第41話 大人の男

「行ってきま〜す」


「行ってらっしゃいませ。お嬢様」


「あっ。そういえば……ふく。……昨日も謙信様から手紙が来たのよね。お父様は受け取ってくれた?」


「いいえ、捨てるように言われていますが、毎回、そっと本の下に置いてきています。そのうち、見てくださると良いのですが……」


「そう……そうね。お父様……いつかきっと読んでくださるわ。あっ……こんな時間。遅刻しちゃいそう」


 走り去る伊勢に手を振って見送るふく。


 お嬢様は、謙信様から毎日届けられる手紙が旦那様宛の他にご自分にも届いていることを知らずにいる。


 手紙は雨の日も風の日も毎日届けられている。


 それが、謙信の誠意だということはふくにはわかっているが、やはり毎日顔を合わす影家とはどうも反りが合わない。




「おはよう。伊勢」


「おはよう。幸」


「伊勢、聞いた?」


「えっ……何を」


「もう……。伊勢は何にも知らないんだね。あのね。今日からこの女学校でも外国について講義が行われることになったんだよ。講義に来てくださる先生たちは外国へ何度も渡航経験のある方や英語の得意な方なんですって」


「うぁっ。凄いね。そうなんだ」


「でね。今日から来る講師……誰だと思う。もう……学校中が大騒ぎの人なのよ」


「誰かな?」


「驚かないでよ。大人の殿方……優しさが滲み出てる方……仕事も出来る貴族・武田信玄様よ」


「うそ。あの女たらし?」


「伊勢ったら……あの方の大人の魅力がわからないなんて……やっばりねんねちゃんね」


 幸の家も伊勢と同じ上級武士の出ではあるが、鹿鳴館に自由に出入りすることが出来ない身分なので信玄の女のあしらい方を見たことはなく、噂で聞く素敵な信玄に思いを寄せているようだ。


 同じクラスになってから仲良くなった幸は、成績優秀、花嫁修行の料理・裁縫と何でも手際よくこなす優等生。


「さっ……伊勢。早く講堂に行きましよう。みんな朝早くから並んでいるのよ。少しでも信玄様のお顔が見える良い席に座らなくちゃ」


「そうだね。顔は見たくないけど……外国の事はすごく興味があるから行こう」



 二人は講堂に駆け出す。



 講堂に着くとそこはもう大勢の女学生で溢れかえっていた。


「伊勢……こっち、こっち。もう席は埋まっちゃって座れないけど、立ち見なら結構前で見れるよ」


「幸……一番後ろならまだ席空いてるから、そっちにしようよ」


「ばかね。それじゃ信玄様の顔が見えないじゃない。みんな信玄様目当てなんだから、信玄様からも見える場所にいないとチャンスすらないじゃない」


「私は、ただ……講義が聞きたいだけなんだけど……」


「いいから……こっち」


 幸に手を引かれ講堂の前の方で立ち見することになる。


「キャー。信玄様がいらっしゃったわ」


 信玄の登場に講堂には女学生の感嘆の声が響く。


「やっぱり、素敵よね。それに貴族だし。あの方は三十歳で大人で独身だからこれはチャンスよね」


 うっとり顔の女学生たち。



「みなさん。今日の講義は、私がビジネスで何度も渡航している海外についてお話しします。明治になったとはいえ、女性の海外渡航はなかなか難しいのが現状です。ですが、時代の流れとともに女性が海外に進出することも予想されます。いや……そのような開かれた国になるように応援したいと思っています」


 信玄の講義は、信玄目当てに聞いている生徒だけではなく、未来を夢見る落ちこぼれ伊勢の心にも感銘を与えた。





「伊勢……信玄様の講義は素敵だったわね」


「そうね。外国に……いつかは行って見たいわ」


「私は、外国に行かなくてもいいわ。信玄様のお側にいたいわ」


「えっ……幸ったら。そっちなの」


「当たり前じゃない。ハハハ……」



 二人は笑いながら、校舎の木陰で昼食をとる。




「お嬢さんたち。講義を楽しんでくれたようで嬉しいよ」


 二人が振り向くと、信玄が木陰の向こうで休憩を取っていたようで、振り向いて微笑んでいる。大きな木陰の向こう側は、校舎側からは見えない場所で信玄が一人静かに横になっていても誰からも見えない場所だった。



「信玄様。今の話……聞こえてました?」


 幸が真っ赤な顔で問いかける。


「幸さん?でしたか。先ほど名前は聞こえましたが、話していた内容までは聞こえませんでした」


「よかった。えっ……私の名前を覚えてくださったのですか? 」


「もちろん。幸さんと伊勢さんですよね。講義中も二人が真剣に話しを聞いていた姿は壇上からもしっかり見えていましたよ。可愛らしいなと思いながら話していたんです。その二人と校舎の外れの木陰で会えるとは、ご縁があるのでしようね」


「いゃ〜。伊勢。どうしよう。信玄様が目の前にいるよ」

幸は興奮を隠せずにいた。


「信玄様は、この後……何かご予定はおありですか?」

 幸が思い切って尋ねる。


「次の講義の打ち合わせを校長室で行い、そのあとは自由です」


「私たちも次の授業が終わったら……自由なんですけど」


「幸……。ちょっと……私を巻き込まないでよ」

 小声で耳打ちする。


「それでは、授業が終わったら最近出来たカフェという所で美味しいものをご馳走しましょうか?」


「えっ。本当ですか。ヤッター嬉しい〜!」


「ちょっと、幸。私は遠慮するから二人で行ってね」


「伊勢さん。フルーツパフェを知っていますか。美味しい果物がのっていて最近の人気メニューだそうですよ」


「そうだよ伊勢。いつもフルーツパーラーに行って見たいって言ってたじゃない。ねっ。一緒に行こうよ」


「……でも」


「伊勢さん。決まりですね。美味しいフルーツパフェをご馳走しますよ。では、3時に鹿鳴館の横の「可否茶館」で待ち合わせしましよう」



「はい! 楽しみにしています」

 興奮を隠せない幸が立ち去る信玄に大声で答える。




「伊勢……信玄様に誘われたんだよ私たち。もう〜信じられないよ」


「幸ったら……」


「それにしても食べ物につられる伊勢って、やっぱりまだまだ大人の男の魅力がわからない子供だな〜」


「そうね。私は信玄様よりフルーツパーラーの方に魅力を感じるわ」


「伊勢らしいわ。あっ、そろそろ授業に戻らないと落ちこぼれ伊勢さんが先生にまた怒られるね」


「もう……幸ったら。でも本当だわ。次は料理の時間だったわね。急がないとまた怒られちゃうわ」



 笑いながら元気よく走り出す二人。


 校長室の窓から外を見ると、弾けるような笑顔の可愛い姿が目に飛び込んでくる。


 打ち合わせしながら目で追ってしまう信玄。


 久しぶりに……胸に小さな鼓動を感じる。


 知り合いである校長から頼まれたこの特別講義。当初は気乗りしなかったが、今は楽しみになっている。


 それにしても……あの娘に本気で惹かれるとはな……


 謙信や政宗が気に入った娘を俺が奪ってあの二人の泣きっ面を見てやろうと思っていただけなのに……

 ミイラ取りがミイラになるとは……フッと自分自身に苦笑いするしかなかった。

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