第五話
「
「オサナミ? 文部省のオサナミ氏のことですか」
男の言葉に私はうなずいた。
長南さまの名前を出すことは正直気がとがめた。
生まれたときからお世話になっている恩人に、何か迷惑をかけることになりはしないかと。
ただそれでも、うそは言っていないという思いと、この場を乗り切らなくてはという思いで良心の呵責をごまかした。
男にとっては懐かしい名前だろう。
ふと表情をわずかに和ませて男は、
「オサナミ氏には昔、日本にはじめてきたときに大変お世話になりました。
この家も彼が手配して用意してくれたものです。
今回、久しぶりの滞在のために連絡を取ろうとしたのですが、彼の代理だという人としか連絡がつかず、心配していたのですよ。
彼はお元気ですか? 今も文部省で働いている?」
「長南さまはお元気です。
お役所のお勤めは何年も前に退職されました」
「そうだったのですか。それは知りませんでした。
日本の政治体制も、以前僕がいたときとは随分変革されたようですからね。
日本の友人で、特に僕と個人的に伝手のあるのはオサナミ氏だけなので、今回も頼みとしていたのですが」
「自分はごあいさつにうかがえないので、私が代わりによろしくお伝えするようにと言われました」
男は思いの外、私の言葉をすんなり信じた様子でうなずいた。
長南さまは私の後見人だ。
私が生まれたときから何不自由ないよう面倒を見てくれた長南さまは、育ての親といってもいい人だが、私はただ恩人と思っている。
恩を感じ、感謝もしているが、家族と思って慣れ親しむことは幼い頃からできないでいた。
長南さまが文部省を辞職したのは、私の生まれる前のことだったと聞いていた。
それは何の前触れもなく本当に不意のことで、同じ省の同僚も友人知人も、後からそのことを知って驚かされたと聞いたことがあった。
日本の知り合いですらそうだったのだから、
今の長南さまは、生まれ故郷の田舎に引き込み、すっかり隠居の身の上だ。
経歴から見れば随分と慎ましやかな住まいを構え、日がな一日、読書と庭木の手入れに明け暮れている。
そんな方に、私は衣食住の面倒をかけ、更には田舎娘には分不相応な教育も、長南さまの手ずから受けさせてもらっていた。
今、私がこうして横浜までやって来ているのも、長南さまが教えてくれたからだ。
英吉利から、この男がやって来ていると。
英吉利人の青い目が、ずっと私を見つめている。
その眼差し、私を見つめる眼差しがふと遠くなる。
何かを思い出すように。
長南さまの名前から私の顔に面影を見つけてしまっただろうか。
不安に駆られて、私はとっさに訴えかける口調で言った。
「私は働かなければならないんです。
仕事を探しています。
あなたは親切で優しい方だから、きっと無下にはなさらないだろうと聞いて。
突然うかがったら驚かれるとは思ったんですけど、でも私、どうしても他に思いつかなくて」
再びまくし立てはじめた私に向かって男は鷹揚にうなずいて見せた。
そして、
「ひとまず、中にお入りなさい。
そこで落ち着いて、ゆっくり話を聞かせてください」
そう言って、男は私のために玄関の扉を大きく開けてくれた。
うまくいった。
何とか計画通りに事が運びそうな気配に、私は息を呑んで背筋を正した。
そして、男が身を引いて空けてくれた玄関ホールに、おずおずと恐縮した風を装って踏み込んでいった。
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