第44話 抱擁
信玄の馬車は、幸の家へと到着する。
「信玄様、今日はありがとうございました。伊勢、また明日学校でね」
「うん。幸……また明日ね」
「幸さん。今日は楽しかったよ」
信玄の馬車は幸を送り届け、伊勢の家へと向かっている。
二人きりになると、信玄は優しく微笑みながら伊勢に話しかける。
「伊勢さん。以前、鹿鳴館で何度かあなたを見ました。その後、お誘いの手紙を出していたのですが、そのことは知っていましたか? 」
「あっ……はい。ごめんなさい。私……舞踊会には興味ないんです」
「そうでしたか……。伊勢さんが勉強好きなのはわかりましたが、勉強以外では何が好きですか? 」
「私は……馬で野原をかけたり、星空を見たり……そういうことの方が好きなんです」
「そうでしたか。実は私も馬に乗るのが好きでよく出かけるんですよ。今度一緒に野駆けをしませんか? 」
「……あの。信玄様。もうご存知だとは思いますが、わたしは……謙信様を慕っています」
「そのようですね。知っていますよ。でも謙信は、あの志乃夫人という色っぽい大人の女性と逢い引きしていましたよ」
「それは、そうですが……それでも私の気持ちは変わりません」
「いいえ、伊勢さん。気持ちなどは、時とともに変わるものです。私はあなたの気持ちが変わるまで気長に待ちますよ。それにあなたにとっても私は理想の男だと思いませんか」
「えっ。どういうことですか? 」
「私がもし……あなたと一緒になったら……あなたは私と世界中を見て回ることができます。あなたの目で外国を見れるのですよ。家事は召使いにさせれば良いことです。あなたは私のそばでのびのびと勉学に勤しめば良いのです。ふたりで一緒に笑ったり、おしゃべりしたりするだけで私は満足ですよ。これはあなたの理想ではないですか? 」
「あの、信玄様。いま、信玄様のおっしゃっている事は冗談にしても笑えないです」
「冗談などではありませんよ。私はあなたといると楽しい気持ちになります。心に平穏さえ感じます。こんな気持ちは初めてなんですよ。伊勢さん、将来を見据えて真剣に付き合ってくれませんか」
「信玄様は、私のことをよくわかっていません。だから、そのようなことを言われるのです」
「ハハハ。女学校で先生の頭に
「……困ります」
「君は謙信と一緒になっても幸せになれない。君の笑顔を守り、君の夢を叶えることが出来るのはこの信玄だとは思わないかい? 」
伊勢の顔をのぞみこむ。
伊勢は黙って下を向いている。
近くで見る伊勢の顔はパフェを食べた時に見せた幼子の顔ではなく、潤んだ瞳を持つ憂いのある女の顔に見える。いつもならこんな時、迷うことなく女の頬を引き寄せて唇を奪っているはずなのに……。
何故か伊勢の唇を奪うのをためらってしまう。こんな顔を見たら政宗があの舞踊会の夜、不意に口づけしたのも理解出来る。あの口づけで伊勢は怒って飛び出して行った。俺だって、たまらない気持ちは同じだ。今、この胸にこの娘を抱きしめることもできるだろう。いや……伊勢だけは、時間をかけて、体だけでなく、心まで奪いたい。一度きりの恋の遊びと思われて傷つけたくはない。それにしても、こんなことを思うなんて……自分らしくないな。
「心配しなくていい。君は私の事を……きっと世間が言うように女たらしと思っているかもしれないな。でも、それは違う。君のことを知った今、君だけに心奪われている。あと何度か女学校での講演もある。少しずつでかまわない。一緒に過ごす時間を作ってくれないか。また、一緒にフルーツパフェを食べにいこう」
「フルーツパフェですか?」
うつむいていた伊勢が、顔を上げる。
「ハハハ、今、もう一つ君のことがわかったよ。君は、フルーツパフェが大好きなんだね」
「……いやっ……そんな」
苦笑いしながら答える伊勢。
「約束だよ。一緒にフルーツパフェをまた食べよう。勿論、君のお友達の幸さんも一緒に……」
「幸も一緒で……フルーツパフェを食べるだけなら……」
「やっと笑顔になったね」
伊勢の自宅に馬車が到着する。
「さぁ。着いたよ」
「信玄様、今日はごちそうさまでした。……私、信玄様を誤解していました。女たらしで嫌な人と思っていましたが、本当は優しい方だったんですね。フルーツパフェ……初めて食べましたがすごく美味しかったです。それでは、さようなら」
満面の笑顔で挨拶。
飛び降りて帰っていく伊勢を馬車の窓から手を振る信玄。
こんなことが今まであっただろうか。志乃夫人のいうとおり、これじゃまるで子守のようだな。もっと色気のある女と会って、家まで送ったなら……その後にはお楽しみもあるというのに……フルーツパフェとはな……。
「ハハハ……」
一人馬車の中で笑い出す信玄。
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