第八話


   


 それでも、私は今まだこの西洋もどきな屋敷にいる。


 逃げてしまおうかとも思った。

 だが、下手なことをして、長南おさなみさまに本当に迷惑をかけてしまうのが恐かった。

 雇ってほしいと押しかけて、その無茶な願いを聞いてもらったところを出奔したら、評判が悪いどころの話じゃなくなる。


 それに、胸の奥に未練があった。


 あきらめきれない気持ち。

 捨てきれない、わずかな期待。

 ここで逃げてしまったら、横浜までやって来たことだけじゃない、私の今日までの人生、いや、私のものだけじゃない、長い歳月で積み重ねられてきた全部が無駄になってしまう気がして。


 だから、私はウィリアム・バースの元にいる。

 その本性を見極めるために。

 一週間。

 彼らが日本にいるこの一週間で、私はこの男を観察してやろうと決めた。


 ウィリアム・バースについて、彼を知る限られた人たちから私の聞いていた評判は、いいものばかりと言ってしまっていい。

 ただ、私はそのいい評判を、何一つ鵜呑みにはしていなかったけれど。


 ウィリアム・バースが、英吉利イギリスでは由緒ある家名の出身だとか、名門の大学に籍を置いていたとか、そういう世間的な評判は私にとっては意味のないものだ。

 私が知りたいのはそういう上辺のことじゃない。

 私はこの男の人となり、その心、考えていること、思っているものが知りたくて来たのだから。


 ウィリアム・バース。

 英吉利人。

 三十七歳。


 今はまだ、私にとってのこの男はそれだけだ。

 それがこれから、私の心にどんな肖像を浮かび上がらせるのか。

 そして、私の心の天秤が、どちらに傾くことになるのか。


 黒か、白か。


 それはまだわからない。

 いや、わからない、と思っていた方がいい。

 それが、長南さまが私に言った、先入観を持たずに相手と接する、ということになるだろうから。


 ただ、初対面から受けた印象は、どうやっても私の胸に強く残った。


 私の生まれ育った田舎には、もちろん外国人なんていなかったから、私にとってこれがはじめて外国人ときちんと接する機会となる。

 外国人は、特に英国人という人種は、気むずかし屋で高慢。

 そんな話を聞いたことがあったせいで、私はきっと余計に身構えてしまっていた。


 ウィリアム・バースは、私が知り合ったどの人とも違って見えた。

 もちろん、英吉利人であるから、まず外見の様子がまったく違う。

 ビードロのような瞳、感情の表れない顔つきは何だか冷たく感じた。

 髪を丁寧にそろえ、背広をきっちりと着込んだ格好からも、他の大人とは違った雰囲気が漂う。

 長南さまや、田舎の同じ年代の男たちとも違う。

 まるで知らない世界からやって来た人に見えた。


 けれど。


 少しの間、男と話し、観察してみて、また別のことも私は知った。

 ウィリアム・バースは私と話をしているとき、ことさらに丁寧な物言いをする。

 口調は必ず穏やかに落ち着いていて、この人が大声を上げることなど今までにもこれからも、きっとないのではないかと思えた。

 そして、そうして話をしているとき、彼の表情も穏当だ。

 ときには微笑を浮かべたりして、それが普段の冷ややかな印象を和らげる。


 それが意識的にそうしているのだということを、私はすぐに知った。

 そうして私に気を遣っているのだ。

 そういう気遣いのする人なのだと、私は自然に察することができた。


 そうする理由が、私が子供に見えるからか、知人の縁者だからなのか、それとも他のわけがあるのかは、わからなかったけれど。


 その印象に反した優しげな振る舞いに、私の中の天秤はふらりふらりと左右に揺れるのだった。

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