なので、職場というのは工場に併設された小さな事務所である。

「おはようございます」

 私は、挨拶をしながら事務所に入っていく。

「おはよう、田中ちゃん。あら、髪の毛、切ったの?」

 私と同じ事務担当の、社長夫人、山村まどかが、眩しげに私を見た。

「いえ? きっていません」

 不思議なことを言うなあ、と思いながら席につく。

「おはよう。あれ? 田中、おめー、髪型変えた?」

 隣に座っていた同期の営業、熊田浩二くまだこうじが、私を二度見して、そう言った。

「……変えてない」

 なんなんだと思いながら、仕事の準備を始めると、同じ事務をしているふたつ年下の白石美紅しらいしみくが、元気な挨拶をしながらはいってきて、やっぱり私を二度見した。

「あれ? 田中さん、化粧変えた?」

「……変えてない」

 こうしたやりとりが、朝から延々と続いた。どうやら如月が言ったとおり、外見に全く変化はないのに、私は『変わって』みえるらしい。もちろん、鈴木麻衣の魂が田中舞の中に同居しているわけなので、違うと言えば違うのだけれども、意外と『魂』の変化って、見ただけでわかるものなのかと驚いた。

 昼休みに食堂に行くと、工場の人たちにも、「変えた?」と聞かれ、だんだん面倒になってきた。

 それにしても。異世界トリップ二日目は「イメチェン疑惑」の他は特記するべきことは何もなく、退社時間が近づいてきた。

 時計をちらりと見ながら、書類を片づけ始めていると、外回りから帰ってきた熊田が立ったまま、私をじっと見ているのに気が付いた。

「何?」

「あ、いや……」

 熊田は慌てたように口を濁して、自分の机に座った。

 ふうっと私はため息をつく。こんなにみんなからイメチェン疑惑をもたれるなら、週末に髪型でもかえてみるか、と思う。

 口紅の色を変えるだけでも、言い訳になるかもしれない。とはいえ、絶世の美女になったわけではないし、影の薄いことは折り紙付きの私のことは、あっというまに、誰も気にしなくなるだろうけどね。

 いや、それ以前に、鈴木麻衣は、もとの世界に帰りたいのですけども。

「田中、おめー、今日、ヒマ?」

 熊田が私の顔を覗きこむようにして、そう言った。

 熊田が私にそう聞くときは、『厄介なお仕事』を頼みたい時だ。

「ん? 別に、何の予定もないから、残業できるよ」

 私は、書類を出せと言うのも惜しんで、片手を熊田の前に広げて出した。

「仕事じゃねーよ。今日、沢木と飲むけど、おめーも行かないか?」

 沢木、というのは、工場勤務の同期の沢木徹さわきとおるのことだ。

「何故に?」

 同期だから仲が悪いわけではないが、いっしょにご飯とか、あまり誘われたことはない。

 熊田は若干、顔を赤らめた。

「行く店が、女性客は、ボトルが一割引きなんだ」

「……私は割引クーポン券ということね」

 ま。そんな扱いだということは始めからわかっているので、いちいち傷つくようなことはないけど。

「しめ鯖がメチャ旨い」

 熊田がぐっと拳を握りしめる。

「なるほど」

 わたしがしめ鯖が好きなこと、コイツに話したっけ? 

「いいよ。どーせ家に帰っても、今日は食材ないから」

 というわけで。異世界トリップ二日目は、同期と飲むことになった。




 異世界トリップから連想される世の中の物語というのは、何かしら非日常的なイベントが連続で起こっていたように思う。

 少なくとも、昨日の残りのカレーを温めて食べたり、出社してふつーに仕事するという物語は、あっただろうか?

 つい忘れそうになるが、私は異世界トリップ二日目である。

 もちろん、式神が見えてしまったり、元の世界で大好きだった如月悟とご近所さん会話をしたりして、それなりに非日常? なイベントもありはするが……まさか、割引クーポン券として、同期と飲むとは思わなかった。

 完全な日常とは言えないものの、相手に下心があるわけでもない。

 ちょっと暗めの居酒屋の照明の下、しめ鯖をつっつきながら、私は、熊田と沢木が新発売のカメラについて語り合っているのをぼーっと聞いていた。熊田も、沢木も、どちらかと言えば、整った顔をしている。営業をしていることもあって、熊田は快活で、肌も日焼けしていて、ちょっとワイルド系。沢木はひょろりと長い感じで、お綺麗系。社内では二人とも独身女性に人気がある。

