第二十八話


   


「すぐにでもチヨと正式に結婚しようと逸る僕の心は、けれど即座に砕かれてしまいました。

急遽、イギリスへの帰国が決まってしまったのです。

その年、横浜の開国港に駐屯していたイギリス軍が、本国へ撤退することが決まりました。

それに便乗して、モートン教授にも帰国するようにとの指示があったのです。

そして、同時にチヨがこの家からいなくなってしまいました。

本当に何もかもが突然で、何の事情もわからないまま、僕は日本を去らねばならなくなりました」


 それは「チヨ」にも知らされていなかったことだった。

 長南おさなみさまは口実を作って、「チヨ」をこの家から遠ざけた。

 その間に、駐屯軍に便乗しての帰国の算段を、モートンはつけてしまった。


 モートンとバースが日本を去ったことを「チヨ」が知ったのは、すでに二人の乗った軍船が出航して何日も経ってからだった。


「出航前にチヨに会うことはかないませんでした。

せめても、必ず日本に帰ってくるとチヨに伝えていきたかった。

僕はチヨに宛てて手紙を書き、それをオサナミ氏に託しました。

待っていてほしいと書いた手紙に、しかし返事はなく、出航の日の見送りにも、チヨは現れませんでした。

イギリスに着いてからも、日本へ何通も手紙を書いたのですが、返事は結局一度もありませんでした」


 その手紙は届かなかったのだ。

 長南さまは託された手紙を渡さなかった。

 「チヨ」がそれであきらめてくれればいいと、いやきっとあきらめるだろうと思ってのことだった。


 しかし、千代は待ったのだ。


 手紙は届かなかったのに、まるで男の言葉は届いているかのように。

 千代は男が必ず日本に帰ってくると信じて、ひたすらに待っていた。

 長南さまのしたことは、何もかも裏目に出た。


「僕は一日も早く日本へ帰りたかった。

美しい日本、チヨの待つ日本へ。

しかし、帰国したとたんにイギリスの内外は騒がしくなり、その情勢を無視して国を飛び出すことは難しくなってしまった。

イギリスと日本はあまりにも遠かったのです。

一年が過ぎ、五年が過ぎ……日本を想いながら年を重ねていくうちに、僕の心は不安で揺れました。

チヨはどうしているだろうか、僕を待ってくれているだろうか、僕を覚えてくれているだろうか、まだ僕を愛してくれているだろうか……千代が教えてくれた日本語を忘れないように、イギリスでも独学で勉強を続けながら、しかしいつ日本に帰ることができるのかはわからないままで」


 私は言ってやりたかった。

 千代は一日たりと、あなたのことを忘れはしなかったと。

 ずっとあなたを待ち続けていたと。

 あなたのことを信じていたと。


「想い続けながらも、僕の自信は少しずつ失われていきました。

Far from eyes,目から遠ざかれば、 far from heart 心からも遠ざかる……ことわざは真実かもしれない、と。

そしていつしか、あきらめる気持ちが強くなってしまったのでした。

きっとチヨはもう、僕のことなど忘れてしまっているだろうと。

きっと僕は、今回あきらめるために日本にやって来たのでしょう。

チヨが日本で、いつか語ってくれたような家庭を持って、幸せに暮らしていることがわかれば、僕はきっとあきらめられるだろうと思ったから。

チヨが自分の夢を叶えてくれていれば、僕は自分の夢をあきらめても構わないと」


 そう言って、男は柔らかな目つきをして窓の外を見やった。


 どうして。


 優しげな表情をした男の顔を見据えて、私は震える声をしぼり出して言った。


「どうして、そんなことを言うんです? 

あなたがいなければ、意味がないのに。

私だけじゃあ、意味がないのに」


「ユメ……?」


 男の視線が私に向く。


 ――あなたのお父さまはね、今海の向こうにいらっしゃるのよ。


 母の声が私の耳によみがえった。


 ――英吉利イギリスというのよ。日本と同じ島国なの。


 ――お父さまが帰ってきたときちゃんとごあいさつできるように、お父さまの国の言葉も覚えておきましょうね。


 おとうさまは、いつかえっていらっしゃるの?


 幼い口調で尋ねる私に、母はよどみなく言ったのだ。


 ――いつかね。きっといつか帰ってらっしゃるわ。だって、ここには私たちの夢があるのですから。


 こらえようと努力したのに、うまくいかず、言葉が涙と一緒にこぼれた。


「千代は、私の母です」


 こぼれた涙が着物の胸元ではじけた。


I am your daughter私はあなたの娘です……お父さま」

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