第二十七話


   


「それから数日、僕とチヨの間はぎこちなくなってしまいました。

チヨは僕と目も合わせず、口もきかなくなってしまいました。

明らかに僕のことを避けている様子に、これはいよいよ嫌われてしまったのだと思いました。

チヨと仲直りをしたい、もう一度きちんと話をしたいと思いながらも機会を得られないまま、僕は思い悩んで眠れない夜を過ごしました。

その日も、長い夜をやり過ごすのに読書で気を紛らわしていたときでした。

夜も更けた頃になってこの部屋の扉をノックする人がいました。

チヨが、僕を訪ねてきてくれたのです」


 男の語る、そのときの「チヨ」の思いを、私はよく知っている。

 その数日は、「チヨ」もまた思い悩んでいたのだった。


 密かに想っていた相手からの求婚に、彼女は驚きながらも喜んでいた。

 しかし、その歓喜に水を差す者がいたのだった。

 男の師であるモートンだった。

 モートンは二人の関係を察していた。

 そして、「チヨ」に釘を刺したのだ。


 ウィリアム・バースという男は、日本では外国人教師の助手に過ぎないが、イギリスでは由緒ある家系の御曹司であること。

 本来なら、何の身分もない娘がなれなれしく近づくことなどできない人物であること。

 日本にはあくまで仕事のために訪れているだけであって、いずれはイギリスへ帰ること。

 そして、イギリスへ帰れば、男はしかるべき家柄の女性と結婚するであろうこと。


 モートンは言ったのだ。

 だからあまり図に乗るものではない、と。


 「チヨ」は悩んで、苦しんで、何度も思いをあきらめようとしたのだった。

 けれど、断ち切ろうとすればするほど、思いはより一層強く結びついて彼女を悩ませるのだった。


 そして、「チヨ」はとうとう思いあまって男の元を訪れた。


 普段大人しい人間が、深く思い詰めた先に、自分でも信じられないような行動をしてしまうことがある。

 「チヨ」の中にも、そんな一面激しい感情と行動力が眠っていたらしかった。


 ――私をここで、あなたの妻にしてください。


「僕はその夜にチヨと自分に誓ったのです、チヨと結婚し日本で暮らそうと」


 その夜。

 その一夜。

 二人の想いが結ばれた夜。

 そして、私にとっても決定的な夜。


 けれど、その夜が明けて、二人の喜びは続かなかった。


 モートンという人はずる賢かった。

 「チヨ」だけでなく、その後見人の長南おさなみさまにも抜け目なく釘を刺していったのだ。


 これはきっと二人の知らないことだ。

 そして、長南さまもはっきりそうと私に言ったわけじゃあない。


 けれど、その当時のことを尋ねたとき、長南さまがこと肝心なことについて歯切れ悪くなるのは、きっと何か都合のよくない出来事があったからなのだ。

 私はそう思っているし、それがそう外れてはいないという確信めいたものもある。

 長南さまの人柄を、私はよく知っているから。


 モートンは長南さまに、たぶんこんなことを言ったのだろう。

 近頃の二人の様子はどうも親密に過ぎるようだ。

 ウィリアム・バースには国に婚約者がある。

 両家は政界でも実力のある上流階級の家柄で、もし何か間違いがあって、この婚約にけちがつくようなことがあれば、そしてそれが日本の政府に縁ある者の身内が原因であれば、あるいは両国の関係に何らかの影響もありそうなものだが、いかが思われるか、とでも。


 モートンが自分の娘を結婚させようとする算段があったから、そんな口から出任せを言ったのだと、簡単に想像できた。

 ここに来てアンという存在を知って、私は自分の想像の根拠を得たと思った。


 もし婚約者がいたからといって、それが政治的な問題となったかもわからない。

 けれど、長南さまはモートンの言葉を鵜呑みにしてしまった。

 政府に勤める身の上としては、国際問題、政治問題などと持ち出されては無視できなかっただろう。

 

 それに長南さまの性格のこともある。

 後ろ盾を笠に高圧的にされては、何も言い返せなかったに違いない。

 生来、お人好しなほどに優しく、気の小さな方なのだ。


 それが私が長南さまに恩を感じても、どこか信頼しきれない原因でもある。


 いやでも思ってしまうのだ。

 もし、そのとき長南さまが……と。

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