第九話


   


 そうして、横浜にやって来てから三日が過ぎていた。


 朝、まず私の日課となっているのは台所に立つことだ。

 私はここでまず朝食の準備をした。


 日本と英吉利イギリスでは食事の習慣も随分違うのだと聞いていた。

 英吉利で一日の食事は、朝に昼、夕方とそして夜食まで毎日とるという。

 献立は、パンに卵、ハムやベーコンの肉、魚、馬鈴薯ばれいしょを使った和え物、蒸し料理などなど。

 それに毎食後にお茶と、ときには食後の甘味もつくというのだから、英吉利人というのはずいぶんな大食漢なのだと、話を聞いたときには驚いた。


 横浜のこの家は、外国人居留地からは離れたところに建っている。

 だから、外国の食べ物や日用品を買い出しに出かけるのは、少しばかり手間がかかる。

 まして、私は英国風の食事などこしらえたことはなかったから、見よう見まねでどうにかなるだろうか、と不安がよぎった。

 しかし、そんな私の心中を見通したかのように男は言った。


「食事は日本のものを用意していただいて構いません。

僕たちはそれを喜んでいただきます」


 怪訝に思って男の顔を見返すと、男は口の端をあげて笑ってみせながら言った。


「When in Rome,do as the Romans do.

我が国のことわざです。

日本でもいうのでしょう? 郷に入っては郷に従え、と。

さしずめ、When in Japan,do as the Japanese do ということです」


 そういうわけで、私は慣れ親しんだ日本の料理を作ればいいということになった。

 私にとっては、一つ難題が消えたわけだけれども、男の知的な言い様は嫌味だった。


 ただ、男から朝食には一つ注文がついた。

 ホットチヨコレイトを作ってほしいというものだ。

 作り方を知らないと言うと、男は私と台所に立ってそれを作ってみせた。


 まず、牛乳を入れた小さな鍋を火にかける。

 生姜と肉桂ニッキを少し入れて、暖めながらかき混ぜる。牛乳が沸騰すると、ふわりと生姜の香りが立った。


 火を止めて、取り出した生姜と肉桂の代わりに入れるのは、細かく砕いた黒い舶来菓子――チヨコレイトだ。


 チヨコレイトがよく溶けるまでかき混ぜていく。

 白い牛乳に黒いチヨコレイトが混じり合っていく様子を、私は無心に見つめる。


 すっかり溶けきって黒い液体となったら、最後に砂糖を加えてもう一度かき混ぜればできあがり。


 この暖かい飲み物にしたチヨコレイトを、男は朝食で必ず口にするのだった。


 これの作り方を、私は屋敷に来たその日に男から教えられた。

 台所に紳士と並んで立つというのも妙な体験だったが、それ以上に、男が慣れた手つきであっという間に飲み物を作ってしまったのに驚いた。

 そして、味見にはじめて口にしたこの飲み物は、とても甘く、生姜と肉桂の香りが溶けて、一口飲んだだけで体の奥からぽっと暖まるものだった。


 男は丁寧に、私に作り方を手ほどきした。

 私は分量、火加減、鍋をかける時間をいちいち頭の中に書きとめていった。

 そして、男の好みの味を正確に作れるようになると、男は満足した様子でうなずいたのだった。


 毎朝、私はあの男のために一杯のチヨコレイトを作る。

 鍋の中の牛乳をゆっくりかき回して。

 憎しみを込めて。憎しみを込めて。

 白い牛乳は渦を巻く。

 チヨコレイトと一緒に落とした私の悪意が、牛乳の中でかき回される。

 黒くなる。黒くなる。

 真っ白な牛乳が黒くなる。

 毎朝、毎朝、毎朝。

 私の悪意は毒になる。

 牛乳の中の悪意は、あの男に飲み干されてその血管を巡る。

 毒が巡る。毒が巡る。

 誰にも気づかれないまま、毒は巡る。


 ……鍋の中を無心に見つめながら、私は自分の心の中も、同じように渦巻いているのだと想像していた。

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