第七話
頭を上げた私の耳に、屋敷の奥から廊下をやって来る足音が聞こえてきた。
足音は真っ直ぐに客間までやって来る。
そして、驚く私の視線の先で客間の扉が開くと、その足音の主が姿を現した。
現れたのは、外国人の女だった。
「
女は細い眉をひそめて私を見やり、そして男に向かってかすれたような声で短く尋ねる。
予想外のことに体も頭も固まってしまった私を他所に、男が立って女を客間に招き入れると、私が聞いている前で二人は英語で会話をはじめた。
「アン、具合はもういいのか?」
「ええ、少し長旅で疲れただけみたい。
横になっているうちにだいぶよくなったわ。
それより、話し声が聞こえたから来てみたのだけど。お客さま?」
「その子はユメ。
日本の文部省のオサナミ氏の縁者だそうだ。
以前に話したことがあっただろう、モートン教授と共に招聘されたときに大変お世話になった人だ」
「ええ、父からも聞いたことがあるわ。
けれど、なぜその人のところの子がここへ?
確か連絡が取れなくなったと、ウィリアム、あなた言っていたでしょう」
「何か事情があったようでね。
その子が代わりに、わざわざあいさつに来てくれたのだ。
それで、我々の滞在中、その子に世話役を頼むことになった。
構わないだろうね?」
「その子が?」
女がいぶかしそうな目つきで私を一瞥する。
私は二人の英語での会話を正確に聞き取りながら、女の様子を観察するのに精一杯になっていた。
女は明るい色の髪と目をしていた。青ざめた頬をしているが、美しい人だ。
歳はたぶん男よりも下だろう。
ほっそりとした体を裾の長い洋装で包んで、すらっとたたずんでいる様子は西洋の貴婦人そのものだ。
予想外だった。この屋敷に他に人がいるなんて。
この女は何者だろう。
男と親しそうな口のきき方をしている、この女は。
「ウィリアム、どういうこと?
世話役って、まさかその子、ここに私たちと一緒に住むの?」
「我々の滞在中だけのことだ。
君にとっては初めての日本だし、君は日本語がわからないだろう?
身の回りの世話をしてくれる人間がいれば、何かと助かる」
「その子、言葉が通じるの?」
「多少、英語は勉強しているようだよ。
働き者のようだし、何より、日本の友人のところから来てくれた子だ。
受け入れてあげようじゃないか」
「……あなたがそう決めたなら。私は反対しないわ」
そう言う女の顔には、ただし歓迎もしないが、とはっきり書いてあった。
私が椅子に座り込んだまま黙って二人のやり取りを見ているのを、英語が聞き取れないせいで戸惑っていると見えたのだろう。
男はことさら丁寧な仕草で私を立たせると、私と女を引き合わせながら日本語で言った。
「彼女はアン・モートンといいます。
僕と一緒にイギリスから来ました。
彼女は日本に来るのは初めてなのです。日本語もほとんどわかりません。
滞在中、この家に共に暮らす者として、どうかよろしくお願いします」
「……ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ」
私のたどたどしい発音に、女は優美と言っていい笑みを浮かべた。
「
私は頭を殴られたような衝撃を感じて目がくらんだ。
女のなめらかな口調。
その中から飛び出してきた単語。
Mrs Bath……バース夫人と、はっきり女は言ったのだ。
女の隣で男が小さく溜息をついた。
そして、私に向かって、
「申しわけありません。
彼女は本当に、日本語も日本の作法も何も知らないものですから」
「このご婦人は、あなたの……」
「婚約者なのです。
日本には婚前旅行という名目で来ました。
イギリスに戻り次第、式を挙げる予定です」
臆面もなく言ってのけた男の顔と、微笑みを崩さずに男のそばに寄りそう女とを見つめる私の胸に、じわり、とにじんでくるものがあった。
私はそれを、恨みだと感じた。
恨めしいという思い。
憎らしいという思い。
そうか、この男は、何もかも忘れて、この十五年という歳月を過ごし、海の向こうでのうのうと暮らし、そして、今更恥ずかしげもなく日本の土を踏みつけに来た。
他の女を婚約者にして。
他の女と結婚すると言って。
この男は、人でなしだ。
心の天秤が、黒い方に傾く音を、私は聞いた。
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