第二十三話
「あなたとはじめて会ったとき、私はまだ十代の少女だった。
日本での仕事を終えて帰ってきたばかりの父が、私とあなたを引き合わせた。
あなたはとても親切にしてくれたわね。
日本で出会った珍しいものの話をたくさんしてくれて、私のくだらない質問にも丁寧に答えてくれた。
私は物知りな年上の男性が、自分に優しくしてくれることに舞い上がっていた。
そんな私に父も言ったわ。
あなたとは仲よくしていい関係を築きなさい、と。
なぜだかわかる?
あなたが上流階級の、バース家の嫡男だったからよ」
女の言葉を聞く男の顔が、見る間に青ざめていくのが私にもわかった。
「父はあなたに、何と言っていたかしら?
あなたの論文はすばらしいって?
才能のある学生に出会えて幸運だったって?
そんなこと、全部父の口から出まかせだったのに、あなたは何も疑いもしないで、自分の才能を認めてくれたって喜んで。
でも、それは違ったのよ。
父が他の学生には目もくれず、あなたばかりをひいきにしていたのは、あなたの才能が特別だったからじゃない。
あなたの名前が、バース家の影響力が特別だったからよ」
「モートン教授は、そんな人じゃない。
彼は高潔な文学者で、権力におもねるような人では」
ようやくそれだけのことをしぼり出すように言った男に向かって、女は哀れむように微笑んでみせた。
「あなたにとってはそうなんでしょうね。
私の知る父はずる賢い俗物よ。
大学での学長の座、学会での名声、そして、いずれは政治の世界での権力。
父の頭の中にあることはそれだけよ。
そのためには、上流階級の教え子を抱き込むことも、そのために自分の娘を利用することもいとわない人なのよ。
私だって、そんな父の言いなりになってしまうような女なのよ。
あなたの優しさに浮かれて、父にそそのかされてその気になって。
これで私も上流階級の一員になれるのだと、馬鹿みたいに思い込んでしまった」
「君は、モートン教授の言いなりで、僕のところにいたというのか。
好きでもない男のそばに」
「好きだったわ。
でも、愛してはいないわ、ウィリアム。
あなたはどう?」
「…………」
「十五年、我慢してきたのは自分だけだと思っていた?」
女の台詞に、男は一言も返せなかった。
私は沈黙した男の横顔を盗み見る。
白皙の面はこわばって、もろく崩れてしまいそうな彫像に見えた。
「父が日本に来たのだって、学者としての興味や使命感なんて理由じゃなかったのよ。
大学でのつまらない権力争い、対抗相手に先手を取られて立場が悪くなってしまったから、ほとぼりが冷めるまで日本からの招聘を受けてやり過ごそうとしただけだったのよ。
それをあなたは、極東の国に我が国の言語と文学を教え広め、日本の文化をまた知るため、なんていう父の建前を本気にしていたのでしょう」
「…………」
「夢から覚めてちょうだい、ウィリアム。
私にはあなたがいつまでも夢の中をさまよっているように見えるの。
あなたが生きている世界は詩や小説の中にはないのよ。
あなたは今どこにいるの? 何をしているの?
さあ、目を開けて、現実を見て。
私と一緒にイギリスへ帰りましょう」
「…………」
「ウィリアム」
重ねて呼びかけ、決心をうながす女の言葉に、男は長く沈黙した後、低く短い言葉で答えた。
「……帰らない」
「あなた……」
「アン、君との婚約は破棄する」
「……本気で、言っているのね」
「すまない。
君とは結婚できない。
君の言った通り、全てが嘘なんだ。
だから、すまない」
「私に一人で帰れと言うのね」
「すまない」
「みんな、あなたに失望することでしょうね」
「すまない」
「私は世間で笑いものにされるでしょう。
婚前旅行に行った先で、婚約者に見捨てられた女だって」
「すまない」
くり返し、ただその一言だけを淡々と続ける男の顔を、女はじっと見つめていた。
そして、長く深い溜息をつくと、独り言のようにそっとつぶやく。
「……私の夢は、上流階級の貴婦人になることだった。
華やかな社交界の中心で、教養と品格をたたえられるような貴婦人になりたかった……あなたの妻として。
私の夢は今覚めたわ。あなたはいかが?」
不意に、女の視線が私に向けられる。
刺し貫くようなその強い視線を、私は真っ向から受け止めた。
「ウィリアム、あなたのかわいい恋人と再会できるといいわね。
再会できたところで、その人があなたのことを覚えているとは限らないけれど。
あなたのことを今でも待っていてくれるなんて、あんまり都合がよすぎるものね。
十五年も経って今更、でしょう。
今どこにいるかもわからない、生きているかどうかすらわからない相手なんて」
「アン」
「その人の消息がわかったとき、それがあなたの夢が覚めるときになるでしょうね」
毒のしたたるような言葉だった。
けれど、そう言って笑ってみせた女の顔は痛々しかった。
私は、きびすを返して部屋へと去って行く女の後ろ姿を、その昂然とした貴婦人の後ろ姿を黙って見送った。
男は黙然と、本当に彫像になってしまったかのように、青ざめた顔をさらして立ち尽くしていた。
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