 もっとも、如月悟という規格外な人間を見てしまうと、熊田も沢木も、しょせん、出来の良い「どんぐり」である。

(私が、凡庸などんぐりだというのは、この際置いておく)

「あ、すみません、揚げだし豆腐ください」

 私は、店員を呼び留め注文する。

 最初こそ、ふたりは私に気を使って、雰囲気が変わった原因などを聞いてきたが、一通りのやり取りを終えると、もはやどうでもよいらしいので、私は食欲に徹することにした。

 運ばれてきた揚げだし豆腐を口にしようとして、ふと、視線を感じた。

 私の視野の隅っこに引っかかる位置にいる、カウンターに座った男だ。なんだか、じっとこちらを見ている。

 ――揚げだし豆腐が、自分より先に来たからかな?

 そんなことを考えながら、ビールに手を伸ばそうとしたら、背筋がぞくりとした。

 その男の肩に小さな鬼としか呼べないような生き物が座っている。闇色の体躯に、銀色の目がきらりとひかり、カッと口を開く。どうやら、私と目が合って、嗤ったようだ。

「……どうした? 田中」

 私は、熊田の心配そうな声で我に返った。

「な、なんでもない。ちょっと酔っぱらったかもしれない」

 私は首を振った。背筋がゾクゾクする。視線はずっと向けられている。怖い。

 居酒屋の喧騒がスーッと遠のいていく。

 怖いけど、熊田や、沢木に言っても酔いのせいにされそうだ。いや、本当に酔ったせいだと思いたい。

 そもそも。凡庸な背景キャラである私(鈴木も田中も)は、視線を向けられることだって、なれていない。

「あの……私、ちょっとお手洗いに行ってくる」

 そう言って、私はカウンターの傍を通らない道筋で、トイレに逃げ込み、洗面所で顔を洗った。

 冷たい水で冷静さが戻ってきたが、鏡の中の自分は相当に青白い。

 ――魔物が見えるなんて、そんな能力、要らないよっ!

 思わず泣きたくなる。

 異世界トリップ二日目で、非日常的なイベントがないなんて思ったのが間違いだった。

 ――でも、酔っていたのは事実だし、本当に気のせいだったかも。

 そう思い直し、軽く化粧を直して、私は席に戻った。

「大丈夫か?」

「顔が青いぞ」

 熊田と沢木が私の顔を覗きこむ。本当に心配そうだ。

 私は弱々しく笑顔を作りながら、カウンターのほうを見る。ぽっかりと空席になっていた。

「ごめん、ごめん。もう大丈夫だから」

 私はホッと息をついて、脱力した。

 気のせいかどうかわからないけど、とりあえず男がいなくなったことに私は安心した。

「……そろそろ帰ろうか」

 熊田が沢木と顔を見合わせてそう言った。

「私一人、先に帰ってもいいよ」

 財布を出しながら、私がそういうと、二人は「気にするな」といいながら、席を立った。

 会計は、二人が出してくれると言ったが、自分の分の金は払った。男に奢ってもらえるタイプの女性でないことは、百も承知だ。

 外に出ると、夜風が沁みた。背中のゾクゾクが、少しもなくならない。風邪を引いたのかもしれない。

「大丈夫か? 送ろうか?」

 熊田は何度もそう言ってくれたが、うちとは逆方向だし、申し訳ないので断った。

「別に、警戒して断っているわけじゃないから」と、念を押すと、熊田は微妙な顔をしていた。

 一応、あなたが私に下心がないことくらいわかっていますよ、と言外に伝えたつもりだったのだが。

 それでも心配だったのか熊田と沢木は、駅まで私を送ってくれた。

 二人と別れると、あの銀色の目が脳裏に浮かんできて、私の身体は震えた。

 電車はそれほど混んでもおらず、空調は快適に保たれているのに、私の身体は汗でびっしょりだ。

 ――強がらずに、送ってもらえば良かった。

 駅を降りて、マンションへの暗い道を歩きながらそう思った。

 街灯と街灯の間にできる暗闇のよどみに息苦しくなりそうになりながら、私は足を速める。

 ようやく、住み慣れたマンションの明かりが見えてきて。

 辻を曲がれば、もう、そこだ、というところで。

「今、お帰りですか?」

 聞き覚えのない声だ。無視をしても良い。無視をすべきだと、頭のどこかで警告音が鳴っている。

 振り返ると、カウンターに腰を掛けていた男が肩に小鬼をのせて、ニヤっと口の端を上げて嗤った。

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