第二十二話


   


 吐き出される女の言葉の冷気に、その場の空気はすぐさま凍りついた。


 立ちすくんだ男に向かって、女の言葉は容赦なく次々と打ちつけられていく。


「はじめは、ただあなたが日本のことを懐かしんでいるだけだと思っていたわ。

未知の国での夢物語のような暮らし、不思議な冒険めいた体験のことを。

子供の頃にお気に入りだったおもちゃを、惜しむあまり捨てられないでいるのと同じことだって。

思い出を大事に取っておいているだけだって。

でも、違ったのね。

あなたは日本に、帰りたがっていた。

日本の恋人のところへ帰りたがっていた。

私のことなんか愛してなかった!」


 言いつのる女の声が次第に昂ぶっていくのがわかった。

 それでも感情が爆発しそうになるのを、女は懸命に耐えているのだった。


 全身を震わせながら自分を見据えてくる女に向かって、男は一歩踏み出し、落ち着いて声をかけた。


「アン、それは違う……」

「違うわけないわ! 

あなたは嘘つきよ。何もかも嘘ばっかりなのよ。

あなたもお父さまも、みんなみんな嘘ばっかり」


 男の態度が落ち着いていればいるほど、女の方は激昂していく。

 男が女に向かって伸ばしかけた手は、しかし彼女の体に触れるのをためらって宙で止まってしまった。


 聞くに堪えない。


 貴婦人の仮面がひび割れてかんしゃくがあふれるのを、私は冷ややかな気持ちで見ていた。

 いつも高慢な態度で私を見下し、澄ました顔つきで男のことを見ていたこの女が。

 今は顔色を変えて声を荒げ、なりふり構わず感情をぶちまけようとしている。


 私は勘のいい使用人の顔をして、男に小声で申し出る。


「私は下がっていた方がいいでしょうか」

「ああ、申しわけありません、ユメ。

先に行って、夕食の準備をしていてもらえますか。

僕はアンと話が」

Shut up!やめて!


 破裂音のような女の叫びが響いた。


 その聞いたことのない絶叫めいた声に、私も男も思わず女の方を見返した。

 私たちが唖然として見やる先で、女はとうとうその体にため込んでいた感情を爆発させた。


「私にわからない言葉で話すのはやめて! 

私の前でその言葉を使うのはやめて!」

「アン、落ち着いて」


 そのかんしゃくを落ち着かせようと、男が女の肩に手を伸ばす。

 しかし、その手は女を捕まえることができずに打ち払われた。


 女は自分で自分を抱きしめるように腕を交差させて、その場を後ずさりながらうめくような声を上げた。

 その声は燃え尽きない怒りのために昂ぶり、それ以上に、言い尽くせない哀しみのために濡れそぼっているように聞こえた。


「馬鹿にされている気分になるのよ。

あなたとその子が、私にはわからない言葉で、私のことを何て言ってるのかって。

私がわからないと思って、私の知らないところで好き放題言っているんじゃないかって」

「アン、そんなことは」


 男が冷静に否定しようとする言葉を、女は幼児がいやいやをするように首を振ってさえぎった。

 そして、乱れた髪もそのままに、涙の浮いた目で男をにらみつけながら、声を震わせて言う。


「いいえ。だってあなたは嘘つきですもの。

日本に恋人がいるくせに、私のことを愛しているなんて嘘をつくんですもの。

私にはわかるわ。

だって私も同じなんだもの」


 その女の言葉に、男の体も表情も凍りついたように静止した。


「あなたのことを、愛していないんですから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る