第二十六話


   


「はじめて日本に来たとき、僕はまだ学生でした。

大学でモートン教授の元について学びはじめたばかりの、世間知らずの子供でした。

教授の助手として日本に来ることが決まったとき、僕はただ興奮して、浮き足立っていました。

それは僕にとっては冒険でした。

僕は自分がヴェルヌの小説の主人公にでもなった気でいたのです」


 私は男が持っている写真の、学生であった頃の男に姿を思い浮かべていた。

 あの写真の青年が、未知の国へ瞳を輝かせながらやって来た姿が目に浮かぶ。


 日本が明治の世となってから、世界中の人や物が押し寄せてくる中で、それまで外国との交流手段であったオランダ語が通用しなくなった。

 外国の文化、技術、学問を取り入れ吸収していくにしても、まず英語が使いこなせなければ始まらない。

 そういう理由で、明治政府は多くの語学教師を外国から日本の学校へと雇い入れた。

 男の師である英吉利イギリスの教授も、お雇い外国人と呼ばれたそのひとりだったのだ。

 そう私は長南おさなみさまから聞いていた。


「僕は無邪気に日本での仕事を喜んでいましたが、教授にとっては事情が違ったようです。

当時の僕は何も気づいていなかったが、アンの言っていた通りのことがあったのでしょう。

教授がわざわざ外国人居留地から離れたここに住まいを決めたのも、今なら理由がわかります。

居留地で同国人の顔見知りと出くわしてしまうと、都合が悪かったのでしょう」


 本来であれば、日本での外国人の生活地区は政府によってきちんと定められていた。

 その外国人居留地以外での生活は認められていなかったのだが、例外的に、公立学校の教師として勤めている外国人は、日本政府の役人と同じ扱いをされ、居留地外での生活を認められたそうだ。

 これも長南さまが教えてくれたことで、この家は教授から、正しくは教授の後ろ盾になっているイギリスの議員から要望があって、長南さまが用意したものだった。


「日本で暮らしている中で、次第に僕の心は故郷から遠のいていった。

そして、代わりに日本への愛着が根づいていった。

日本の美しい風景、季節ごとに目を楽しませてくれる自然、街の人々の素朴な姿。

そのどれもに僕は愛情を感じました。

そして、何よりここにはチヨがいる」


 男の声が柔らかく言う。


「僕はチヨに恋をしていました」


 わかりきっていた一言に、しかし私の心臓は大きく跳ねた。

 はっきりとそう聞かされると、先刻承知の事実でもうろたえてしまう。

 なぜだか私のほうが恥ずかしくなって、つい目を伏せてしまった。


「たとえば、僕がチヨの夫となって、二人日本で暮らしていくことはできないだろうかと、そのときの僕は考えるようになっていました。

チヨの思い描く夢が、いつしか僕の夢にもなっていたのです。

ただ、チヨに言い出すことはなかなかできなかった。

イギリス人の僕が日本人のチヨと結婚することも、そして生涯を日本で暮らしていくことも、簡単なことではなかったからです。

何より、僕にはチヨが僕と同じように想ってくれているのか、自信がなかったのです」


 鈍い人だと思う。

 「チヨ」の気持ちはそれこそわかりきっていたはずなのに。

 けれどそれは「チヨ」も同じで、そのときは彼女も秘めたる恋心に悩んでいたのだった。


 似た者同士だったのだな、と私は呆れた気持ちで男の話を聞いた。


「随分と長い間、僕は自分の気持ちをどう告げようか迷いました。

まるで、彼女とはじめどうすれば打ち解けられるか悩んでいたときのように、何もできないまま日々を過ごしていました。

そうしているときに、そのきっかけは不意にやって来たのです。

あの写真を撮りに行ったときのことです」


 あの写真。

 たった一枚だけの、二人で撮った写真。

 男が手元にずっと残していた写真は「チヨ」にとっても大切な思い出だった。


「チヨは最初、恥ずかしがって写真を撮るのをいやがったのです。

それを僕が無理を言って頼み込んだので、チヨはようやく僕につき合ってくれたのでした。

写真館からの帰りに、僕がそのことのお礼を言うと、チヨはどこか寂しそうな微笑みを浮かべて言ったのです」


 ――あなたはいずれ海の向こうに帰ってしまう人だから。

そうしたら、もうこうして一緒に歩くこともできなくなってしまうから。

だから、今はあなたのわがままは何でも叶えてあげたいと、そう思ったんです。


 帰りの道すがら、「チヨ」はそう言ったという。

 お雇いの任期は三年。

 その任期終了が迫っていた頃だった。

 別れのときを思って、つい「チヨ」はそんなことを言ってしまったのだ。


「チヨの言葉に、僕は思わず言ってしまいました。

あなたの将来の夢の伴侶に、僕を選んではくれませんか……と」


 お互いにずっと想いはあった。

 けれど、言葉は唐突だった。


「何の準備もないままに、とっさに言葉が飛び出してしまっていました。

僕は彼女の返事を待ちました。

しかし、彼女の返事は得られませんでした。

チヨは顔を真っ赤にすると、僕を置いて走り出してしまいました。

まるでその場から逃げ出すような彼女の後ろ姿を、僕は呆然と見送るばかりで、追いかけていくことができませんでした……」


 甲斐性なし。

 私はこっそり胸の内で悪態をつく。

 そこはすぐさま後を追いかけて捕まえるのが男じゃないのか。


 しかし、男はそんな私の心中など知らず、苦笑して続けた。


「振られたのだと思いました。

チヨがもしかしたら僕と同じ気持ちでいてくれるかもしれないというのは、僕の勝手な思い込みだったのだと思いました。

僕はすっかり落ち込んで、一人家に帰ってきてからも、この部屋に引きこもっていました。

食事もとらずに、気づけば夜となっていて、何もする気になれずに、けれど眠ることもできずにいたくらいです」


 それは勘違いだったのだけれど。

 私は溜息をつきたい気分で思う。

 「チヨ」はただ驚いて、思わずその場から逃げ出してしまっただけなのだ。

 気持ちが落ち着くと、改めてきちんと返事をしようと決めて、家に帰っていたのだ。


 ただそれが、思わぬ横槍のせいで、円満には進まなかったのだ……。

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