第二十五話


   


 私は男の部屋の前に立った。


 もうとっくに日は中天を過ぎた時間だった。

 朝、食堂から部屋に引きこもってから、男はずっと出てこない。


 私は一瞬ためらってから、思い切って戸をたたく。

 片手に支えた盆の上には、作りたてのチヨコレイトが湯気を漂わせている。


 一度たたいてみただけでは返事がない。

 少し待って、もう一度戸をたたくと、今度は中からくぐもった声で返事が聞こえた。


「ミスター、具合はいかがですか? 

もしご病気のようなら、お医者さまをお呼びしましょうか?」


 扉越しの問いかけに、しかし答える声は聞こえなかった。

 不安に駆られて、今度はもう少し声を大きくして呼びかけてみる。


「あの、お加減を看させていただいてもよろしいですか? 

お部屋に入っても?」


 しばらく待ってみたがやっぱり返事は聞こえなかった。


「……失礼します」


 返事がないのがもどかしく、埒があかない。

 私は思いきって部屋の戸を開けた。


 窓の外の庭木が日をさえぎって、部屋の中は何となく薄暗く感じられた。

 床に敷いた敷物の上に、木漏れ日がまだら模様を作っているのを踏んで私は部屋へと入っていった。


 男の部屋は、必要最低限の物しか置かれていないようだった。

 物が少ないのだから散らかりようもない部屋の中で、椅子の背に脱ぎっぱなしの上着が無造作に掛けてあるのが、この男の気性にそぐわない感じがした。

 小さな卓の上に、口の開いた色つきの瓶と、飲みかけのカップが置きっ放しになっているのもそうだ。

 カップに残っている琥珀色の中身は甘ったるい匂いをさせている。

 見慣れない刻印の入った瓶は、洋酒の酒瓶なのだとわかった。


「ミスター」


 私は寝台のそばに寄って男に声をかけた。

 男は肩まですっぽりと布団にくるまって、まるで子供のように眠っているように見えた。

 けれど、私が声をかけると緩慢に身じろいで、まぶしそうに目を開けて私の方を見る。


「……ユメ」

「勝手にお部屋に入って申しわけありません。

お加減はいかがですか?」

「ああ……すみません、心配をかけてしまいましたか。

まだ少し、頭痛がするもので」

「ひどいようなら、お医者さまに来ていただきましょうか?」

「いいえ、それには及びません。

ただの二日酔いですから」


 そう言って、男は苦笑を浮かべながら寝台に身を起こした。

 乱れた髪を手ぐしでなでつけて、男は自嘲気味にこぼす。


「慣れないことはするものではありませんね。ひどい気分だ。

あなたにはみっともない姿を見せてしまって、本当にすみません」

「いえ……あの、何も口にされないのも体に悪いかと思って。

これなら、召し上がれるかと思って作ってきたのですが」

「ああ、ホットチョコレート。

ありがとうございます、いただきます」


 二日酔いならもっと別のものを作り直してきた方がいいだろうか。

 私はそう思ったが、男は盆の上から茶碗を取り上げると、一口飲んでほっと息をついた。


「甘いですね。とてもおいしいです、ユメ。

ありがとう」

「いえ、恐れ入ります……」


 部屋の中に、沈黙が舞い降りる。

 男は手の中の茶碗を見つめて、私はその男の横顔を見つめて、ただじっと黙っていた。

 庭木の梢がさわさわと風に鳴る音だけが、私たちの耳に届いていた。


「眠っている間、昔のことを思い出していました」


 ふと、男が茶碗に視線を落としたままつぶやいた。


「はじめて日本に来たばかりのこと。

この家に以前住んでいたときのことを思い出していました……チヨのことも」


 男が語ろうとしていることを、たぶん私は知っている。


 私は黙って、相づちを打つこともなく、先をうながすでもなく、耳だけを傾けていた。


 男は独り言のように、その話を始めた。

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