第42話 甘い誘惑
「伊勢……私の髪型変じゃない?」
「ちょっと待って。リボン結び直してあげるね。……はい。これで大丈夫だよ」
「髪も直したし、料理の授業で作ったあんぱんもバッチリな出来で、信玄様にお土産として持って来たし……」
「そうね。幸はお料理上手ですものね。私のあんぱんなんて形も整ってないし、あんぱん好きな
「伊勢。あんぱんの形が悪くても、そう落ち込まないで。形はどうあれ、今回は食べられるものになっただけ進歩してるって……」
「……まぁ。そうなんだけど……」
「
「お嬢さんたちは、いつも楽しそうですね」
「あっ。信玄様」
「さぁ、話は中に入ってからにしましょう」
ドアを開けて二人を優しくエスコートする信玄。
「いらっしゃいませ。……信玄様」
信玄はよくこのお店に来ているらしく、店員の女性が頬を染めている。
伊勢と幸は初めて入るカフェに戸惑っている。
「さぁ、ここの席が良いでしょう。どうぞ……」
信玄が二人に座るように勧めた場所は、外の往来がよく見える窓際の席で、出窓には可愛い花が生けられている。
「ようこそいらしゃいました。信玄様、今日は何にいたしますか」
頬を染めた店員の女性は、上目遣いで信玄に注文を訪ねる。
「いつものコーヒーとフルーツパフェを二つお願いできるかな」
「はい、かしこまりました」
緊張して座っている二人に優しく話しかける。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
店の中を見渡すと、手に分厚い本を持ちながらコーヒーを飲んでいる人。フルーツパフェを美味しそうに食べている貴婦人など、上流階級と思われる人たちがくつろいでいた。
袴姿にお下げ髪の二人には、ちょっと似つかわしくないような大人の社交場にみえる。
「……あの。私たち。場違いのようですね」
店先では元気一杯だった二人がおとなしく恐縮している。
「コーヒーとフルーツパフェをお持ちしました。どうぞ」
二人の前に美味しそうなフルーツがいっぱいのったパフェが置かれた。
「すごい。美味しそう」
伊勢と幸は顔を見合わせて微笑みあっている。
「やっと笑顔になりましたね。さぁ遠慮せずにお食べなさい」
「いただきま〜す!」
信玄は、コーヒーをすすりながら二人を見つめる。
「美味しい」
伊勢が満足そうに声を上げる。
微笑みながら伊勢を見ていると、
「信玄様。信玄様はいつもここに来られるのですか」
幸が尋ねる。
「そうだね。ここへはよく来ているな。仕事の打ち合わせの時もあるし、 一人でゆっくりしたい時もここでコーヒーを飲むかな」
「そうなんですね」
幸が信玄との会話を繋げようと話しかける。
伊勢は、そんな二人など目に入らぬかのようにフルーツに微笑みかけながら美味しそうに頬張っている。
「伊勢さんは、本当に美味しそうに食べるね」
伊勢が大きな口を開けていた時、信玄が伊勢に話しかける。
「えっ」
突然の言葉にびっくりして喉が詰まりそうになる伊勢。
「伊勢。大丈夫? 」
幸が心配そうに覗き込む。
「あまりにも美味しくて……夢中で食べてました」
「伊勢……ほっぺたにクリームがついてるよ」
「えっ。どこ?」
「ここだよ。もう取れたから大丈夫だよ」
「ありがとう。幸」
信玄はそんな二人を見て笑っている。
「信玄様、忘れてました。今日、学校の料理の授業であんぱんを作ったのですが、よろしかったら、召し上がってください。どうぞ……」
幸が、信玄に形の良い美味しそうなあんぱんを手渡す。
「幸さん。ありがとう。これは美味しそうですね」
「幸は、お料理もお裁縫も何でも優秀なんですよ」
初めて会話に参加する伊勢。
「そうですか。幸さんは良いお嫁さんになれそうですね。学校の授業でということは、伊勢さんもあんぱんを作られたのですか?」
「……私は、お料理もお裁縫もうまくありません。いつも先生に怒られてばかりなんです。今日作ったあんぱんもひどい形になっちゃって……」
「ハハハ。そうなんですか」
「伊勢……それでもまだ今回のは食べられるだけいいじゃない。前回作った時は、食べることも出来ないものになっちゃって、先生の頭から
「そうなのよ幸。あの日は家にまで連絡が入っちゃって大変だったの。私は花嫁修業のために女学校に通っているわけではなく勉強がしたいだけなのに……」
クックと笑いが止まらない信玄。
「あっ。ごめんなさい。信玄様の前でこんな話……」
伊勢が我に帰り頭を下げる。
「いやいや……二人を見ていると楽しい気持ちになります。気にせずに話して良いですよ」
「もう。伊勢ったら……勉強の成績は抜群なのに……料理・裁縫が問題なのよね」
幸は、気にせずに話し続ける。
「そうなんですか。伊勢さんは、勉強がすきなんですね」
「はい。いつか女性でも外国へ自由に行くことができる日が来たら、ぜひこの目で見て見たいです」
「先ほど校長と話をしていた時、女学校に通う生徒たちはみな良妻賢母になるのが夢だと校長は言っていましたが、伊勢さんは違うようですね」
「そうだよ伊勢。女の幸せは素敵な殿方と夫婦になることだよ。外国なんて怖すぎるよ」
「好きな人と一緒になりたいです。でも、外国もこの目で見て見たいんです」
「ハハハ。欲張りだな。伊勢さんには、日本と外国を行ったり来たりする仕事を持ち、結婚しても家庭に縛りつけず、一緒に旅する視野の広い男性が必要だね」
笑いながら信玄が囁く。
「そうよ伊勢。そんなこと許してくれる殿方なんているわけないじゃない」
「……でも、夢なんだから……」
頬を膨らませ、唇をキュッとつぼむ伊勢の表情は、幼児のように愛らしく微笑ましい。
「ハハハ、伊勢さん。大丈夫ですよ。そんな伊勢さんの理想の男性が今にちゃんと現れますよ」
「まったく……伊勢ったら、いつまでも子供なんだから……」
信玄は優しい目でにっこりと微笑んでいる。こんなに笑ったのは久しぶりのことだっだ。
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